老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

511;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔2〕 「吐き戻す」

2017-11-04 08:21:59 | 33年間介護を続けてきた理由
33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔2〕 「吐き戻す」 

同じ福祉業界とはいえ転職を繰り返した
私の青い鳥症候群はこれ以降も落ち着かず
石の上にも3年よりは続いたが、定着までには至らなかった。

面接の通知が来た。
32歳になり、「介護したい」ために応募したわけではなかった。
前の福祉施設が嫌で逃げてきた人間であり、問題意識も皆無であった。
面接時に「男性だけれどおむつ交換はできるか」
「生活指導員は、あなたより年下の男性になるが、
その下で寮夫として働けるか」と質問された。
2つの質問に対し、躊躇うこともなく二つ返事で「はい」と答えた。

7日後に採用決定の通知が届き
昭和59年4月1日から「身体障害者療護施設 生活指導員」として採用された。

生活指導員の仕事は、福祉事務所からの利用者受入れ相談、
入所にあたり利用者、家族との調整、行事計画、利用者処遇計画作成、
各職種間(事務員、看護職員、寮母・寮夫、栄養士、調理員)の連絡調整役であった。
8時間デスクに向かい、事務だけの仕事では
利用者の状態は把握できない。
寮母・寮夫と一緒になっておむつ交換、入浴介助など利用者の介護にも関わった。

定員50名の介護施設で
利用者の年齢は18歳から63歳までと幅があった。
養護学校高等部(いまは支援学校)を卒業した脳性マヒの利用者の他
脳卒中後遺症、糖尿病、交通事故、労災による事故で障害者になった利用者たちが
入所となった。
高等部卒業の利用者を除き、他の利用者は年上であった。</fon

いまでも印象に残っている結城明子さん(当時42歳)のことが頭に浮かんでくる。
彼女は、重度の知的障害の他に聴覚障害も持っていた。
言葉は喃語であり意味不明であった。
農家の家に生れ、いつも陽の当たらない座敷に閉じ込められていた。
そのため外へ出ることもなく、歩くことはできず
足は幾分「く」の字に曲がり、
両手は常に頭を抱えるような感じで万歳をしていた。
十分な食事は摂れてはいなく痩身であり、顔は白かったのを覚えている。
食事、排せつ、着脱、入浴などの日常生活行為はすべて全介助であった。
彼女が入所し、居室(4人部屋でベッド生活)、2時間後に便失禁したので、
寮母と一緒におむつ交換を行うことになった。
便は緑色がかった軟便であり多量であった。
他人の便の臭いにはまだ慣れておらず
特に彼女の便臭は、他の利用者とは違い強烈であり目にも染みるほどであった。
何を食べたら、これほどまでに生臭い便になるのか。
昼に食べた物がむかむかし、こみあげ嘔吐寸前になり
慌てて居室のはきだし口に走り、窓を開け「ゲエ~ゲエ~」してしまった。
いま思えば、利用者に対し随分失礼な行動をしたものだ、と反省している。

慣れとは恐ろしいもので
便失禁したおむつ交換のとき
便臭にも慣れてきた。
明子さんのおむつ交換時、嘔吐することもなくなった。

いまでは利用者の排便状態を話しながら、カレーライスを食べれる。
対して自慢できることでもないが・・・・</font>



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510;33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔1〕 「利用者を喰いものしてしていた福祉施設を飛び出す」

2017-11-04 00:00:08 | 33年間介護を続けてきた理由
33年間、介護を続けてきた理由(わけ)〔1 
”利用者を喰いものしてしていた福祉施設を飛び出す”


35年も前の話になる。
私は花の東京で
俗に言う”家庭崩壊した子どもの面倒をみる”児童養護施設で働いていたが
都会の色に染まらないうちにと思い
鞄と段ボール箱一つで、筑波山が見える常陸国に移り棲んだ。


戦前 南朝鮮から強制的に連れて来られ酷使そして搾取された朝鮮人が経営する社会福祉法人、
福祉施設に就職した。
そこは児童養護施設、知的障害児施設、知的障害者厚生施設、保育園を経営していた。
最初は児童養護施設の児童指導員として辞令を受けたが、
2歳から18歳までの子どもが80人 生活されていた。

子どもたちの学力は低く、万引きや下級生虐めも多かった。
私よりも年齢は2つほど上の理事長の息子と意見で対立していた(理事長の息子は知的障害者厚生施設の事務長だった)。
施設の子どもが「問題行動」を起こすと、
児童養護施設に来て、その子どもたちに対し「反省させる」という大義名分で
日常的に体罰、食事抜きなどの虐待が横行していた。
児童養護施設の職員は、事務長の横暴に意見をする者はいなかった。
(意見しようものなら退職せねばならない)
措置費(国等から支給される施設事務費や子どもの養育費)は何に使われているのか使途不明金も多かった。
虐待や施設の金の使い方など他の職員に話していき、理解者を1人、2人、3人と増やしていったら
理事長、事務長はこれではまずいということで、
翌年は、事務長のお膝下で私を監視する目的で、知的障害厚生施設に移動された。

私より年上の男性知的障害者と毎日、炎天下草むしりを行った。
児童養護施設はブロック造りで下水道の配管は細く、よく詰まり
男性職員がかりだされていた。
糞尿車(バキュームカー)の吸引と排出の力を利用し、下水管の詰まりを修復していた。

忘れもしない34年前の大晦日。糞尿車のホースを持っていた私は、
事務長の(悪意のある)悪戯で、予告もなく排出のレーバーを「開」に回転させたため
私が手にしていたホースは滑り逃げ、私の頭上から糞尿がドバッ~と降りかかってきた。
糞尿で頭髪はベタベタ、目や鼻、口にも糞尿が入り、未知の味を体験、
風呂に入り、体を何度洗っても糞尿の臭いはしばらく消えなかった。

草むしりの合間にブロック造り、作業場の床はコンクリートであり冬場は暖房もなく、冷え寒かった。
そのため痔になり、30歳のとき痔の手術を行った。
出産するときのような姿勢で手術を受け、二度とあのような姿勢はしたくない。
知的障害者施設でも知的障害者の障害年金が振り込まれる通帳を経営者が管理し
担当職員はどのくらい残高があるのか知らされることもなかった。
親は、誰も面倒を見てくれない知的障害の子どもの世話をしてくれる施設に感謝し、預金は経営者に一任という形をとらされていた。

女性の軽度知的障害者は、理事長宅に行き、毎日家政婦代わりに使われていた。
男性の利用者は、身内が経営する衛生社に派遣され、障害者雇用という形で
糞尿車(バキュームカー)の助手として、ただ働きのような超低賃金で各家庭の糞尿を汲み取りの作業をさせられていた。
糞尿車の運転者は運転席にいるだけで、軽度の知的障害者だけが汗水を流し動き回っていた。

児童養護施設で話ができるようになった同僚から、こんな話をされた。
「理事長や事務長など経営者一族は、いま日本国籍になっているけれど
戦前は日本人に苛め抜かれた。今度は自分たちは日本人に仕返しをするのだ。
施設の利用者から儲けることであり、日本人の施設職員は経営者に従って働いておればいい」。
ここの施設に長くいても未来はない、と思い、退職届を出し2年間で辞めてしまった。
いま振り返ると、若気のいたりしかなく、逃げてきただけであり、そこで踏ん張るべきであった、と反省、後悔をしている。

たまたま隣町で身体障害者療護施設の寮母・寮夫(介護職員)を募集していることを知り、履歴書を郵送した。


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