老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1258; 男三「人」で一晩を過ごす

2019-10-27 09:41:02 | 阿呆者
男三「 人」で一晩を過ごす

療養病棟の看護師から
「会わせたい人がいれば連絡してください・・・・」と、

サタおばちゃんの状態が厳しくなってきた
昨夜は 四女、五女(wifeの母親)、(わたしの)wifeの三人が
病室で見守りをすることになった

自分はwifeの家に戻り
要介護1(要介護2に近い要介護1)の義父とbeagleげんきの「世話」をすることになった
男三「人」の暮らしとなった

いま、げんきは、右前足を捻挫したのか
歩き方がおかしく 見ていて痛々しい
(7日前に受診し痛み止めの粉薬を処方してもらった)

げんきと飼い主(自分)、ともに
不自由な歩行状態にある

老子曰く
背伸びをしても、長く立ってはいられない。大股で歩いても、長くは歩けない。

いまの自分は
snoopyの図柄が記された白杖を頼りに歩き
あるがままの状態を受け入れ
いまできることを為す


療養病棟の老人から感じること想うこと


サタおばちゃんの病室を訪れるたび
療養病棟で療養されている老人の姿を眼にし
生きることの意味を考えさせられる

というのは、
掛布を被っていても
ほとんどの老人は

躰が「まるく」なり、両脚は「く」の字になり
胎児のように両膝を抱えながら臥床している
またある老人の両脚は
「X」字に交差し、バレリーナのように足先が伸びている

言葉を発することもない
天井か壁を見つめるだけの時空間
生命の綱は点滴と医療スッタフの看護(care)

長〜い間、介護施設や療養病棟の世界から離れていた自分
暫くぶりで療養病棟に生きる老人たちの光景を眼にし
「生きる」とは
病を抱え老い生きていくこと
それは自分も同じであり
この先自分もどうなるかは
曇り硝子の如く不透明である

明日、自治医科大学附属病院循環器科の外来受診を終えたら
阿武隈川の辺りに帰り
9日間も休んだケアマネジャーの「仕事」に復帰せねば・・・・

時間が「ある」のか、「ない」のかは
この先わからない
人間はいずれ死ぬことはわかっているけれども
「明日死ぬかもしれない」

そう思いながら生きていると「疲れ」てしまう
ただ、言えることは
いま(今日)を生きることである

このことも、いまに生きる認知症老人から教えてもらった
その大切なことを忘れ
時間を無駄にしながら過ごしいる自分が「居る」

生きていることだけで丸儲け
湖のほとりに住む ある女性から教えてもらった

人生を陽気に生きる