老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1263;長男が味噌汁を作ってくれたことが 一番うれしかった

2019-10-30 06:35:31 | 老いの光影 第5章
長男が味噌汁を作ってくれたことが 一番うれしかった


サタおばちゃんが話してくれたこと

 私は、108歳の頃まで
汗が流れるほど暑い夏の季節であっても、木枯らしが吹く寒い冬の季節であっても、
毎日欠かさずシルバーカーを押しながら1時間余り散歩することを楽しみにしてきた。

私は、明治41年10月22日、茨城県(旧)下館市五所村に生まれました。
子どもの頃は、弟たちを背負い、着物と下駄で尋常小学校に通ったこともありました。
尋常小学校4年の2学期まで通いました。
その後17歳まで家事手伝い、18歳から農業を行ってきました。

19歳のときに安達善一のもとに嫁ぎ、農業に従事しました。
結婚後、1男5女の子宝に恵まれ幸せでした。

夫にも赤紙(召集令状)が届き、戦地に赴き(おもむき)ました。
留守を任されていた私の心は、いつも夫のことが心配であり無事を祈っていました。
しかし、南シナ海で敵の攻撃に遭い、昭和18年1月14日還らぬ人となり、目が真っ暗になりました。

これから女手一つで、上は13歳、下は父親の顔を見たこともない乳飲み子まで、
6人の子どもを育てなくてはならなかったのです。

それこそ毎日、朝から晩まで脇目もふらず必死に畑仕事をしてきました。
それでも何とか食べていける程度でした。
何より毎日畑に出なくてはならなかった私は、
子どもたちと出かけることは一度もできず、
本当に申し訳なく悔しかったことを覚えています。

ある冬の日のことです。
公用でどうしても役場に行かなくてはならず、用を済ませて家に帰ってきた私に、
長男が「母ちゃん、寒かったろう~」と、普段したこともない料理をして、お汁を作ってくれていたのです。
本当にうれしく泪(なみだ)がこぼれました。

日頃どんなに疲れていても子どもたちの笑顔をみると、
疲れは一瞬で吹き飛んでしまい、
長年頑張ることができました。
本当に子どもたちは私の大切な宝です。

生きてきたなかで一番思い悩んだのは、5人の娘たちのことでした。
恋愛結婚ならば、娘が自分で「良い男性(ひと)だと思って嫁ぐからよいのだが、
見合い結婚した娘の方が心配でした。
夫が傍にいれば相談もできたのだが、「あれでよかったかどうか悩んだ」こともありました。

どの娘の夫もアル中でもなく、夫婦円満に暮らしてきたので本当によかった、と思います。

現在、一番頭の長女は89歳、末っ子の五女(妻の母親)は76歳になります。
夫の月命日14日には、子どもたちそれぞれが、思い思いの手料理を持ち寄りながら実家に里帰りをしてくれます。
私を囲みながら賑やかに話をしたり食事をしたりなど楽しく過ごしてきました。
どの子どもも親孝行で、本当にありがたく思います。

長生きの秘訣は、腹八分ではなく腹七分、
のん気な気持ちで、いつまでもくよくよしないこと、
早寝早起きの生活(規則正しい生活)をしてきたことかな。 

昭和20年代後半の自転車は、現代でいうならば自動車のかわりでありました。
自転車があると実用性があって便利だったけれども、ケガをしたら大変だから乗りませんでした。

父親の役目もあり大黒柱だから、人生 自分の足で歩いてきたことが良かったのかな。
事故にも遭遇せず、今日まで生きて来れたことに「感謝」の一言です。
孫13人、曾孫23人、玄孫(やしゃご)11人います。      

1262;聴こえる 其の弐

2019-10-30 05:35:33 | 阿呆者
聴こえる 其の弐

令和元年10月29日 7時23分
安達サタさん 111歳と7日 生きた!
息子 娘 孫たちに見送られ逝った

ほんとうにほんとうにお疲れさま
ありがとう の気持ちでいっぱいです

自分にとり
最後に手を握ったのは
亡くなる前日の朝です

ほんとうかそうでないかは
体験したことがないので
わからないけれど

にんげんは
最後は目が見えなくなっても
耳は聴こえている、と
ドクターは話されていた

きっと眼を閉じ眠っている状態であっても
聴こえている

そう思って自分も
白髪を撫でたり
手を握りながら
「ありがとう}を呟いた

wifeの呟きは長かった
「おばちゃんが、一番先に、わたしたち二人の結婚を認めてくれた。
あのときはほんとうに嬉しかった。ありがとう~」