老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

仙厓和尚伝❷

2020-10-16 03:24:14 | 読む 聞く 見る
1716 仙厓和尚伝❷



極貧にあり 三男として生まれた子は
ろくに食べさせてもらえず、躰は小さく、泣き虫であった
親からは「うまれそこない」と愚痴られた。
猿の顔に似ていたことから、兄や村の悪童からも「四国猿」と囃し立ていじめられていた。
四国猿は、普通の猿より小さかった。

「四国猿の遊びは、村はずれにある汾陽寺(ふんようじ)であった。
汾陽寺は、当時、近隣の禅寺の和尚が数か月ごと交代で住職を勤める輪番寺

四国猿は汾陽寺に野良犬が棲みつき、家に帰らなくなった。
和尚たちは雑用を言いつけるかたわら、読み書きを教えた。

11歳になったとき、当番の和尚 清泰寺の空印円虚は、自分の寺へ連れて行った。
清泰寺で頭を剃り、義梵(ぎぼん)という名を与えた。

義梵は、こまねずみのように動き働き、人の嫌がる作務(さむ)を進んで行った。
夜は膝に削ぎ竹を立てて眠気を払い、経本を読んだ。

義梵は、12歳の12月のとき
碧巌亭(へきがんてい、本堂の裏山にある小道場)で8日間、ぶっ通しの座禅を、小僧でただ一人やりとげた。
空印円虚は「梵、お前は古月祖師の亡くなられた年の生まれじゃったな。同じ日のようじゃ。
してみれば、お前は、祖師の生まれ変わりかも知れんのう」
(52頁)
この言葉が、義梵の将来を決めた。

義梵は、空印円虚の兄弟子にあたる武州東輝庵 月船和尚を訪ね行脚に出た。


今日も 自治医科大学付属病院腎臓外科受診の日
ブログを閲覧できる時間もなく失礼します
5時半過ぎに自宅を出て、帰宅は夕方になる