1700 南 杏子『サイレント・ブレス』看取りのカルテ❶
~死の受容とは、生きることそしてあきらめること・・・~
文庫本の最初の頁に『サイレント・ブレス』について
静けさに満ちた日常の中で、穏やかな終末期を迎えることをイメージする言葉です。
患者や家族に寄り添う医療とは何か、自分が受けたい医療とは
どんなものかを考え続けてきました。(6頁)
水戸倫子医師は、新宿医科大学総合診療科の外来診察で10年間、患者の診療にあたっていた。
或る日、大河内仁教授に呼び出され、関連病院である「むさし訪問クリニック」の異動を勧められた。
彼女は左遷された、と思った。
教授から「医師の勉強は大学を離れてから始まる」、と言われたもの、水戸医師は素直に受け止めきれなかった。
不本意ながらもむさし訪問クリニックでの訪問診療が始まった。
最初の患者は、知守綾子(45歳)、7年前に乳癌を発症し手術を受けた。
抗癌剤治療を続けるも、再発し、肺と肝臓へ転移し末期癌となった。
綾子は有名なジャーナリストで『ドクター・キュープラー・ロスとの対談』という科学書を出版されていた。
この書物は「死を受容する五段階」について書かれたものであった。
その当の本人が末期癌に罹り、死に直面した。
綾子は水戸医師の前で挑戦的かのように喫煙をしたり
正体不明のスキンヘッドの男を病室に招いたり、一度外泊をしたりなど不可解な行動をとっていた。
病状は進み酸素マスク、最後の処置を行った後、綾子の呼吸は苦しくなり
もう最期の場面になったとき、スキンヘッドの男が部屋のドアを開け入ってきた。
「般若心経」を手にし臨終勤行を始めた
スキンヘッドの男は、実は浄楼寺住職 臨床宗教師 日高春敬氏であった。
臨床宗教師は、終末期の患者に対して何を為すかは、『サイレント・ブレス』84頁に詳しく記載されている。
綾子自身、
「いざ自分の人生の終末に臨み、綾子は激しい悩みや苦しみに苛まれていた」
「私の人生はこれで良かったのだろうか」と、
日高住職と何度も尋ねてきた(対話をしてきた)。
彼女が住職と出かけ外泊した先は、老人ホームに入居しているお母様を訪ね
死ぬ前にお別れを言いに、お母様の部屋に泊まった。介助役として住職がかかわっていた。
彼女が他界してから彼女から一冊の本が送られてきた
『死ぬ瞬間のデュアログ』だった
著者は、知守綾子と日高春敬となっていた
本の帯には「生と死をめぐる二人の対談」と書かれていた。
「死を受容できない自分を受容する」ことで
臨床宗教師に導いていただきながら自分を受容した彼女。
自分は、「相手はどう死を臨んでいるのか」
自分の頭で考えがちだが、大事なのは相手が死に対しどう臨んでいるのか
そのことを思いやる(思い知る)ことの大切さを
知守綾子さんから教えられた。
最後まで ジャーナリストとして生き抜き死と対峙された彼女の生き方に頭が下がる思いです。