自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

体罰,かけがえないいのち

2013-01-18 | 随想

大阪市立高校のバスケット部の顧問教諭が2年生男子生徒に暴力と見違うほどの体罰を繰り返し,それが原因となって生徒が自殺するに至るという痛ましい出来事が,世の見識・常識を揺り動かしています。

教諭が繰り返してきたらしい体罰,他の部でも同様の事案があったという事実,管理職が確認していたにもかかわらずそれを黙認していたという事実,何といっていいかわからないほど悲しい話です。

事案が発生してから保護者に対する説明会が行われ,その後,報道陣に語る姿がテレビニュースで流れました。そのことばから,我が国の部活指導一般がいかに古めかしい感覚のままか,如実に語っているように思われました。典型は次のことばでした。「中には,厳しい指導を認めていただく声もありました」。もちろん,そうした声は一定数あるでしょうが,こんな非常事態に内部関係者からまず出てくるというのはどういう感覚なのでしょう。わたしは耳を疑いました。

「指導のあり方をどう評価していただこうと,それをきっかけに生徒がいのちを絶ったと考えると,指導,管理ともに責任を厳しく問われるのは当たり前です。どんな言い訳も通じません」。なぜ,こういえないのかと思うのです。

こうした指導をしてきた人,容認する人は,自分がそうしたかたちで指導をされた経験が染み込んでいるのか,次代を引き継ぐ者に対し同じことを力の論理で繰り返しているに過ぎません。そこに見えるのは身勝手なプライド意識だけ。

こんな体質が続く限り,いのちを絶った生徒の立場がありません。どうして管理職の口から先に自己防衛のようなことばが出てくるのでしょうか。これがたぶん,教育界に身を置く者がもつ非常識的な事なかれ主義体質なのでしょう。ひどく傲慢です。想像力の欠けらもありません。自浄努力のできない“おらが教員”体質ともいえるでしょうか。

新聞やラジオ,テレビでいくつかの話を聞いていて,やはりそうだなと思ったのは「ある程度の厳しい指導は必要」「ある程度の体罰は許される」「自分にも厳しい指導に耐えて成長したきた過去がある」といった論調です。民放のアナウンサーまでもが,自分の経験にもとづいて体罰を伴う指導を半ば認めていたのにはガッカリしました。これが我が国のこれまでのふつうの流れだったようです。その雰囲気の中で学校の鈍感さは放任され見逃されてきたのです。

 

わたしは,体罰を容認するような風潮に対して「これはちょっとまずいな」と感じていました。そこに,指導者である大人がまず絶対的な君臨者であるようなニュアンスを感じとったからです。導く者,導かれる者の間に上下関係がくっきりとあって,絶対善を押し付けるような“偽善”を嗅ぎ取ってきたからなのです。

そこには,導かれる者自らが判断し,行動する主体者になりうる余地はまるでありません。あるのは服従・屈服の強要だけです。独善的な“気合い”“道徳”の押し付けといってもいいでしょう。

                                        (つづく)

 (注)写真は本文とは関係ありません。