志津川高校の避難所にいる私です。
妻と高齢の両親は2次避難先の鳴子温泉中山平です。
こんな状況になってしまったことは、なんて云えばよいか...助かっただけでも良かったものか、
とにかく、いたしかえし(痛し痒し)のつかない、
どっちとってもぐあいが悪い私としては早く仮設住宅に当選し.....現住所が欲しいのです。
ここ最近になって少しだけ涙がこぼれるようになりました。
何もかもが無くなったお店だったところに立ち、あの頃を見渡すと...です。
下の写真は津波後の翌朝(3月12日) am6:05 頃の画像です。
川を横切っているのが八幡橋です。
我が家は...右手に見える茶褐色鉄骨だけの建物は防災庁舎、
川沿い左手に小さい骨組みの建物が見えますよね、その中間にあるのが我が家なのですが、
水に埋もれ跡形も見えません。
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津波後の町の風景には何も言葉が浮かばない状態です。
遠く離れた土地に生活している方の今の状況に、心が痛くなる思いは初めての経験です...
先日のテレビで、宮城県知事のこれからの復興の対策が放送されていましたが、南三陸町に於いては、まだ模索状態のようでした。全ての被災地に於いて、津波が来た土地には住まないという方針のようですが、今避難されている志津川高校の周りの高台を削るにしても、そのような土地は周りにあるのでしょうか?被災されて、尚かつ今までのコミュニティさえなくなってしまうような生活を強いられる事は、もう南三陸町では、なくなってしまいますよね...私も県の事業のために実家を手放す事になり、もう帰る故郷がありません。
自分のそれまでの歴史が、完全に無くなってしまいました...
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや」
たぶんあの時の町は帰ってきません。
故郷とか、思いとか、懐かしさの現実はもどりません。
しかし
思い浮かべ懐かしむ愛しさは永遠だと思います。