福井新聞6月14日付。
文字が小さく分かりにくいので、記事を転載させて頂きます。
美濃から逃れた光秀は、朝倉家に仕えた数年間、妻子と東大味町で暮らしたとされる。
集落内の西蓮寺には柴田勝家らが発給した、地域の安全を担保する書状「安堵状」が残っていたことから
集落は一向一揆の被害を免れた。
住民を気遣った光秀が、勝家らに発給させたと伝わる。
こうしたことから住民は、光秀を「あけっつさま」と呼んで敬慕。
本能寺の変で光秀が逆臣といわれる風潮の中でも思いは変わらなかった。
周囲に分からぬよう、木彫りの光秀坐像(高さ13センチ)を墨で塗りつぶしてまで
光秀を慕い続け、1886年に明智神社を建てた。
坐像は3軒の農家が代々守り、この3軒が神社も管理してきた。
1993年、集落全体で神社を守ろうと奉賛会が発足した。
私が初めて「あけっつさま」を訪ねたのは5年ほど前の事。
昨年あたりから、お礼の手紙や記念の写真と一緒にお送りしているCDの中に
この明智神社と丸岡町の称念寺の写真も入れさせていただいています。
今まで知られていなかった光秀の良いところが世間に伝わってくれればと思っています。
今日は河合の区長さんが草刈の応援に来てくれました。
みんなに助けてもらっての、東山いこいの森です。
大切に守っていかなれば思います。
右のピントの来ているのが5輪のササユリです。