皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

第5回講座は歴史ロマンツアー

2017-06-22 21:00:05 | 生涯学習
今日は行田市民大学第五回講座として、『のぼうの城』関係史跡見学ツアーが開催されました。仕事の都合で、過去二回休んだためしばらくぶりの参加となりました。講師は行田市文化財保護課中島洋一先生です。参加者は生徒41名、運営部の方5名です。市内の大堰観光の大型バスで移動します。せっかくの地元散策のツアーですので、自宅から市役所前の集合場所まで、歩いて行きましたが時間ギリギリになってしまいました。熊谷にある成田氏の菩提寺、龍淵寺です。1411年成田家時が建立しました。開祖は和庵清順和尚とされ、和尚は皿尾村から呼ばれたと伝えられています。和尚は「関東の高野」と呼ばれた武蔵の人の心を大いに救ったといわれます。成田家の墓石の前でてをあわせました。
上之村雷電神社です。こちらも12代家時が社殿を再建しています。もとは久伊豆神社であり、成田家が久伊豆神社を厚く信仰した記録があります。成田家は上之、皿尾、持田(大宮口)、長野(長久寺)と四社久伊豆神社を祭っています。行田に戻り、長野口と忍馬車鉄道記念石碑です。長野口は船着き場として栄え、また明治維新後、忍城が解体され急激に人口が減り鉄道が引けない代わりに今津家が中心となり、馬車鉄道に乗り出したそうです。また今津健之助氏は昭和15年『成田記』の復刻版の発行にも尽力された、忍の渋沢栄一と呼ばれる人物です。現在の今津印刷所さんは今回の行田の足袋文化、日本遺産登録の構成遺産の一つです。
埼玉古墳群、丸墓山です。忍城水攻めの指揮を取った石田三成が、この山頂で陣を張りました。どうしてこの古墳が円噴なのかは分かっていないそうです。また石室の発掘は国の管理の為、文化庁が許可しないそうです。歴史を明らかにする事と、保全することを両立出来なければ、歴史の破壊になるようです。
皆さんだいぶ疲れてらっしゃいましたので、山頂へは私が一人で上りました。最後は石田堤です。
秀吉は忍城を落とす事より、部下に巨大な堤を築かせ、その力を諸国の大名に誇示することを目的としました。その意思を汲み、石田三成は僅か7日で堤を完成させたと言われますが、実際には1ヶ月以上かけて、また自然堤防や高台を利用してなんとか水を引こうとしましたが、ほとんど効果はなかったそうです。堤が決壊したといわれる堀切橋と、鴻巣市の石田堤公園です。のぼうの城のなかで、村人が堤を決壊させるシーンはこの絵がもとになりましたが、史実とは異なるようです。城西交差点にあるからくり時計は精密機械メーカージェコーによる寄贈品で、市街地のシンボルとして親しまれてきましたが、壊れたままです。市にお金がないから直せないとクレームが良く入るそうですが、実際にはジェコーさんに部品がなく、対応出来ないなどといったこぼれ話も随所にちりばめられました。
一日を通して中島洋一先生の豊富な知識と話術に驚嘆していました。
地元の人にこそ地元の歴史を知って欲しい。そうした事が良く伝わりました。来週より半年かけて、グループ研究が始まります。今日の会合で私のグループは行田市内の神社の系譜といったテーマで取り組むことになりました。
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