「埼玉の神社」「忍の行田の昔話」には春日神社の鹿にまつわる不思議な逸話が記されている。
宝暦十二年(1762)の四月、青木某という者が畑仕事をしていると、いつものように春日様の鹿がやってきた。「秋の実りでもお願いしようと」手を差しのべると、鹿はさっと避けて逃げてしまう。青木はむきになって、鹿の行方を塞ごうと手にした鋤を鹿の鼻先に放り投げた。鋤は鹿の足に当たり、血を流しながら春日様の森に逃げ込んだ。
翌日、村人が鹿が死んでいるのを見つけ、手厚く葬り墓石を建てた。
その後青木方に強盗が押し入り乱暴な青木はその賊と戦った。賊は恐れをなして逃げ出すと、青木は刀を持って追いかけると、小川を飛び越える途中、はずみで自分の脇腹を刺してしまう。そして苦しみながら死んでしまった。
不思議にも死んでいた場所が鹿の傷付いた所と同じであっことから、村人は鹿を殺した神罰だと語り合い、奈良からの鹿も来なくなったという。
鹿社の祠には、宝暦十二年と刻まれている。写真の鹿社の社殿は昭和59に建てられているが、それまでは祠が本殿後ろに隠れるようにあったらしい。
この逸話を読んでいて妙な違和感を覚える点がある。鹿殺しの者の名前が何度も何度も繰り返し記されていること。しかも家名である名字「青木」が強調され、下の名は某とされていること。逸話や伝承において村人や旅人、娘や兄弟と言った個人が特定されない表現が多い。巡礼の母娘が人柱にされたり、枝を持ち帰った村人が死んでしまったり。
物語として、奈良からの鹿が来なくなった理由を、隣村の青木家を誹謗する話として作り上げたのではないかと思う。水利の問題など隣村同士の争いのあった時代。鹿殺しの罪人がもし地元の村人であれば、ある男が、或いは若者、老人、二郎が、などと言った表現になると思われる。これだけ神罰が下ったとされる罪人を家名で記す理由は、相手の家やその地域を貶める何らかの訳があったのだろう。
鹿はいなくなったが、今なお残る神楽殿で夏祭りの催しが盛大に行われる様だ。逸話伝承が伝えんとすることを読み解いて行くことは地域の歴史を知ることに他ならない。
宝暦十二年(1762)の四月、青木某という者が畑仕事をしていると、いつものように春日様の鹿がやってきた。「秋の実りでもお願いしようと」手を差しのべると、鹿はさっと避けて逃げてしまう。青木はむきになって、鹿の行方を塞ごうと手にした鋤を鹿の鼻先に放り投げた。鋤は鹿の足に当たり、血を流しながら春日様の森に逃げ込んだ。
翌日、村人が鹿が死んでいるのを見つけ、手厚く葬り墓石を建てた。
その後青木方に強盗が押し入り乱暴な青木はその賊と戦った。賊は恐れをなして逃げ出すと、青木は刀を持って追いかけると、小川を飛び越える途中、はずみで自分の脇腹を刺してしまう。そして苦しみながら死んでしまった。
不思議にも死んでいた場所が鹿の傷付いた所と同じであっことから、村人は鹿を殺した神罰だと語り合い、奈良からの鹿も来なくなったという。
鹿社の祠には、宝暦十二年と刻まれている。写真の鹿社の社殿は昭和59に建てられているが、それまでは祠が本殿後ろに隠れるようにあったらしい。
この逸話を読んでいて妙な違和感を覚える点がある。鹿殺しの者の名前が何度も何度も繰り返し記されていること。しかも家名である名字「青木」が強調され、下の名は某とされていること。逸話や伝承において村人や旅人、娘や兄弟と言った個人が特定されない表現が多い。巡礼の母娘が人柱にされたり、枝を持ち帰った村人が死んでしまったり。
物語として、奈良からの鹿が来なくなった理由を、隣村の青木家を誹謗する話として作り上げたのではないかと思う。水利の問題など隣村同士の争いのあった時代。鹿殺しの罪人がもし地元の村人であれば、ある男が、或いは若者、老人、二郎が、などと言った表現になると思われる。これだけ神罰が下ったとされる罪人を家名で記す理由は、相手の家やその地域を貶める何らかの訳があったのだろう。
鹿はいなくなったが、今なお残る神楽殿で夏祭りの催しが盛大に行われる様だ。逸話伝承が伝えんとすることを読み解いて行くことは地域の歴史を知ることに他ならない。