明治維新となり数年が年が過ぎたころから、ここ北埼玉においても近代化に伴い商品輸送の向上を目指し広域的な鉄道計画が構想された。その多くが新政府に却下され、上野ー熊谷間に汽車が走ったのは明治十六年のこと(1883年)。行田の足袋の生産は年々伸び明治18年には50万、同25年には150万足と伸びていくなで、吹上まで運ぶ5キロの道は長かったという。そこで局地的な交通手段として明治三十二年(1900年)忍馬車鉄道(株)が認可され、長野村から忍町を通り吹上停車場までの経路が翌年開通した。しかし当初の計画よりも工事が大幅に遅れ、結局資金不足により小沼橋手前を最終地点として長野村までの軌道延長工事は打ち切られてしまったという。
忍馬車鉄道は行田ー吹上間を約50分で乗客と一般貨物を運んだという。明治35年の年間客数は約103,000人。1日当たり285人となる。営業的にはほとんど赤字で、その理由は乗客の伸び悩みよりもむしろ開業当初からの足袋業者の貨物輸送が少なかったからだという。自前で運ぶか日本鉄道(国鉄)と提携した業者に依頼するほうが多かったらしい。その後も馬の養育費がかさみ、大正十二年(1924)には北武鉄道(秩父線)が開業し、馬車鉄道は廃止される。
この間約30年。時代遅れとなった馬車鉄道は自動車輸送へと引き継がれ、社名も行田自動車(株)と改められた。
小沼橋から長野口御門前を南に曲がり国道125号に抜ける道の片隅にその発着所があったという。一方時代と共に伸びた足袋もその後ナイロン製靴下の普及により、その生産が急激に下り坂に入るのは馬車道鉄道廃止後約30年、昭和29年のこととなる。