皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

万葉遺跡 防人藤原部等母麿遺跡

2018-09-15 21:40:07 | 史跡をめぐり
関東の石舞台と呼ばれる八幡山古墳の入り口に万葉遺跡として歌碑が建てられている。行田市教育委員会の解説によれば、天平勝宝七年(755)防人を派遣する際、父母妻子との惜別の情を歌ったものが、万葉集に載せられているという。若小玉地区の神社や地名から、この地を藤原部等母麿の遺跡と考察し、昭和36年に歌碑が建てられている。現在は埼玉県の旧跡にしてされている。若小玉古墳郡は近年調査が進み古くは北大竹遺跡として旧石器から縄文にかけての土器などが出土し、古墳時代後半から、埼玉古墳の後を受け継ぐように、古墳が築かれるようになったとさる。関東地方においては、その頃古墳は小型化し、古墳の築造に対して政治的規制がかかったと考えられているが、この八幡山古墳は例外で、直径80メートルの巨大な円墳だ。この後地蔵塚古墳を最後に若小玉古墳郡でも、古墳の築造は終わりになり、
こうした解説板も近年の調査で新しくなっている。人気もなく散策していると、地元の管理人に呼び止められ、長々と話を聞かされてしまった。明日は地元若小玉勝呂神社のささら舞があるらしい。

「足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも」藤原部等母麿(足柄峠で袖を振ったならば、家に残った妻にもみえるのかなあ)
「色深く せなが衣は 染めましを まさかたばらば まさやかにみむ」物部刀自売
(もっと色を濃く衣を染めれば良かった。足柄の坂を通ったら、はっきり見えたであろうに)
別れを惜しんだ儚い夫婦の歌だ。互いを思う気持ちが今の世になっても伝わる様だ。
工業団地に残る八幡山古墳。調査が進み遺跡の様子が明らかになってきた北大竹遺跡。そうした歴史遺産よりも、人が人を思う歌が歌碑として残り、今に伝わること。その方に気持ちが傾くのは、時代が流れても変わらないものだと感じている。
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弘法大師と片萎竹(かたしなびたけ)

2018-09-15 20:17:34 | 郷土散策

 行田市指定記念物「片萎竹」は市内藤原町の民家にひっそりと残っている。不思議な竹で節間にできる縦じわと平滑な部分とが半分ずつ節ごとに交互にできるマダケの変種とされている。『かたしなびたけ』と読むそうだ。
『忍の行田の昔話』『忍名所図絵』にこのしなび竹にまつわる逸話が記されている。
 その昔弘法大師が若小玉の地を廻っていた際、歩き疲れふと見ると丘に竹林があった。農家の与八という男の家で大師は立ち寄り杖にと竹を所望した。ただの旅の坊主と思った与八は「家の山の竹は細く萎びているので杖にはなりません」と断ってしまった。すると翌年からは生えてくる竹すべてが細く萎びていて、丘そのものも平地になってしまったという。
 弘法大師はその後同じ村の千歳というものに同じく竹の杖を所望したところ、千歳は快く応じ、竹を切って差し上げたところ、大師は喜んで和歌残して去ったという。「しなび竹、色青く常の竹に変わることなし。俗にいう真竹なり。たとえば今年生えた竹を七月八月頃切りて乾かしたるがごとし」とあり一節おきに曲がっているので困った竹だといわれている。

その後成田村龍淵寺の指月上人という住職が弘法大師の跡を慕って千歳の宅を訪れ大師に倣って和歌を納めたという。
 とにかくに おもうようには なよ竹の
  ゆがまはゆかめ 人の世の中
(ゆがまはゆまめとは『そうはいかないよ』との意味)
思うにならない世の中で生きる意味を示しているように思う。
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