皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

死馬の骨を買うと・・・

2018-09-25 23:16:35 | 心は言葉に包まれて

中国の古典より。燕の昭王というものが、隣国との戦に備えて優秀な臣下を探していました。側近の臣下は昭王に語り掛けます。

遥か昔中国の王が秀でた馬を探していまた。地方に素晴らしい馬がいると聞きつけ使いの者に大金を持たせて買うように命じます。しかし使いの者はつく頃にはその馬はすでに死んでいたそうです。使者はその死んだ馬の骨を預かった大金の半分を使って買って帰ったそうです。

 死んだ馬の骨を持ち買ったことに大いに怒った王に対し、使いの者は言いました。

『死んだ馬に大金を払うなら、生きた駿馬にはもっと大金を払うに違いないと人々は思うでしょうきっとたくさんの人が良い馬を売りに来ますと』

昭王の臣下はこの話しの後に言いました。

『優秀な人を求めるなら、私を優遇してみてください。私以上に賢いものが自然とあつまります』と。

感心した昭王は子の臣下を抜擢したといいます。

人を育てるのは今も昔も難しいことです。

 

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小針 日枝神社

2018-09-25 17:21:36 | 神社と歴史 忍領行田
ギネス認定された田んぼアートを見渡す古代蓮の里の北側に、同じく水田に囲まるように鎮座する、小針の日枝神社。昭和30年代中頃までは、数百本の杉の大木が林立し、山王様の森と呼ばれていたが、いまは境内に数本を残すだけになっている。

境内まえは低湿地域で、かつては沼が広がり養魚がおこなわれ、その石碑も残っている。樹齢450年を越えた名木「舟着の松」もいまでは、切り株を残すだけになっている。御祭神は大山咋命。江戸の総氏神と呼ばれる東京千代田の日枝神社は太田道灌が川越から勧請したとされる。山王祭が有名だ。その川越の日枝神社は滋賀の日吉大社から勧請され、山王信仰の総本社とされる。神使は猿で小針の日枝神社の彫刻も猿が見られる。大山咋命の咋は杭という意味で山の神として祀られる。山の神の使いとして猿がいるのだろ。

小針の日枝神社がこの地に祀られた由来は残っていない。風土記稿の記載にもないという。口碑に鴻巣の三ツ木の山王社を分霊したという。縁結びの神として知られ、小針が男神、三ツ木の山王様が女神として伝えられ、女性が婿を探す時には小針へ、男性が嫁を探すには三ツ木へ祈願したという。
七月に獅子舞の奉納があり、騎西の玉敷神社へ獅子を借りにいくという。現在続いているかは不明だ。
天明六年(1786)から四年間石燈籠が続けて奉納されている。丁度天明の大飢饉の頃で神への願いが強まったのだろか。氏子の禁忌に麻を作らないとある。昔山王様が釣りに行って時に麻で目を突いたという。こうした禁忌は市内各地に残っている。御鎮守様は麻が嫌い、麻の着物は着ないという話だ。
またキュウリは切り口が神紋ににていることから輪切りにして食べてはならないという。キュウリの禁忌も北埼玉に多く残っているようだ。
こうした禁忌や口碑が伝えようとしたものはなんなのか、思いを馳せると益々地域の神社が奥深く感じられる。
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持田 剣神社

2018-09-25 11:29:48 | 神社と歴史 忍領行田

 持田は糯田とも書き地名の由来は黒糯などを植えるこえてない土地を意味していたとも伝わる。治承五年(1185)源頼朝が新田義貞に与えた下文に埼玉郡糯田郷とあり平安末期から鎌倉期にかけては既に村として開けていたことが分かる。

 日本武尊東征の折、この地で剣を杖にして暫く休んだことから宝剣を神体に祀ったことを起源としている。『風土記稿』によれば別当を真言宗長福寺が務めていたが神仏分離によって寺の管理を離れた。本殿は享保二十一年に改築、拝殿は宝暦八年に造営されたとされている。

江戸期から剣宮(つるぎのみや)と称し地元でもお剣様と呼ばれ鎮守とされている。春のお日待、八月の宵祭り等祭りも盛んに行われている。埼玉の神社によればフセギと称した疫病除けの行事が七月の田植え終わりに行われていたという。長福寺の護摩札を年番が受け取り防ぎ札として竹に挟んで村境三か所に立てる。戦前までは赤飯を炊き子供に配ったという。

明治期の賽神が境内東側に残る。道祖神は一般にサイノカミと呼ばれ道の神、また猿田彦を祀ることも多い。所謂導きの神だ。

諸説ある中でも元来、防賽の神として外から来る疫病や悪霊を村境や辻、橋などで入り込むことを防ぎ障る意味で死者と生者の境を司る神の意味があるという。古くからの共同体としての村を守る考えがあったのだろう。仏教の教えが入り交じり賽の河原で子供の霊が小石を積むという仏説から、道祖神の石碑の前に小石を積む習慣がが生まれたという。村の辻、橋などは人馬の往来も多く子供の集う遊び場となり子供に親しまれる神となったという。また旅人が脚を休めることから足の病に祈願するという。また群馬神奈川などの関東の一部や中部地方においては男女一対を配した双体道祖神と呼ばれるものが多いという。行田市内においては『塞神』と掘られた石碑のみが多い。

行田市内に剣神社は四社あるが社記に日本武尊の伝承が残るのは珍しく、御祭神にも日本武尊と並び草薙の剣を祀っている。現在の社殿は昭和三十六年に改築されたという。境内地の前は忍の中心から熊谷に抜ける旧道で、西に向かうと菅谷の八幡神社へと続いている。

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