殿上人となった忠盛を討とうとする話はやがて忠盛本人の耳に入る。
「さてさて厄介なことになったものかな」忠盛は眉をひそめた。
「わしが文官ならば、宴会に行かなければ済む。しかしながら武家に生まれながら、闇討ちの噂に怯えて行かぬと知れれば、とんだ臆病者とあざけられるであろう。かといってまともに相手をすれば大騒動になりかねぬ」
宴会の日忠盛は少し長めの短刀を無造作に腰に挿して出かけて行った。
「今宵わしを襲って痛めつけようとする輩がいると聞く。そ奴が襲ってきたらばこれで相手をいたそう」そういって銀色に光る短刀をこめかみにあて、切れ味を確かめるようにさらりとこめかみの毛をかき撫でたという。待ち伏せていた闇討ちの首謀者はそのさまを見て逆に恐怖におののいたという。
やがて紫宸殿(内裏の正殿)の宴会が始まるとその席でも忠盛は短刀を抜きしきりに鬢の毛をさらりと撫でている。銀色の刀身が灯火にぎらりとかがやき、居並んだ公家たちはただ息をのむばかりであった。
「宮中での帯刀は固く禁じられている。その決まりを破るとは朝廷をないがしろにすること甚だし」「武家といえども、殿上人の交わりに刀を差して現れるとは呆れた次第」公家たちは忠盛に隠れて罵った。
やがて忠盛は宴の途中で席を立つ。控えの間にいた役人に短刀を鞘ごと預けると、「これを私から預かったこと、後々よく申し述べてほしい」と言って帰途に就く。
「直ちに官位を削り、忠盛を重い罪に問うべきである」なすすべなく残された公家の面々はそう訴えた。
事の次第を公家衆から聴いた鳥羽上皇は驚いて、忠盛を呼び出し問いただすと、
「そのことについては、宴会に控えていた役人に刀を預けておりますので、お調べ願います」と忠盛は落ち着いて答えたという。
宴会係の役人が預かっていた短刀を以て「確かに私が平忠盛殿よりお預かりしております」と言って差し出した。鞘から抜いてみると、刀身は木刀に銀紙を貼ったものであったという。
武士としての名を辱めることなく、またおめおめと闇討ちされないための思案ががまさにこれであった。
上皇は「「誠に立派な思案である。武士とはまさにそうでなくてはならぬ」と言って忠盛をほめたたえたという。それ以来忠盛の昇殿をとやかく言うものはいなくなった。貴族社会に武士としての存在を示した出来事として語り継がれたという。
後に忠盛が亡くなった際、公家の一人は日記にこう記したという。
忠盛は巨万の富を蓄え、多くの者を召し使いしかも武勇に優れていた。けれど慎み深く、おごりや贅沢をせずに世の人々はその死を心からおしんだ。
平家の繁栄を築いたのは清盛の力であることが大きいが、その父忠盛の人柄が基盤となっている。