皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

クラブ代表者会議にて

2020-01-27 23:37:02 | 生涯学習

市民大学同窓会第二回クラブ代表者会議に参加しました。会場はコミュニティーセンターみずしろです。コミュニティーセンターといえば私が小学生の頃建てられた市の施設で、市役所の南側、水城公園の入り口にあります。今でも児童センターとしても活用されており、コミセンの名で親しまれています。今では行田市民活動のサポートセンターになっていて、市民活動の拠点となっています。

 高校を卒業し一年浪人もしましたので、旧図書館で一年過ごした頃も自分たちの憩いの場でありました。社会人となってやや縁遠くなってしまっておりましたが、行田市民大学にお世話になり、こうして市民活動に携わることでまた訪れる機会も増えました。

 

映画「のぼうの城」のヒットにより「忍の浮き城」といった名が知れ渡りましたが、昭和の時代まではほとんど「水城=みずしろ」といった呼び名の方が通ていたように思います。よって戦後整備された市の公園も「水城公園」であり、浮き城公園ではありません。

 

 行田市民大学は卒業後も同窓会組織があり、卒業生に入会を呼び掛けています。私は今年同窓会一年目になります。

「自ら学ぶことは楽しい事です」「共に学ぶ仲間に出会えることは嬉しい事です」「学んだことを地域に活かすことは素晴らしい事です」

行田市民大学の理念を広め浸透させるには卒業後の方が重要との考え方から、同窓会では委員会が事務局を含めて4つあり、各委員が中心となって同窓会活動を年間通して行っていますが、同窓会の核となるのが市民大学時代から継続している各グループです。私も「城址の風」というグループとして郷土史研究と史跡巡りを中心として、6名で活動しています。

 その代表者会議が年2回行われていて、今日初めて会合に参加することができました。主な議題は同窓会におけるクラブ活動の在り方について。特に同窓生に対する情報の伝達、行事等の連絡方法が議題として議論されました。

 市民大学の同窓生は年配の方が大勢いらっしゃいますので、その連絡形態の在り方については多くの議論がされました。インターネット、メールといった手段は効率的で便利なものですが、すべての会員に対して連絡するには障害もあります。また同窓会そのものの運営もまさにボランティアですので、事務局がすべて対応するのも限度があります。そうした中で皆さんの意見を伺いながら、最も心に残ったものがありました。方法論としての議論も大事ですが、同窓会としての趣旨を全員に理解してもらうことが前提であることを忘れてはいけないということです。卒業後こうした市民活動から足が遠のいてしまう人に対して、丁寧に説明する必要があるといった意見が出されました。

 大事なことは効率ではなく、人が人に伝えること。その手段として何が最適であるかは時代や状況によって変化する。綺麗ごとかもしれませんが、地道に人としてのつながりを続けることが大事ではないかと思います。

 来月には現在の市民大学在校生の研究発表会となります。発表まではご苦労も多い事となりますが、そうしたことを乗り越えることで見える景色もありますので、是非頑張っていただきたいと思っています。

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忍城 八軒口御門跡

2020-01-27 22:40:29 | 行田史跡物語

『新編武蔵風土記稿』編纂のため幕府に提出された文政三年(1820)の書上帳によれば、天文年間の成田氏時代から忍城下は「行田町」として栄え、町屋が点在していたという。元々成田氏の拠点は現在の熊谷市上之であり、忍入城の際一時期居を構えていたのが皿尾村であった。

 成田氏は築城に際し近隣の一族である別府、玉井、奈良氏はもとより後の家臣となる酒巻、須賀、中條、久下といった近隣諸氏の助力を得て水路を開き、良田を整備し農地を尊重することで、各地からの人望を集め、結果として行田町周辺に人が集まるようになったともとも伝えられる。現在の愛宕社の周辺に集落ができ、城に対して「下町」と呼ばれるようになったという。

城と下町の往来が盛んになると中間の新町二丁目あたりに家が建ち「八軒」と呼ばれるようになった。天文十三年(1544)には市が立つようになり、当初は下町と新町の路傍で開からていて市神は下町天王社であったという。

時の城主成田長泰はその八軒を栄えさせるため、武運の神八幡神を向町の田中から現在の地に移したので「田中八幡」と呼び「城主八幡」として祀ったことから忍城に向けた「西向き八幡」となったと伝わる。天文五年(1536)年のことで、このころ新しい町がなったことから現在でも新町と呼ばれるゆえんであるという。

現在「八軒口御門跡」は天満稲荷神社の前に建っているが天満ができたのは八軒よりあとのことであるという。

一方そのころ羽生城城主となる広田直繁と河田谷忠朝(後の皿尾城主)兄弟は羽生の地盤固めとして、同じく天文五年に羽生領総鎮守である小松神社に「三宝荒神御正体」を寄進している。両陣営が領地を巡って皿尾城の地で激突するのはその約四半世紀の後、永禄五年(1562)のことになる。

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