皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

桜木町列車事故から~鉄道復興の光と影

2020-01-09 20:45:38 | 物と人の流れ

大宮鉄道博物館車両ステーション2階、歴史年表の終わりの先に列車内の座席の展示がある。広い館内を歩き回ると疲れるもので、多くの人が腰かけながら暫し休息の時を持つ。木造の車両座席の脇にはその展示解説がされている。新幹線やSLなど多くの人が車両の景観を楽しんでいるが、こうした座席の解説を読む人は少ない。

63系車両の展示は1951年(昭和26)に起きた桜木町列車事故と絡めて解説されている。

同年4月24日国鉄京浜東北線(現根岸線)桜木町駅で電車が炎上するという大事故が起きている。赤羽発桜木町行き下り電車が桜木町駅に進入した際、上り線の架線が断線垂下してパンタグラフに絡んで発火。一両目の車両は全焼、二両目も延焼し、死者106名、重軽傷者92名を出す大惨事となった。

(当時の毎日新聞)

解説文によれば、戦争末期の空襲によって都市部の鉄道路線は大きな被害を受け、車両も戦災によって多くが失われた。こうした中戦後の輸送は通勤、通学に加え戦地からの復員、物資の買い出しなども重なり大混乱となった。こうした状況に対応するために投入されたのが63系車両である。極限まで車両を簡素化し、大量生産され私鉄にまで数があてがわれていった。戦後の混乱が落ち着いた頃に起きたその桜木町列車事故は木製の屋根に切れた架線が接触したことが原因で火災が発生し、且つその車両構造が被害拡大に大きく影響していた。ガラスの資材が不足し、窓ガラスが三段構造で中断が固定されたことで車窓から乗客が脱出できなかったこと。車両間の貫通扉が内開きで、火災から逃れようと殺到するする乗客の圧力によって、扉が開かなかったこと。屋根を含めて木造主体の構造であったことなどから、戦時設計の63系車両を走らせた国鉄は社会的糾弾を受けることとなった。

この事故を契機に63系は抜本的改造を進められ、天井の鋼板化、貫通路の拡幅と引き戸化、側面窓中段の可動化などが図られ、合わせて事故イメージを刷新するために73系へと名称も改められた。その後モハ90系へと進化した通勤車両は、首都圏を始め京阪神地区、東海道、山陽道などにも投入され地方私鉄ローカル線に至るまで走ることとなり1985年(昭和60年)に引退している。

 63系は桜木町火災事故を起こした車両としてマイナスのイメージで捉えられることが多いが、戦後輸送の立役者としてその役割を担い、極限まで簡素化され合理的にまとめられたそのレイアウトはのちの通勤車両の標準規格を確立し、車両史上に果たした役割はとても大きいと結んでいる。

桜木町火災事後の犠牲者をその後の運輸安全の糧として進化を遂げてきた戦後日本の鉄道史に触れることができ、感慨深く館内を眺めていた。

 

 

コメント (2)
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