皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

寄居町 鉢形八幡神社

2020-01-20 23:01:30 | 神社と歴史

埼玉県寄居町の鉢形城は自然の要害を利用した見事な山城で、昭和七年に国の指定史跡となっているが、その歴史は文明年間(1469-87)に長尾景治によって修築され、後に北条氏邦の居城となり、天正十八年(1590)の落城まで北関東支配の重要な役割を果たしてきたという。

現在寄居町字鉢形として残っている地域は、この鉢形城の城下町で当時は鉢形町と呼ばれていた。

八幡神社はこの鉢形町総鎮守として領主の崇敬厚く、永禄年間(1558-70)には時の城主北条氏邦によって再建されている。氏邦は小田原北条家第三代当主氏康の五男で四代当主氏政の異母兄弟にあたる。戦上手の氏邦は天正十年、本能寺の変後神流川の戦いに於いて甥の氏直をよく補佐し滝川一正軍を退けている。また天正十八年豊臣秀吉の小田原征伐に際しては、籠城に反対し野戦を主張したものの容れらず、居城鉢形城に籠って抗戦している。

このように鉢形城と深く関係のあった八幡神社は、落城に際して敵方の兵火により焼失の憂き目に遭っている。鉢形城は落城後廃城となったが、八幡神社は氏子の力によって再建され、本山派修験の千手寺が別当として祭祀にあたっている。落城によて城下町鉢形町は分村となり、江戸期になると各村々で鎮守を立てた結果ここ八幡神社もその護持が弱まっていく。

 

更には嘉永四年(1851)荒川対岸の寄居にて発生した大火災は折からの強風により川を越えて鉢形にまで飛び火し、民家七十戸を含む寺社、八幡の鎮守社までもを焼き尽くしたとして記録されている。寄居町の大火として歴史に残る火災により全焼したにもかかわらず、十五年後の慶応二年(1866)には立派な社殿を再建している。

 明治初頭に村社となったが、大正二年には三度火災により本殿、拝殿を焼失している。この期に及んでも氏子の神社再建の熱意は厚く、明治八年には社殿を再建しこれが現在に伝わる社殿となり、屋根もそれまでの茅葺から瓦葺になったという。

社殿には「奉納八幡神社八社礼拝」と書かれた札が多く残される。これは八幡神社を八社巡礼し出兵兵士の武運を祈るもので戦後敗れたとはいえ、昭和六十年代になっても続いたという。

神社は鉢形小学校の裏手の丘に鎮座しており、参道前には忠魂碑も建てられている。境内までは車では登れず、神聖な社殿と境内を守るような造りである。反対に眺望の良い境内からは氏子区域はもとより荒川の対岸までが見渡せるようになっており、さしずめ鉢形城の要害を思わせる景色が広がっている。城は落ちるとも鎮守は残る。そういった氏子区域の雰囲気が感じられる。

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忍藩 代官所跡

2020-01-20 21:04:40 | 行田史跡物語

上町愛宕神社入り口鳥居の右に建つ「代官所跡」。昭和五十三年市議会議員一同の名で建てられている。

 忍藩の領地は行田一帯に限らず、秩父、影森、定峰などの秩父領、皆野、風布等の鉢形領、別府、東方の柿木領、そして遠く播州(兵庫県)に四郡七一か村、伊勢領(三重県)と各地にあったため、それらの年貢の取り立ては大変であった。帳簿も膨大で代官所で整理したといわれている。要するに当時の代官所は領地数百か所の登記所としての機能を果たしていた。また税収を確保する税務署でもあったのだという。そうした膨大な業務を下級武士二十数人で果たしていたのである。当時としても相当な激務であったことが想像できる。

 

代官所のあった通りを「北谷通り」といい、古く鎌倉時代から開けた場所であったという。八幡太郎源義家が奥州征伐の際行田を通ったのはこの道と伝わり、北条時頼(時頼の父)は佐野源左衛門出会い、鎌倉へ帰ったのは白川戸からこの道を通ったともされる(鉢の木物語)。

 西行法師は平泉の藤原秀衡を訪ねる際、埼玉の前玉神社に泊まって、翌日ここを通って白川戸から利根川を渡ったともいう。

「足袋蔵の町行田」日本遺産を記念し石畳として舗装されたこの「北谷通り」は数百年に渡る忍の行田の昔話を今に伝えている。

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上町 愛宕社

2020-01-20 19:46:53 | 神社と歴史 忍領行田

行田市行田一丁目一番地に鎮座する愛宕社は氏子区域としては現在の大字行田の西部地区にあたる。昔はここを本町一丁目とし更に行田市上町と総称していたことから今でも上町の愛宕様、或いは本町の愛宕様と呼ばれている。一方行田酉の市で名高い愛宕神社は行田下町に当たり長野口に面している。上町は行田市駅前の繁華街にあたり、今では商店街もやや減少しているが城下町時代からの商人の町で、現在でも商工会議所が建ち、足袋産業の象徴として「足袋と暮らしの博物館」整備されている。

行田は先の戦争でも空襲を受けず、古い町並みが随所に残り、近年では「足袋蔵」が日本遺産として認定されるところだが、神社の前は「北谷通り」と言って古くは鎌倉時代からの行田の歴史を映す場所として、道路も石畳状に整備されている。

主祭神は迦具土神(かぐつちのみこと)、配祀神は大己貴命とされ、愛宕様と呼ばれる。社殿内には明治期に奉納された社号額が残る。当時の富豪富田次郎助義興によるもの。

事任神社(ことのままじんじゃ)が合祀された経緯について「埼玉の神社」にも記載がなく不明だが、「事任八幡宮」は静岡県掛川市にある式内社で、遠江国一宮。主祭神は己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)で天児屋命の母神にあたるという。清少納言の「枕草子」にも記述があるといい「ことのまま」は願いが「言のまま」に叶うに通じ古くから信仰があったという。但し「枕草紙」には「事のまま明神、いと頼もし」と記されているが、その解釈については清少納言が間違った解釈を皮肉を込めて綴ったとも言われている。いづれにしてもここ北武蔵においてこうした事任神社が合祀されているのは数少ないように思う。

「愛宕」=あたごの読みは祭神迦具土命を母伊邪那美命がお産みになった際、陰部を焼かれて亡くなった神話により「仇子」或いは「熱子」に由来するとも伝わる。全国の愛宕神社の総本山は京都府北西部の愛宕神社とされ、江戸期まで白雲寺という境内にあった。火伏の神として古くから信仰が厚く、各地で寺院は勿論城の火防の神として祀られることが多い。

行田の本町にはかつて法性寺という真言宗のお寺があったという。いつの時代にかお寺は火災により焼失し、明治初めになって忍城内代官町の黒助稲荷社内から、内殿を発見し「正徳二年行田町願主講中当社建立法性寺」と記されていたことからこれを譲り受けたという。

 ところが再建計画の中、法性寺が焼けてしまい、跡地が行田尋常小学校となってしまい、社地がなくなってしまった。ひとまず上町の氏子の稲荷社として安置されたが、仮住まいの神社では心もとないとして、明治十四年元代官所跡地を氏子富田次郎助らが境内地として寄付し社殿を新築、明治十七年遷宮が行われ現在に至るという。

鳥居の脇には「代官所跡」の石碑が建ち当時の歴史も伝えている。殊に行田は忍の城下町として江戸期より人家の密集地で、消防技術が発達していなかった当時としては火事は恐ろしいものであり、愛宕様に火災除けを祈願したのである。

 

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