埼玉県寄居町の鉢形城は自然の要害を利用した見事な山城で、昭和七年に国の指定史跡となっているが、その歴史は文明年間(1469-87)に長尾景治によって修築され、後に北条氏邦の居城となり、天正十八年(1590)の落城まで北関東支配の重要な役割を果たしてきたという。
現在寄居町字鉢形として残っている地域は、この鉢形城の城下町で当時は鉢形町と呼ばれていた。
八幡神社はこの鉢形町総鎮守として領主の崇敬厚く、永禄年間(1558-70)には時の城主北条氏邦によって再建されている。氏邦は小田原北条家第三代当主氏康の五男で四代当主氏政の異母兄弟にあたる。戦上手の氏邦は天正十年、本能寺の変後神流川の戦いに於いて甥の氏直をよく補佐し滝川一正軍を退けている。また天正十八年豊臣秀吉の小田原征伐に際しては、籠城に反対し野戦を主張したものの容れらず、居城鉢形城に籠って抗戦している。
このように鉢形城と深く関係のあった八幡神社は、落城に際して敵方の兵火により焼失の憂き目に遭っている。鉢形城は落城後廃城となったが、八幡神社は氏子の力によって再建され、本山派修験の千手寺が別当として祭祀にあたっている。落城によて城下町鉢形町は分村となり、江戸期になると各村々で鎮守を立てた結果ここ八幡神社もその護持が弱まっていく。
更には嘉永四年(1851)荒川対岸の寄居にて発生した大火災は折からの強風により川を越えて鉢形にまで飛び火し、民家七十戸を含む寺社、八幡の鎮守社までもを焼き尽くしたとして記録されている。寄居町の大火として歴史に残る火災により全焼したにもかかわらず、十五年後の慶応二年(1866)には立派な社殿を再建している。
明治初頭に村社となったが、大正二年には三度火災により本殿、拝殿を焼失している。この期に及んでも氏子の神社再建の熱意は厚く、明治八年には社殿を再建しこれが現在に伝わる社殿となり、屋根もそれまでの茅葺から瓦葺になったという。
社殿には「奉納八幡神社八社礼拝」と書かれた札が多く残される。これは八幡神社を八社巡礼し出兵兵士の武運を祈るもので戦後敗れたとはいえ、昭和六十年代になっても続いたという。
神社は鉢形小学校の裏手の丘に鎮座しており、参道前には忠魂碑も建てられている。境内までは車では登れず、神聖な社殿と境内を守るような造りである。反対に眺望の良い境内からは氏子区域はもとより荒川の対岸までが見渡せるようになっており、さしずめ鉢形城の要害を思わせる景色が広がっている。城は落ちるとも鎮守は残る。そういった氏子区域の雰囲気が感じられる。