行田市若小玉勝呂神社一の鳥居脇にある日露戦役祈念碑。大正二年二月の建立で記毫は陸軍大臣木越安綱。
行田市内に残る戦役記念碑は多く、日露戦役で十五基残っている。(日清戦役では9基)
前玉神社に残る忠魂の碑は大久保利武(利道の三男)の書であり、また同じく前玉神社に建つ日露戦役記念碑は山形有朋の記毫である。
大久保利武は埼玉県知事も勤めており、官僚として埼玉にゆかりがあるようだ。
木越安綱は長州出身の陸軍軍人で、大正二年(1913)に第一次山本権兵衛で陸軍大臣に任じられている。(同内閣の内務大臣は原敬、大蔵大臣は高橋是清)
近代史の日本史で軍部が力を強め、シビリアンコントロール(文民統制)が効かなくなり、軍伐政治が横行した伏線として、内閣の閣僚の内、海軍、陸軍大臣に就任するには現役軍人の大将、中将に限るという制度(軍部大臣現役武官制)がしかれていたが、そうした軍伐政治に対する批判を受け、退役、予備役まで大臣資格を広げたのが山本権兵衛内閣で、陸軍の反対を押しきって同意したのが木越安綱であった。
その後木越は陸軍の意向に逆らったとして、軍人としては冷遇され、退官前に予備役に編入される。
自らの出身組織よりも、民意と自らの信念に基づいて政治家としての職務を全うした木越安綱。
その後大正九年(1920)に貴族院議員補欠選挙当選し、生涯政治家としての職務を全うしている。
石碑に記された文字から私たちへ伝えようとする木越安綱の思いは今でも伝わって来る。