成田家十六代下総守長泰は室町後期の武将で上州青柳城を攻め、川越城、古河城、上杉謙信の襲来と三十年間に及ぶ戦に次ぐ戦の生涯であった。
永禄九年(1566)長泰は家督を氏長に譲り、仏門に入って蘆伯斎と号して忍城二の丸に隠居する。するとある夜から毎晩のように何者かに憑かれ子丑の刻になると家鳴りがして大きな石のようなもので胸が圧迫され息も絶え絶え、声も出ず全身汗をかいているという夜が続いていた。何者かが寝室に忍び込むのではないかと不寝番をたて、僧侶や山伏に御祈祷に当たらせるも一向に効き目なく、豪勇で名を馳せた長泰もめっきりと衰えてしまった。息子の氏長も心配し家老や家臣を招いては何か良い案はないか相談すると、その中の須賀修理大夫が言うには昔からこうした武人がとりつかれる例は昔からよくあることだという。八幡太郎義家は三度弦音を鳴らして堀川院の邪気を払い、源頼政は雲中の鵺を射落とし、隠岐次郎右衛門広有は怪鳥を射落としたとも伝わる。よってその道の達人に頼もうというのである。
代々弓術で仕える三沢七郎右衛門を呼び、長泰に纏わる不思議な出来事を伝えると、「目に見えないものを射抜くことは腕が未熟でできかねる故、父三沢浄斎に相談いたします」ということになった。三沢浄斎は成田家当主氏長の前に進み出て、「京都将軍家弓道指南役、住山将監の秘伝を伝授されたものの、いまだ使った試しなく、この機にその怪物に試して見せましょう」と申し出た。
夜になって浄斎は長泰入道の寝床の隣間に入り、その他屈強の侍で寝床の四方を固めていた。子の刻になるとうなされる長泰の様子そのままに、どこからともなく風が入り、行燈の灯りが消えうせる。もがき苦しむ長泰の脇を浄斎は秘伝の弓を放つ。警護の矢沢玄蕃允(げんばのじょう)は暗闇の中何者かを感じとらえようと試みるもついには取り逃がしてしまった。その物音に長泰入道も気を取り戻し、氏長以下家臣の一人も怪我もなかったが、怪物と格闘した矢沢玄蕃允のみが具足の下に何かの爪の痕が残されていたという。
翌朝見返曲輪の番人が来て申すには「子の刻あたりに私の夢の中に真紅の狐が口から火炎を吐きながら話すには、『我この曲輪に久しく住む狐である。昔この城の城主長泰にわが妻子は殺された。その恨みを果たすべく狙っておったところ、長らく隙が無かった。長泰老いて後近年その機会をうかがっておったが、今宵弓の達人に射抜かれ力尽きて逃げてきた。吾これよりこの曲輪を去るが、汝は多年に渡り我に恵を与えたまえたので、恩返しにこれを与える』といって美しい赤い球が枕元に残されたおりました」
この話を聞いた氏長は三沢の弓術と矢沢の怪力をたいそう褒めたという。しかしながらそれ以上に驚いたのは長泰入道で『私がまだ血気盛んな頃、二つの丸曲輪(見返り曲輪)の藪の根元にいた子連れの狐を見かけてともに射殺してしまった。あの怪物はその時の牡狐であったか。無益な殺生をしたものだ』と大いに悔いた。
すぐに清善寺で大供養ををし、見返り曲輪に祠を建てお稲荷様として祀ったという。
現在も城内諏訪神社の東に二の丸稲荷は立っている。
話の構成や人名が出来すぎており『成田記』四巻からの引用であると大沢俊吉氏は解説している。文脈・構成が太平記調で構後世の創作と考えられるそうだが、長泰が龍淵寺に隠居し仏道に励んだことは事実であり、こうした伝承によって、領内の成田家に対する崇敬を図ったとも考えられる。
無益な殺生と悔いる心。武勇を誇れども老いては仏の道へと導かれる。どんなに時代が変わろうとも事の本質は変わらないのではないか。
伝承は今尚伝わっている。
引用文献
『行田の伝説と史話』大沢俊吉