国道125号線を羽生から栗橋方面に走り、加須インターを過ぎると、旧大利根町に入り、のどかな田園風景の中に、たくさんの神社が静かに佇んでいる。「新編武蔵風土記稿」によれば羽生領内の悪水を利根川に流す島川というところに、逆流を防ぐ門扉があると記されていて、大利根町北大桑のことであり、「古く水溢の患多き処」とも伝えられる。同書に「香取社 村の鎮守也、金剛院持」とあるが別当金剛院は明治期に廃され、現在はその姿はない。
神社の創建は不明だが内陣の金幣に「元禄十二年寄進」の文字が見られ、また延享三年(1746)奉納の絵馬は江戸期の風俗が良く描かれており、市の指定文化財になっている。絵馬は「神仏に祈願または御礼の意味合いとして奉納する絵の額」のことであるが、古くは生き馬を納めたものから次第に額を奉納するようになった歴史がある。江戸期になると特に芸術品としての価値が重視されるようになったという。
御祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)で古事記には記載がなく、日本書紀に表されている天津神である。下総国一宮「香取神宮」を総本社として全国に約四百社あるといい、その分布は利根川、江戸川沿いに集中する。埼玉北部元荒川沿いには久伊豆神社が広く分布し、その分布圏は境界を犯すことなく分かれているという。よって元荒川流域に入る忍領(行田市)には香取神社は見当たらない。
参道の東側に「神霊社」と刻まれる小祠が立っていて、不思議な伝承が残っている。
昔、旅の浪人がこの地に来た際村人を助けて多くの事業を進め、一通りの仕事が済んだ時、村人たちは言い出した。この浪人を長く村内に留めておけば、いずれこの村を牛耳るようになる。そうなる前に皆で浪人をだまして殺してしまおうと。
そうした折、浪人は金剛院への年始の挨拶の帰りから酒に酔って足元がおぼつかない。村人はこれを好機と浪人を襲い、竹槍で目を突き、近くの池に投げ込んで殺してしまった。
以来この地は眼病の者が多く、村人は大変苦労したので、祠を建てて、その霊を慰めたという。
隣町栗橋は日光街道の主要な宿場町であり、多くの旅人で賑わった。その中から、当地に根を下ろして生計を立てようとした者もあっただろう。田舎の農村部の閉鎖的側面を伝える逸話で、もの悲しいが、現在でもその霊を慰める石碑が残っていて、こうした伝承が語り継がれていることが非常に興味深い。
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