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藤原清衡、源義家連合軍は、金沢の柵まで清原家衡を追い詰めると、兵糧攻めにします。清原家は降伏すべく女子供から外に出すと、出て来た矢先に全ての者が切り殺されました。女子供に紛れて逃げるのを防ぎ、自ら死を選ばせるのを迫るのです。
こうして終わった後三年合戦の果てに藤原清衡は妻子を亡くし、弟を殺し、目の前で親兄弟が絶望の中で殺し合う様を目にして来たのでした。
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藤原清衡は後三年合戦の後、平泉に居を移し、中尊寺を建立します。長い間戦禍にまみれたみちのくの地に平和が訪れます。大治元年(1126)中尊寺の供養が行われます。その願文には長い戦禍で亡くなった者への供養と、蝦夷と呼ばれた東北の地に仏の国を作り分け隔てなく、人々が安寧に暮らせるよう願ったものだといわれています。
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