皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

中山道と上尾宿

2017-09-29 21:01:51 | 史跡をめぐり

 北埼玉に住んでいると、子供のころに目指す都会と言えばまず熊谷、そして大宮を経由して東京に向かうというのが順番だった。もちろんさいたま新都心はまだなかったころの話ですが、途中とにかくたくさんの人が乗り降りしている記憶があるのが上尾駅でした。
 中山道は、江戸幕府により整備された五街道の一つで江戸日本橋を起点に各地を結ぶ主要街道です。なんとなく新潟に向かう道だと勘違いしていましたが、群馬、長野、岐阜、滋賀といった本州内陸部を通り、草津宿(滋賀県草津)で東海道と合流し、京都までつながるそうです。その距離530㎞を超えるといいます。慶長7年(1602)物資の輸送に必要な人足や馬を整え、伝馬制が敷かれ、街道沿いに宿場が作られました。宿場には本陣、脇本陣などが整備されたとされます。
 中山道には江戸から京都まで69の宿場が設置され、最初の板橋宿から五番目、江戸から九里十八町(38キロ)の宿が上尾宿になります。となりの桶川宿を開設した西尾隠岐守吉次の領地であったことから、同じく上尾宿の開設にも関与したと考えられています。
昔、受験問題で、五街道の起点は何処かといふ問題がよく出たものです。またキー局のアナウンサーが旧中山道をきゅちゅうさんどうと呼んだ映像が繰り返し流されていました。

「中山道分間延絵図」には当時の中山道上尾宿の中心部が描かれているそうです。沿道に沿って182軒の家々が立ち並び、八百人近くが生活していたようです。参勤交代で江戸に上る大名が泊まった本陣が1軒、脇本陣が三軒、庶民向けの旅籠は四十一軒あったとされます。

 上尾宿の中心にあった氷川鍬神社にも上尾宿の歴史が記されています。
 江戸時代宿場町として栄えた上尾の町並みは、江戸末期から明治初期にかけての三回の大火により多くが失われたそうです。大火の際に難を逃れた屋根の上に鐘馗様が乗っていた家が数件あり、その後火伏の守として流行ったそうです。また通り向かいの鬼瓦が自分の家に向いていると縁起が良くないため、鬼より強い鐘馗様を屋根にののせるようになったともいわれてます。
 今日の栄えた街並みを鐘馗様はどう眺めているのでしょうか。
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