久伊豆神社は埼玉県元荒川流域を中心に分布する神社で平安末期の武士団武蔵七党の野与党、私市党の勢力範囲と一致するという。御祭神は大己貴命やその御子事代主命を祀ることが多い。県内流域によって神社の分布も異なり、県内東部の中川流域には鷲宮神社、江戸川流域には香取神社、荒川流域には氷川様が多い。
新編武蔵風土記稿によれば久伊豆神社の総本社は騎西(現加須市)の玉敷神社と考えられており、皿尾久伊豆大雷神社も 「騎西に大社ありて恐らく当社もこれにならん」と記されている。
越谷、岩槻、そして玉敷神社が久伊豆神社の大社として知られているが、この江面(えづら)の久伊豆神社を合わせて「四大久伊豆神社」というそうだ。江面の旧家は名主であった伊呂原家を始め何れも平家の落ち武者を先祖にもち、古くは秩父からこの地に土着したと伝えられている。
久喜市中心地からひと区画離れた地区であり、かつても今も農業区域が広がっているが、間近に久喜インターチェンジが建設されたことで、景観も大きく変わってしまったという。実際に菖蒲方面から久喜市街に抜けるのに高速下を通る際、やや道の不便なところを感じる。
境内地裏口にあたる場所に祀られる弁財天。その裏は畑となっているが、かつては水田であったのだろう。
村の禁忌に神様が嫌うとして小豆や麻を作ることがあったという。江戸時代半ばにこの禁忌が氏子の生活に支障をきたすことから、これを解除するよう求める文言が吉田家から発給された「宗源祝詞」記されているという。麻や小豆は稲作からの転作を意味し、それを戒めるための禁忌であったことが読み取れるが、当時氏子の生活のためには米以外の物の収穫が必要であったのだろう。
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