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忍藩主阿部家の当主は初代忠秋から正充(まさちか)まで5代続けて幕府の老中を務めている。これにより当主が幕府の要職に就くことが慣例となり、6代目となる正敏も要職就任を働きかけている。其の甲斐あって天明4年(1784)には大坂城代に就任。その時に幕府内の家老や奥方に渡した就任の礼金や贈答品の記録が残されていて、合わせて1265両となっている。日本銀行研究所の資料ではおおむね江戸期の一両は米換算で現在の四万円とされているのでざっと見積もって 五千万以上の働きかけをしている。(まさしく散財であろう)
阿部家の菩提寺は行田にある大長寺(浄土宗)で阿部家に限らず、諸侯は祖先を崇拝し神格化することでその正当性を堅持してきた。
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しかし幕府内での出世や大坂城代への赴任に加え天明三年の浅間山噴火や天明の大飢饉(1785)により忍領内も疲弊する。
このような状況下で正敏の藩政に異を唱えたのが世子であった阿部正識(まさつね)。正識は天明六年(1786)に意見書を出して現在の藩政は家臣や領内を顧みず、幕府内の出世と神仏ばかりに関心を向けていると痛烈に批判します。
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それはまさしく忍の藩政と家臣を思っての行いであったと考えらる。
正識は書道と漢詩に造詣深く、忍東照宮にも名筆が今に残されている。
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