鎌倉殿の13人、源平の争乱は緒戦石橋山の戦いを終え、頼朝と北条の一行は命からがら上総の国を目指すことになるが、物語は間だ始まったばかり。一年を通じて主人公北条義時を中心に(あくまで鎌倉殿は主君)どのような展開になるのか楽しみは膨らむばかりであるが、ここ武蔵国北本宿には源氏に纏わる一本の古い桜の木が残っている。
石戸蒲ザクラ
大正期に日本五大桜として国の天然記念物に指定された銘木である。樹齢800年を誇る桜の木は今年令和4年には記念物指定100年を迎え、三月には記念講演が開かれる。
石戸蒲サクラの「蒲」は源範頼に由来する。範頼は源頼朝の異母兄弟。父源義朝の六男に当たる。
母は遠江の遊女と伝わり、保元の乱で父が敗死すると貴族の官人藤原範季に預けられる。遠江の蒲御厨で生まれたため「蒲冠者」と称される。同じ頼朝の異母兄弟である義経とは育った環境も違い、文に長けた人物だった
あまりに義経が戦上手で悲運の武将と唱われその名が知れわたった一方、範頼は頼朝を補佐しながら、戦においても緒将をまとめあげていったことで知られている。
木曽義仲を討ち、壇之浦の事後処理をしたのはこの範頼だったとされている。得に檀ノ浦の戦い後、安徳天皇とともに沈んだ三種の神器のうち、神鏡と勾玉(神璽)は引き上げられたが、神剣は見つからなかった。最後までこの剣を探したのは範頼だったとされる。
鎌倉幕府成立後、身内にも厳しかった頼朝は義経を討ち、匿った奥州平泉も攻め滅ぼしたが、範頼にも謀反の疑いをかけて伊豆へ流している。修善寺に幽閉された範頼はこの地で殺されたと伝わるが、その後この武蔵国にに逃れた伝承が残っている。
ひとつは吉見観音に逃れたという伝承。吉見町には大字御所という地名が残っていて、これは頼朝の乳母である比企尼の懇願で、範頼の子供らが助命されたことに由来する。その後子孫は代々吉見氏を継いだという。
もうひとつが北本近くの石戸へ逃れたというもの。
石戸には白山神社があり、近くに阿弥陀堂があって源範頼の息女亀御前の追福のために建立されたという。
現在は東福寺として、神社は明治期に石戸神社とその名を改めている。
それは石戸村が合併して「北本宿村」と改められたため、石戸の名を残すために神社名を白山神社から石戸神社へと改称したものである。
サクラが咲いたら石戸蒲サクラを見に行こうと願う。範頼の無念を感じることができるかも知れない。
今こうして北本での最後の晩に源平の争乱に思いを馳せながら拙い文を嬉々として打っているのも歴史の導きだと思っている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます