群馬県佐波郡玉村町は、県南部に位置する人口三万五千人の町。高崎市と前橋市に隣接し、北関東自動車道と関越自動車道の交差する高崎JCから程近く、埼玉県とも隣り合う交通の要所の町である。江戸期に入って日光東照宮への往来が盛んとなり、其に合わせて日光例幣使道が開設されると、宿場としても非常に栄えた歴史があるという。
冬場の強い北風が『からっかぜ』『赤城おろし』とよばれ、寒さが厳しい反面、夏場は日照時間が長く、気温が上がりやすいところは、利根川を越えた熊谷行田地域と同じで、県境はあれども同じ文化圏であることは間違いないだろう。
鎌倉時代の建久六年(1195)、源頼朝が上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鎌倉八幡宮より御文霊を勧請したのが始まりであったという。慶長十年(1605)には関東郡代伊奈備前守忠次が新田開発の任に当たり、神社の造立を祈願し、同十五年(1610)前橋の総社から天狗岩用水を延長する代官堀を開発して新田開発も竣工し、市内の角渕から現在の地に社殿を移築している。
以降武神としての崇敬を集め近世に入ると厩橋藩(前橋藩)主酒井氏からの庇護を受けながら、慶安二年(1649)三代将軍家光より朱印地三十石の神田を賜っている。
時代が下り大正十四年には県社に列し、昭和二十五年には本殿が国の重要文化財となっている。
慶応元年(1865)に建てられた隋神門。隋神とは八幡さまをお守りする神様のことで、平成28年町の指定文化財となっている。
境内にある御神水は神域から涌き出る湧き水で、玉村の由来も水の溜まる場所を意味するという。
神社の参道についての逸話が残っている。
江戸時代、役人に追われて逃げた博打打ちが、ここ玉村八幡宮の杜の奥に逃げ込んだという。役人は必死になって杜の草木を刈り払い、隠れていた博打打ちは『真人間に立ち返るのでどうかお助けください』と祈っていたという。ついには追っての目を逃れることができ、後には名を名乗らず参道に敷石を寄進する者が現れたという。また明治になって隠れていた厳島神社の堀からは当時投げ入れたと思われる小判も発見されている。
また『戌亥八幡』といって戌亥年生まれの守護神としての信仰集めている。これは御祭神である応神天皇(誉田別命)が十二月(戌月)十四日(亥日)生まれで百歳を越える長寿であったことにあやかり、生まれ年を大事にしたことに由来する。
たまたま参拝した折りには、神前での結婚報告祭が行われ、雨上がりの参道を新郎新婦が晴れやかにまたにこやかに寄り添い歩いていた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます