皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

熊谷市 下川上 三島神社伊豆神社合殿

2019-09-16 22:23:18 | 神社と歴史

明治二十二年に池上、下川上、下池守、上池守、皿尾、中里、小敷田の七ゕ村が合併し成立した星宮村は昭和三十年町村合併促進法により、行田市に編入したが、同年十月池上、下川上に分離合併している。七ヶ村合併の際「北斗妙見信仰」(北極星への信仰)に基づき七つの村を北斗七星に見立ててその名がついたとされている。また村内を流れる星川と古宮(神社)の一文字をとったとも考えられている。

 明治五年下川上の村社となり、字中内出に熊野神社と字御嶽の八坂神社(無各社)を合祀したが、村に病気が流行るなどして拝んだところ、「神様が元の場所から動かないからだ」ということであったため、両社ともそれぞれの廓に戻されたという。

 明治維新後の合祀政策は地域の軋轢を生み、おらが村の神様をとられてなるものかといった風潮をよんだとされる。特に隣接した村同士、水利や交通の面で利害が反すれば争いがあった時代である。

神社の創建について口碑に「昔大飢饉があり食べるものに不自由した際村人が恵比寿、大黒様を祀ったことに始まる」という。現在でも農業地域であり豊作の神として信仰が厚いという。御祭神はそれぞれ事代主命と迦具土神。この口碑に見られる大飢饉は天明の大飢饉と比定されていて、本殿も二間社であったことから江戸期には二社合殿であっと考えられている。

隣接する宝乗院愛染堂は、江戸期以降「藍染」と「愛染」の関りから関東一円の染め物業者が参拝し、賑わいを見せた。伝承に大同元年(八〇六)九月一日の大水で秩父方面から一本造りの愛染明王が流れ着いたと伝わる。今に伝わる明王は江戸期の仏師の制作だとされ、全体で1.45メートルの大きさを誇る。多くの額や絵馬が奉納され当時の信隆盛ぶりが伺える。

多くの神社で見られるように、社名を刻んだ石柱の『村』の文字が削られている」。明治時代に定められた社各制度により、神祇官の管轄となる官幣大社、国幣大社など別格官幣社とそれ以外の諸社に分別された。諸社の内、府、県、郷内で崇敬する県社、郷社、そして多くは村の神社として村社、それ以外を無各社として区別した。無各社を除いて例大祭に合わせて幣帛を受けるようになったという。

戦後社各制度は廃止され、昭和二十年(1945)GHQによる神道指令により国家と神社との関係を定めた諸法令が廃止され、多くの神社でその影響を恐れて村社や郷社の文字を消しこんでしまったという。子供の悪戯ではなく、戦後の混乱の中でもあえて無各社にすることで神社を守ろうとする人々の智恵が働いたのだという。

どんなに時代が変わっても、歴史が変わることはなく、地域の鏡として時代を映してきた神社の歴史を感じる石柱であった。

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旧鷲宮町 西大輪神社と雷電社

2019-09-15 21:44:51 | 神社と歴史

関東最古の古社鷲宮神社から県道152号線を東へ2キロほど行くと、幹線道路県道3号線さいたま栗橋線に出る。ここを左に曲がると国道125号線に出て、下総国古河へと向かう。非常に交通量も多く日光街道に次ぐ県東部の主要街道だ。さいたま栗橋線に沿うように湘南新宿ラインJR宇都宮線が南北に走っていて、ここを境に地域が二分されているようだ。

 古くは大輪村と称し一つの村であったところ、寛永十八年(1641)利根川の河川改修に伴い、東大輪村、西大輪村に分かれたところであるという。風土記稿によれば東大輪村の神社は『八幡社』西大輪村の神社は『鷲明神』であったという。

明治四十二年東大輪の八幡神社に、西大輪の鷲明神を合祀し、大輪神社と改称している。但しここ西大輪の鷲神社社殿は『お仮屋』と称して旧地に残されている。しかしながら合祀によって鎮守の御魂を失ってしまったため、祭典ごとに東大輪から御霊をお仮屋に招いて祭典を継続し、近年になって氏子の尽力によって大輪神社より御霊を遷し、正式に西大輪神社としている。平成十九年のことと石碑に記されている。

境内地東側には雷電社が鎮座する。古くから雷の神様として、降雨や雷除けが祈願されてきたという。今でこそ幹線道路沿いには商業施設や住宅も増えているが、かつては田園地帯が広がる農業地域で、落雷も多かったという。雷の落ちたところに注連縄を張り、祓いをする習慣もあったという。これらは北埼玉に多く見られ、当社(皿尾)や上之雷電神社、川を渡った群馬の板倉雷電神社などに見られる。

西大輪神社の境内地は、西大輪砂丘と呼ばれる中川低地の河畔砂丘として県の天然記念物にも指定されている。

側道のさいたま栗橋線と比べて明らかに高く砂が積もった様子がわかる。寒冷期の強い季節風によって利根川の旧河川沿いに吹きためられて形成された内陸性の砂丘であるという。周辺の低地部と比べて高低差が6メートルもあるという。

古くからの村が利根川の開発により東西に分かれ、自然の砂丘も戦後の開発によってその姿を狭めているが、祭祀は受け継がれ、砂丘も近年県の天然記念物に指定され、保存されようとしている。

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十六夜日記

2019-09-14 21:51:32 | 日記

 昨日は中秋の名月十五夜。生憎月は見れなかったが、翌日の今日は美しい満月が顔を出している。新月から数えて16日目の夜のことを十六夜といふ。月の満ち欠けはおおよそ15日周期で新月から満月へ、そしてまた新月へと繰り返し、15日がほぼ満月となる。

特に旧暦の秋にあたる七月、八月、九月の内真ん中にあたる八月を「中秋」と呼び、特に十五夜に美しい月を愛でる風習が広まったという。そもそも農耕暦に際し、豊作への願いと収穫への感謝が祭として広まったという。十五夜に備えるススキは御幣(幣束)の代用で、特に稲穂がそろう時期の前であったことから、稲穂の代わりに魔除けとして供えられたという。

「十六夜も まだ更科の 郡かな」芭蕉の句にも十六夜が詠まれていて、「昨夜の十五夜は更科で見た、十六夜の今日もまだ去りがたく、更科の郡に留まっていることだ」というように中秋の月の美しさに魅せられて、旅路が進まぬ様子を謳っている。

十六夜は「いざよい」と読み躊躇う(ためらう)という意味からきている。あれこれ迷って決心がつかない様を表すという。

月は一日当たり五十分ほど遅れて出てくることから、十六夜は前日の十五夜に比べて小一時間遅れて出てくることになる。そこで月がためらいがちに空に昇る様子を十六夜=いざよいと表現したといわれている。

『十六夜日記』とは鎌倉時代に書かれた紀行文で、藤原為家の側室阿仏尼によって記されている。為家は鎌倉時代の御家人で、為家の父藤原定家は『小倉百人一首』の撰者とされている。

『十六夜日記は』後に名付けられたと考えられていて、当所は紀行文としてではなく為家没後の所領紛争の様子を描いたものとされている。武家社会となった後、貴族の所領を巡る争いを記した貴重な資料と考えられている。

月、星、太陽といったものに対する信仰は古くから強く、今の様に夜の灯りのない時代においては日ごと変化する月への畏れは、深かったのだろう。

 

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ケチな稲荷とクレームの日

2019-09-06 22:07:00 | 心は言葉に包まれて

9月6日は語呂合わせからクレームの日というそうだ。サービス業だけでなく、多くの業種でクレームの対応が問題となっている。過剰な要求か、それとも顧客の正当な主張か、ケースバイケースで、すべての対応をマニュアル化するのは難しい。若いころ務めていた会社でクレームの4大原因というのが示されて、過度に当てはまるかあるいは二つの要素が重なるかといった事例においてクレームが発生しやすいと説いていた。要素としては単純で①お待たせ(顧客の時間を奪う)②間違い(約束を反故にする)③商品が基準以下(期待への裏切り)④感じが悪い(感情的に受け入れられない)の四つであったと覚えている。

 クレームの意味合いに近いもので『ケチをつける』とも表現する。林先生の解説によれば、ケチとは『怪事』から転じた言葉で縁起が悪い事や不吉の前兆などと云った意味合いがあるそうだ。そこから景気が悪い⇒金品を惜しむといった意味が派生し、あいつはケチだという言い回しが生まれている。

一方洒落がかかった言葉に、『ケチな稲荷』と表現することがある。取り柄のない事をいう言葉で、粗末な稲荷には鳥居がなく、音の近い『鳥居』と『取り柄』を掛けたものという。『びんぼう稲荷』とも表現される。

言葉の転じ方、洒落の利き方は調べるほど奥深いものだ。

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ある日突然

2019-09-06 10:42:43 | 生活

 一昨日朝目覚めてすぐに足がふらつき階段を下りるのにも苦労するようなめまいに襲われ、それでも軽い風邪だと思い込み、何とか出勤したものの、立っていられないほどの状態で、仕事を早退しました。帰路の途中何度か嘔吐を繰り返し、休み休み帰宅しましたが、自宅で休んだ後も激しい回転性のめまいが続き、慌てて時間外の外来に駆け込みました。

 途中歩くこともままならず、駐車場に座り込んでしまい、勤務を終えて帰る看護師の方に脈をとってもらい、車いすにのせられました。まさか自分が車いすに乗るとも思わず、苦しさと人の温かさから涙をこらえることもできませんでした。

症状について電話で連絡したうえ病院に行きましたが、救急搬送(救急車)優先ですので、1時間以上待つことになりました。季節の変わり目からか、多くの人が体調を崩し、4台の救急車が搬送受け入れされていました。

車いすに乗ったまま、診察を受け目の眼振の検査をされます。通常動かないはずの眼振が激しく左から右へ繰り返し流されていて、救急外来の担当の先生の所見で、良性発作性頭位めまい症、或いは前庭神経炎ではないかと診察されました。何れも脳疾患などによるものではないということで、安心する一方安静にしてもしばらく激しい回転性の激しいめまいが続いていています。

 良性発作性頭位めまい症は、発症例も多く女子サッカー元日本代表の澤穂希さんが患っていらっしゃったそうです。所謂、内耳の石がずれてしまい、平衡感覚が失われて、めまいを起こす症状です。実際私が時間外外来にて診察を受けている際、同じ症状で救急搬送された方が隣にいらっしゃり、ストレッチャーを使って頭部の位置を動かすことで、石の位置が変わり、直ぐに症状が改善した方がいました。

 私も同じように対処されましたが、少し収まるもののしばらくするとめまいの回転が始まり、おそらく前庭神経炎ではないかといわれました。

こうした病気や症状があることを今の今まで知ることなく過ごしてきたことを複雑に思います。ある日突然立てなくなる日が来るとは思いませんでした。しかも風邪の延長だと思いこみ、軽く考えていたことを恥ずかしく思います。やや症状も軽減しこうしてのうのうとブログを打っていることも複雑な気持ちですが、健康で毎日働くことのできる日々のありがたさと、地域の救急医療の対応に感謝しています。

 救急車の利用について本当に必要かよく見極めて119番通報するよう周知されていますが、今回外来窓口まで自力歩行できませんでしたので、結果命は助かりましたが、多くの方に御迷惑をかけました。(家族に)

 病院入り口で脈をとって助けてくださった看護師の方、時間外診察にもかかわらず、親身に対応してくださった先生始め心配をかけた家族のためにも、早く治して通常の生活戻りたいと思います。

 

コメント (2)
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