ほしちゃんの「続・なるようにしか、ならん」。

安くてウマいもんと料理と旅行と音楽と競馬が好きなサラリーマンの暮らしを、ありのままに綴ります。

山下達郎、本日67歳になる。

2020-02-04 20:00:00 | No Music,No Life.
今日は、我が尊敬してやまない「歌う人間国宝」山下達郎の67歳の誕生日である。
1980年、当時中1だった私は日立マクセルのCMの画像とあの突き抜ける歌唱に物凄い衝撃を受け、以来40年にわたりファンで居させていただいている。

しかし達郎の半生は、人生の数奇さそのものだ。
音楽を始めたキッカケは達郎が中学入学時に部活を決める時の、記入用紙のアヤなのだそうな。
教室で「入りたいクラブを書きなさい」と言われ、別の部活を記入した達郎はたまたま一番後ろの席に座っており、紙を回収する時に自分の前の生徒が吹奏楽部と書いていた。
達郎は
「こんなに居るんだったら、オレもやろうかな…」
と慌てて席に戻り、吹奏楽部と書き直して用紙を提出。
ところがそのクラスで吹奏楽部を希望したのは、達郎とその生徒のたった2人だったそうな(笑)。

都立竹早高校に進学するも、教師のリベート問題が発覚しゲバルトに発展して授業崩壊。宇宙物理学者になりたかった達郎はドロップアウトし、ますます音楽の道にのめり込んでいく。
達郎と言えばそれこそ
「ビーチボーイズとアイズレーブラザーズとディズニーを、一人でやれる音楽家」
という形容詞も成り立つが、当時から音楽でのコミュニケーションは取れなかったそうな。
周りはジミヘンやクリームを聴いているのに、達郎はビーチボーイズやラスカルズ。
この時に抱いた
「当時ですら誰も聴いていなかった音楽ばかり聴いて育ったボクみたいな人が作った曲を、一体誰が聴くんだろう…」
という独特の思いが、今なお達郎の精神世界の根幹にあるような気がする。

その後は明治大を中退し、自主制作盤が大滝詠一の目に止まりバンド「シュガー・ベイブ」としてデビューするも1976年に解散。
ソロになるも数年は売れず、レコード会社の社員に「まだいたの?」と嫌味を言われつつも1980年「RIDE ON TIME」でブレイク、以来40年にわたり孤高の地位を築き続けている。

達郎はTVには出ないが、CMソングは積極的に作る。これは食えない頃にCMソングで食べさせてもらった恩であり、本人がTVに出演せずにレコードをプロモート出来る手段だからだ。
肝心のTVには、若い時には「出たくても出してもらえなかった(本人談)」。
ブレイクしてからは、竹内まりや結婚騒動で芸能マスコミに激しく追い回されたトラウマがあるのだろう。
以来達郎は
「TVに出ない。本は書かない。アリーナでライブをやらない」
の3ヶ条を謳っている(笑)。

80年代中盤からは、デジタルレコーディングの壁にぶつかる。
「それまで筆とカンバスで画を描いていたのに、Macを与えられて『今日からコレで画を描いて下さい』と言われたような衝撃だった」
と達郎は述懐する。

それを乗り越えた90年代前半は、ホームグラウンドだったスタジオ「スマイル・ガレージ」が取り壊しになり、数年間はジプシー状態でレコーディングもままならなかった。
当時はCDを売ってこそのツアーだったため、アルバムを作れない事にはライブも出来ない。
40代前半、最も脂がのっていた時期だけに残念だ。


2008年、最も愛する大阪フェスティバルホールの取り壊しが決まる。その頃から世間ではCD販売よりダウンロードが主流になっていたため、達郎はフェス取り壊し前最後のライブを皮切りに、アルバムリリースに関係なくツアーを毎年敢行するようになった。これはものすごくありがたい事で、さすがに達郎も肉体的なピークは過ぎてはいるがそれを補って余りある老練な歌と演奏で、観る者を魅了し続けている。

達郎の歴史は、上記のように闘いの歴史だ。ここまで頑固に闘い、そして客に誠実であり続ける稀代のミュージシャンを、私はこれからも謙虚に応援し続けたい…