語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【池内紀】『ゲーテさんこんばんは』

2016年08月14日 | エッセイ
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)18~19世紀の古典は、概して著者の生前には認められず、死後に評価されることが多かったらしい。ところが、『若きウェルテルの悩み』は、刊行直後からベストセラーとなった幸運な作品である。しかし、それでもゲーテは、生前は詩人・作家としてよりも行政マンとし知られた。小さな公国の行政機構の中とはいえ、枢密顧問官にのぼりつめたから、能吏には違いなかった。鉱山の再開発をはじめ、財政改善に東奔西走している。傍ら、あの膨大な詩、小説、劇を書いているから、そのエネルギーには感服するしかない。かてて加えて、文学とは関係のない鉱物学や植物学にも本職はだしの精力を割いているから、彼が生みだした戯曲の主人公ファウストを凌駕する怪物と呼んでもよい。

 (2)本書は、こうした巨人ゲーテの人と作品をやさしく解説する。くだけたタイトルに見られるように、若い層に受けそうな軽い筆致が特徴である。
 〈例〉『ウェルテル』。当時の通信事情、整備されつつあった郵便馬車網という新しいメディアを反映している点に着目し、手紙を今日のe-mail、書簡体小説をパソコン小説になぞらえる。この古典がぐんと身近に感じられるではないか。

 (3)池内紀はドイツ語圏の文学者だから、フランス語圏の文物にあまり同情的でない。
 〈例〉ゲーテの青年期にはやった「自然に帰れ」(ルソーに由来すると言われるが出典不明)について、池内は次のように書く。
 <ついでながらルソーの語ったような「善き田舎人」は、人生読本とかオペレッタには登場しても、現実には存在しないことを私たちは知っている。素朴で正直で陽気な人もたまにはいるかもしれないが、おおかたは頑固で、陰気で、欲ばりである。首にリボンを結び、頭に麦わら帽子をのせているかもしれないが、それは決して純朴さの保証ではない。いつも嫉妬深く隣近所に目をくばり、わが庭とわが家とわが収穫物を疑りの眼差しで、いわば爪と歯で見張っている>
 あるいは、レアリストの都会人が見る田舎人というところか。

□池内紀『ゲーテさんこんばんは』(綜合社、2001/後に集英社文庫、2005)
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【本】新聞やテレビが社会問題をつくる ~日記から~

2016年08月14日 | エッセイ
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 朝日新聞文化欄に連載されたコラムの1979年版。書き手は開高健から宮本憲一まで25人。一編600字、一人が9ないし12編を書いている。内容は、身辺の些事から世相診断、文明時評まで。
 学芸部によるあとがきによれば、短文ながら、いや逆に短文ゆえに読者は多かったらしい。開高健が檜山良昭『スターリン暗殺計画』を絶賛したところ、たちまち多数の書店で売り切れたという逸話がある。ちなみに、この本は後に推理作家協会賞を受賞した。
 コラムの一例を引く。
 1979年当時、子どもの自殺の増加がマスコミをにぎわした。なだ・いなだは、講演会で聴衆に質問した。
 「最近子どもの自殺は増えていると思うか?」
 挙手多数。
 「逆に減っていると思う人は?」
 一人もいない。
 そこで、なだ・いなだは三度目の質問をした。
 「では、自殺の統計を調べた人はいるか?」
 これまた一人もいない。
 じつは、厚生省(現在は厚生労働省)の統計によれば、昭和30年前後をピークに急減した。1979年当時、最大の時期に比べて3分の1になっている。
 新聞やテレビが子どもの自殺を大きくとりあげるから、読者、視聴者は増えたという印象をもつのだ、となだ・いなだは解説する。

□朝日新聞学芸部・編『日記から』(朝日新聞社、1980)
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【本】スペインの古城を泊まり歩く ~パラドールの旅~

2016年08月14日 | エッセイ

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 スペインでは古城、宮殿、修道院が国営のホテルとなっている。パラドールがそれである。著者はそのほとんどを回りめぐった。そうした旅の視覚的かつ味覚的魅力を本書は語る。
 ちなみに、アルカサル(セゴビア城)は「白雪姫」の舞台となった。その事実は意外と知られていない。

□太田尚樹『アンダルシア パラドールの旅 カラー版 -スペインの古城に泊まる-』 (中公文庫、1997)
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【本】逆転につぐ逆転の法定ミステリー ~炎の裁き~

2016年08月14日 | 小説・戯曲

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)主人公ピーター・ヘイルの父は、さる法律事務所の代表弁護士、オレゴン州法律家協会の会長経験者。ピーターも弁護士だが、高校からロー・スクールまで成績は劣悪、私生活でも不始末ばかり。要するに、親の庇護の下でかろうじて弁護士でござい、という顔をしていられたのだが、自信だけはたっぷりあって、主任弁護士に任命してもらえない不満を常日ごろ抱いていた。
 とある事件の最終弁論が予定されている朝、父が心臓の発作で倒れた。救急車で運ばれる寸前、父は無効審理の申し立てを厳命する。しかし、野心に燃えたピーターは、あえて父に代わり自分が法廷に立った。傲岸と浅慮の結果は、惨めなものであった。初歩的なミスをおかし、クライエントに大損害を与えたのである。

 (2)父は、ピーターを事務所から追放した。オレゴン州東部のウィタカー市の法律事務所に斡旋したのが、せめての思いやりであった。
 人口1万3千人の町で、年棒1万7千ドル?
 ピーターの失望は深かった。
 事件が、向こうからやってきた。
 ウィタカー市で再会したスティーヴ・マンシー(ロー・スクールの同級生)の、新妻ドナの弟ゲイリー・ハーモンが女子大生殺害の容疑で起訴されたのである。ゲイリーには軽度の知的障害があり、尋問で警察官の誘導にのせられた疑いがある。
 だから勝てる、と見てピーターは弁護を引き受けた。最初、高額の報酬に目がくらみ、事件を失地挽回の機会とだけとらえていたピーターだが、次第に真剣に取り組むにいたる。
 ゲイリーの告白は、知的障害者特有のあいまいさがあり、立証された他の事実との矛盾もあった。
 裁判が進むにつれ、有罪となる見こみが高くなってきた。法廷で対決する検察官、ベッキー・オシェイは、死刑判決を勝ちとることで出世をもくろむ野心家であった。当然、準備は万端おこたりはない。ピーターの反撃は、次々に撃退される。判決の日、陪審員はゲイリーにとって最悪の結論をくだす。

 (3)以下、ネタバレの恐れあり。
 たいがいの法廷物はここでジ・エンドとなるのだが、本書では紙数がまだたっぷり残っている。最後の最後まで、意外な事実がいくつも曝露されるから、息をぬけない。
 伏線がきちんと用意されていている。立証された事実と矛盾するゲイリーの告白すら、ゲイリーの視点に立って事実を見なおせば、事実の別の様相が明らかになる仕組みになっている。
 著者は映画を意識しているらしく、映画談義が本書にちらと出てくる。
 著者はまた、ペリー・メイスンを意識しているらしく、本書に何度かこの名が出てくる。実際、真実を率直に語らない依頼者という点で、また真犯人が依頼者とは別にいるという点でペリー・メイスン・シリーズのパロディだ。ただ、真実を語らないのは知的障害ゆえに表現力に限界があるから、という点で新味を出している。その知的障害の描き方はやや類型的だが、それなりに特徴を描きだしている。

□フィリップ・マーゴリン(田口俊樹・訳)『炎の裁き』(ハヤカワ文庫、2000)
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【芥川龍之介】華麗なレトリック ~侏儒の言葉~

2016年08月14日 | 批評・思想
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 アフォリズム集。
 「荻生徂徠」の項にいわく、
 <①荻生徂徠は煎り豆を噛んで古人を罵るのを快としている。②わたしは彼の煎り豆を噛んだのは倹約の為と信じていたものの、彼の古人を罵ったのは何の為か一向わからなかった。③しかし今日考えて見れば、それは今人を罵るよりも確かに当り障りのなかった為である>

 ①から③は、引用にあたって文ごとに仮につけた。
 ①において読者が通常着目するのは「古人を罵る」点。荻生徂徠の奇癖と見て、「ふむ、なるほど」で終わるのが通常だろう。
 しかるに、芥川龍之介は②において焦点をずらす。枝葉の「煎り豆」を、さもこれが重大事であるかのようにクローズアップするのだ。そして、「倹約の為」と、もってまわった解釈をする。ここにおかしみが生まれる。著名かつ謹厳な儒者が、一転して世間によく居る吝嗇漢に変わるのだから。
 ②においてずらした論点を③で元にもどす。元にもどすが、②でとりあげた枝葉が茂りだし、意表をつく皮肉となる。つまり、徂徠が行ったこと(古人を罵る)ではなくて、徂徠が実際には行っていないこと、少なくとも行っていると周知されてはいないこと(今人を罵る)に着目し、行っていないことを非難するのだ。②で、人物の格が落ちた印象をいちど与えているから、「当り障り」のない議論をするのも当然な矮小な人物、という印象へさほど無理なくつながる。
 機知とはかかるものか。華麗なレトリックと呼ぶべきか。しかし、嫌な論法ではある。難癖をつけようとすれば、いくらでも難癖をつけることができる、ということの見本だ。
 しかし、耳をすませば、批評家の批評にいちいち反論できない実作者つまり龍之介の怨み節がかすかに聞こえてくるような気がする。つまり、常日ごろ、この調子で難癖をつけられているという思いが龍之介にあったのではないか。端正な文体で鋭い皮肉を放つ龍之介の仮面の裏には、繊細で傷つきやすい唯の人のハートがあったと思う。

□芥川龍之介『侏儒の言葉』(岩波文庫、1968)
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 【参考】
【言葉】瑣事 ~芥川龍之介の華麗なレトリック~

【本】マフィアをはめた男 ~フェイク~

2016年08月14日 | ノンフィクション

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 FBI特別捜査官、ドニー・ブラスコことジョセフ・ピストーネの回想録。
 マフィアのファミリーの一つに潜入し、幹部の篤い信頼を獲得し、その信頼を存分に利用して組織犯罪の証拠を集めた。偽装は完璧であった。摘発され、著者の正体を明かされた後も、あの彼が・・・・FBIの罠だ、と幹部はなかなか信じなかった、という。その分、組織の怒りは凄まじく、この潜入捜査官の首に50万ドルの賞金をかけた。
 映画化された。アル・パチーノが騙されたマフィア役を老練に演じている。

□ジョセフ・ピストーネ(落合信彦・訳)『フェイク ~マフィアをはめた男~』(集英社文庫、1997)
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【本】宝さがしと謎とき ~海賊オッカムの至宝~

2016年08月14日 | 小説・戯曲

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)星新一編訳『アシモフの雑学コレクション』(新潮文庫、1986)にいわく、<カナダの東部ノバスコチア沖のオーク島には、深い縦穴がある。水がたまっていて、その底は不明。18世紀に正体不明の男たちが掘ったという以外、なにもわからない>。
 これが、本書の舞台、米国メーン州沖合に位置するノコギリ島のモデルである。

 (2)ノコギリ島には海賊エドワード・オッカムの財宝、20億ドル相当が埋蔵されているという伝説があり、2世紀にわたって幾たりかの人々が挑戦したが、財宝が隠されているとおぼしき一帯の〈水地獄〉に祟られて経費がうなぎのぼりに上がり、破産した。命を失った者も少なくなかった。
 こうした一人を祖父としてもつ医師、ハーバード大学出のマリン・ハッチのもとに、一人の男が訪れた。祖父からノコギリ島の地権を継ぐマリンと契約を交わしたい、と申し出たのである。資金もスタッフも資材も確保済みだという。ヴェトナム戦争で掃海艇の艇長をつとめた男、ナイデルマンは、静かに自信に満ちた口調でハッチを説得をする。20年間、宝探しの山師を追い返してきたマリンは動揺した。とどめの言葉は、「<水地獄>を誰が設計したか、その正体を突き止めたのです」
 設計者? 自然が欲深な人間を阻止してきたのではなかったのか。少年時代に兄を呑みこんだ〈水地獄〉の謎が、今や解き明かされようとしているのか。
 かくて、スティーブン・スティルバーグ監督映画さながら、テンポの速い展開で、愕くべき結末まで一気に進む。

 (3)以下、ネタバレの恐れあり。
 罠の先に罠が待ち受けている、さらに別の罠が。
 こうしたくどさもスティルバーグ監督映画と共通しているが、読んでいるうちは気にならない。一読後、矛盾に気づく。たとえば、ナイデルマンが必死に探し求める宝物〈聖ミカエルの剣〉。小説が設定する効果をもつ物質を豪奢な装飾をもつ剣に仕立て上げることができる人間は、少なくとも海賊オッカムの時代にはいないはずだ。
 とはいえ、スティーブンソン『宝島』に胸を躍らせた人なら、本書を堪能できる。いや、『宝島』を読んでいなくても宝探しや発掘に関心をもつ人なら、やはり楽しめる。暗号、コンピュータ、地質学が好きな人も。
 海賊の知識があると、いっそう興趣が深まる。クリントン・V・ブラック(増田義郎・訳)『カリブ海の海賊たち』(新潮選書、1990)なぞ、どうだろう。

□ダグラス・プレストン/リンカーン・チャイルド(宮脇孝雄訳)『海賊オッカムの至宝』(講談社、2000)
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【本】少年に自立を教えるには ~スペンサー・シリーズの初秋~

2016年08月14日 | 小説・戯曲

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)スペンサー・シリーズにおいて、主人公スペンサーは自らについてほとんど語らず、スペンサー以外の者がスペンサーについて語る。結果として、
   ①スペンサーは自己抑制的で何ものにも心を動かされないタフな神経の持ち主という印象を読者に与える。
   ②生じる問題も弱みも、スペンサー以外の誰か(依頼者あるいは事件に群がる有象無象)に属し、スペンサーには属しない、という印象を読者に与える。
 実際にはそうではなくて、怖い時には怖い、とスペンサーは率直に漏らす。それは当然だ。自分の力の限界を自覚しないでやたらと強がるのは、状況判断能力の欠如を示す。非常に危険だ。
 しかも、スペンサーの場合、怖さを意識しつつ、それに押しつぶされることなく、乗り切る意志の強さをもつ。つまるところ、スペンサー・シリーズの魅力のひとつは、この意志であり、自己コントロールの強さだ。

 (2)ところで、『初秋』の主題は、失敗した家庭内教育と、成功した社会教育である。
 妻よりも母親よりも女でありたいパティ、漁色に忙しく、離婚した元妻パティには嫌がらせしか考えないメル。こうした両親のもとで、近々16歳になろうとするポール・ジャコミンはテレビしか楽しみのない無気力な少年となっている。
 スペンサーは、森で少年と一緒に暮らし、手作りで家を建てつつ少年の体力を鍛える。体力のみならず、自分が何をしたいのかを自分で決める意志も育てる。
 スペンサーの教育方法はいっぷう変わっているが、その精神は奇異なものではない。米国にはフロンティア精神の伝統がある。その精神は今はどこかの博物館で埃をかぶっているのかもしれないが、スペンサーが短期間のうちに少年に教えたのは、まさにかっての開拓者の知恵であり、自立の精神であった。

 (3)スペンサー・シリーズでは、いくぶんキザだが、単純で筋のとおった哲学が随所に披露される。このあたりも、シリーズの魅力だろう。本書では例えば、少年とスペンサーは次のような会話をかわす。
 「なにが書いてあるの?」
 「14世紀のことだ」
 彼は黙っていた。薪の端から樹液が流れ出て下の熱い灰の中に落ちた。
 「なんで1400年代のことを書いた本を読むの?」
 「1300年代。20世紀が1900年代であるのと同じだ」
 ポールが肩をすぼめた。「だから、なぜそんなことについて読むの?」
 私は本をおいた。「当時の人々の生活がどんなものだったか、知りたいのだ。読むことによって、600年の隔たりをこえた継続感を得られるのが好きなのだ」

□ロバート・B・パーカー(菊池 光・訳)『初秋』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1988)
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【アンリ・トロワイヤ】大帝ピョートル

2016年08月14日 | 歴史

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 本書は17世紀から18世紀にかけてロシアに君臨したピョートル1世を主人公とする歴史小説。
 ピョートル1世は、造船工学から砲術まで貪欲に近代科学ないし技術を吸収し、服装から教育制度まで西欧化を進めた。近代的軍隊を育て、スウェーデンのカール12世を打ち破った。
 かくて大帝と呼ばれるにふさわしい業績を残したのだが、他方では平然と無茶な指令を発し、人命を軽視すること塵芥のごとくであった。お気に入りの側近さえ気分しだいで簡単に斬首し、叛逆者一党に対する処置は残忍きわまる。いわんや名もなき民をや。牛馬以下の扱いだから、新帝都ペトログラードの建設に当たっては、死屍累々となった。
 要するに、大帝の性格は矛盾の塊だったのだ。そして、矛盾の統一は弁証法によらず、動物的な精力によった。パンタグリュエル的暴飲暴食、女とくれば手あたり次第の放埒乱脈な生活。常識とか節度とかいう文字はピョートル大帝の辞書にはなかった。

□アンリ・トロワイヤ(工藤庸子・訳)『大帝ピョートル』(中央公論社、1981/後に中公文庫、1987)
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【ジョン・グリシャム】路上の弁護士

2016年08月14日 | 小説・戯曲
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)人気作家ジョン・グリシャムの長編第9作目。法廷あり弁論あり、手慣れた筆致で弁護士の生態が描かれるが、マンネリズムには陥っていない。一作ごとに、米国の今日的な社会問題に切りこむからで、本書でも新たな分野に挑戦している。
 グリシャム作品は、エンターテインメントの形式を借りた社会学とでもいうか、米国社会の一面を活写しているのだが、本書ではこの特徴がことに濃厚で、弁護士のソーシャルワーク的機能を盛りこんでいる。かと言って、ちっとも堅苦しくはなく、三枚目ふうの、幾分軽佻浮薄な語り口に乗って、一気に読みとばせる。

 (2)主人公は、マイクル・ブロック、32歳。弁護士800名を擁するドレイク&スウィーニー法律事務所の反トラスト法部門に所属するシニア・アソシエイトである。週6日、一日15時間働き、年収は12万ドル。パートナーに昇格すれば年収100万ドルは軽い。同期の入所者中、パートナーに最短距離に位置すると目され、3年後には昇格がほぼ約束されていた。だが、禍福はあざなえる縄の如しで、妻クレア(外科医師、レジデント)との結婚生活は破綻寸前だった。

 (3)そのドレイク&スウィーニー法律事務所に、白昼堂々と賊が侵入した。腹にダイナマイトを巻き、マイクルをはじめとする9名の弁護士に銃を突きつける。浮浪者の身なりだが、かってはそれなりの暮らしをしていたらしい。頭は切れる。悠揚せまらぬ物腰は、かえって人質たちの恐怖を募らせる。
 「きみ」という馴れ馴れしい呼称を拒んで、ミスターと呼ばせる。ミスターは、弁護士たちへ奇妙な問いを発した。「おまえたちは慈善事業にいくら寄付したのか?」
 ホームレスの給食所には?
 救護所には?
 無料診療所には?
 居並ぶ弁護士たちは次々に、寄付していない、という答を返す。銃の脅威が、ますます深刻になってきた。

 (4)これが発端である。事件は急転直下解決を見るのだが、ミスターの発した謎の問い、「だれが強制立ち退きの担当者なんだ?」がマイクルの胸中にくすぶった。
 心の後遺症は、後に主人公自身思いもよらなかった行動に導く。事件直前までそのために身を粉にして働いていた巨大法律事務所とまっこうから対決することになるのである。いずれが破滅するのか。緊張に満ちた1か月間が本書で描かれる。

 (5)表題の「路上の弁護士」は、①ホームレスを弁護する弁護士、②ホームレスとなった弁護士、③ホームレスを弁護するホームレスである弁護士・・・・の3通りの解釈ができよう。そのいずれであるかは、一読すれば直ちに自答できる。

□ジョン・グリシャム(白石朗・訳)『路上の弁護士』(新潮社、1999/後に新潮文庫、2001)
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【A・J・クィネル】地獄の静かな夜 ~短編集~

2016年08月14日 | 小説・戯曲
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)A・J・クィネル唯一の短編集。「手錠」「愛馬グラディエーター」「バッファロー」「ヴィーナス・カプセル」「六十四時間」「ニューヨーク、ニューイヤー」「地獄の静かな夜」の7編をおさめる。
 この連作短編は、訳者あとがきによれば、1993年にクィネルに出会ったときに訳者・大熊榮が持ちかけたのが契機となった。作家としての想像力の広さを示したい、と考えていたクィネルは二つ返事で引き受けた。

 (2)その自負は作品が証明している。長編作家クィネルの別の才能が本書で発揮されている。
 世界各地を舞台とし、ストーリーはどれ一つとして他と似ていない。じつに多彩である。共通しているのは、緊密な構成で、結末のひねりもよくきいている。プロ・ボクサーの筋肉のように、落とせるところまで贅肉をおとして、長編とはちがう短編の妙味、切れ味のよさを見せている。
 短編作品によって、フレデリック・フォーサイスとの違いがますます明らかになる。フォーサイスは人間を突き放して見ている。それはそれで独特の味わいがあるのだが、登場人物はレポートの対象でしかないという印象も強い。クィネルの場合、情念のドラマがある。これを訳者は「愛(と憎しみ)」と呼んでいる。友情を含むこの「愛」は、いずれも抑制され、持続的で、常に行動をともなう。

 (3)こうしたクィネル的特徴は、本書の総題となった「地獄の静かな夜」 A Quiet Night in Hell に遺憾なく発揮されている。
 読者に対するサービスも遺漏はない。「愛馬グラディエーター」には、クィネル・ファンには疾く承知の人物が最後の最後に登場し、しかも重要な役割をはたすのだ。

□A・J・クィネル(大熊榮・訳) 『地獄の静かな夜』(集英社、2001)
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 【参考】
書評:『ブルー・リング』
書評:『モサド -暗躍と抗争の六十年史-』 ~インテリジェンスと国家~
書評:『あの原子炉を叩け!』
書評:『スナップ・ショット』


【本】アミエルの日記 ~わが魂の遍歴~

2016年08月14日 | エッセイ
 (1)社会思想社は、現代教養文庫と題して、よいアンソロジーをたくさん出した。
 たとえば、『戦後の詩』。戦後という時代を色濃く反映した詩編を古風な定型詩から前衛詩まで網羅した。
 あるいは、『愛すること・生きること』。膨大なロマン・ロラン全集から名言を選びだし、さながらロラン自身によるロラン入門だった。
 2002(平成14)年、社会思想社が倒産し、終刊したのはまことに惜しまれる。既刊書、約1,800点。

 (2)アミエルの膨大な日記を1巻に抄訳した本書も、現代教養文庫の秀逸な1冊だ。古今東西を通じて代表的なこの日記文学に近づきやすくしてくれた本だ。
 日記にあらわれたアミエルは、自分の存在が他人に影響を与えるのを極度におそれた人である。怖れ、かつ、畏れた。ために、いろいろ思い惑いはしても、行動に移ることができなかった。
 人は、一定の状況の中に生きる。条件づけられた存在である。行動するには、選択しなくてはならない。あるものを選択するという行為は、同時に、別の、選択しなかったものを棄てる行為でもある。
 アミエルは可能性の一部を棄てることができなかった。だから、いつも決定を先延べし、時間の経過により、すべてを棄てる結果となった。

 (3)要するに、優柔不断な意気地なしというのが通説なのだが、林達夫「アミエルと革命」「社会主義者アミエル」(いずれも『林達夫著作集4 批評の弁証法』、平凡社、1971)は、通説とは少しちがったアミエル像を提示している。
 抄訳の本書からも、通説とは違う、アミエルの多様な側面を読みとることは可能である。
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

□アンリ-フレデリック・アミエル(大塚幸男訳編)『アミエルの日記 ~わが魂の遍歴~』 (現代教養文庫、1968)
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【食】中毒が後を絶たない ~肉の生食~

2016年08月14日 | 医療・保健・福祉・介護
 (1)2016年のゴールデンウィークの最中、「肉フェス2016年春」の2会場(①東京お台場、②福岡市舞鶴公園、主催は同じ会社)で、鶏肉が原因と推定される食中毒が発生した。
 ①では、患者数49人。東京都は、原因食品を「ハーブチキンささみ寿司」と断定している。
 ②では、108人が腹痛や下痢などの症状を訴えた。原因食品は「ハーブチキンささみ寿司」か「鶏むね肉たたき寿司」で、加熱不足が原因と推定される。
 ①でも②でも、複数の従業員や客からカンピロバクターが検出された。

 (2)日本の食中毒の原因物質で、突出しているのが①ノロウイルスと②カンピロバクターだ。
 ①の感染ルートはさまざまだが、②の場合は食肉が多い。最近は、鶏肉を刺身やタタキのように、生や生焼けで提供する店が増えている。これは、食肉の生食ブームの影響が大きい。食は、いつのまにか「やわらかいものがおいしい」という風潮になってしまった。食肉のやわらかさを突き詰めると「生食」に至る。
 家庭では鶏肉を生では食べない消費者も、外食だと平気で食べてしまう人がいる。だが、家庭でも外食でも、食中毒の危険性は同じだ。
 牛肉や豚肉は法律で生食が規制・禁止されているが、鶏肉には規制がない。
 2015年、豚肉の生食を禁止した際、「鶏肉の生食も禁止すべきではないか」という意見はあった。しかし、②の食中毒はここ10年以上死者がなく、重症化した例もほとんどないこと、さらに食を規制しすぎることへの批判も強く、見送られた、という経緯がある。

 (3)鶏肉の生や生焼けを食べるのは自己責任ということだが、食肉の生食が好きな消費者が、その危険性を十分理解しているかどうか、非常に疑問だ。
 2016年6月、豚のレバーを生で提供したとして、神奈川県横須賀市の居酒屋経営者が、食品衛生法違反の容疑で逮捕された。水曜日限定の裏メニューとして提供されていたもので、店も客も、法律で禁止されている食品だと認識していたことになる。

 (4)フグのように生死に関わることがない、と思っているかもしれないが、食中毒を軽視しない方がいい。食中毒で亡くなるのは高齢者や小さい子どもがほとんどだが、青年層・壮年層が重篤にならないわけではない。
 2011年の焼き肉チェーン店の集団食中毒事件では、5人の死者を出している。ユッケに付着していたと推定される腸管出血性大腸菌O157が原因だったが、14歳の男子中学生と43歳の女性が亡くなった。

 (5)7、8月の暑い時期も食中毒は発生する。この時期、夏祭りや海辺のバーベキューなど、人が集まる機会も多い。それだけに集団食中毒も発生しやすい。食品安全委員会も、バーベキューやピクニックでの食中毒に注意するよう警告している。
 2014年7月26日、静岡市の花火大会で、患者数510人の集団食中毒事件があった。原因食品は、「冷やしキュウリ(浅漬け)」、原因物質は腸管出血性大腸菌O157だった。
 夏休みは、子どもと一緒に屋外で飲食する機会が多い。食肉の生焼けや浅漬けは、子どもには食べさせないことだ。

□垣屋達哉「後を絶たない食肉の食中毒 これからの季節、本当に注意して」(「週刊金曜日」2016年8月5日号)
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