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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

菅谷館跡ガイドツアーに参加してきました

2025年04月19日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉

比企郡嵐山町にある国指定史跡比企城館跡群菅谷館跡の館跡ガイドツアーに参加してきました。菅谷館跡
内に所在する埼玉県立嵐山史跡の博物館が年6回実施しているもので、同館のガイドボランティアの案内を
聞きながら、自然豊かな館跡を巡るというものです。
菅谷館跡は、これまでに同館主催の文化財めぐりや個人で何度か散策しておりますが、ガイドツアーには
参加したことはありませんでした。
しかし、何か新しい情報や発見があるかもしれないし、他の参加者の知識が吸収できるかもと考え初めて
参加してみた次第です。



参加者は10名にも満たない数で、ガイドボランティアの方を含めてやっと10名超えでしたが、回数を多く
実施しているので仕方ないことかもしれません。



まずは国道254号線バイパス沿いにある「搦手門跡」(現在は、館跡・博物館の入り口となってる)から。


国道254号線の文字の「4号」と言うところが「搦手門跡」
この後、「三ノ郭」北側の土塁と堀の外側にある道路に進み、土塁と堀を外から確認。内側からでは中々
わかりにくい土塁の折りを確認するためでした。
詳細は省きますが、そのまま外の道を進んだあと、館跡内に戻り、「西ノ郭」ー「三ノ郭」に架かる「正
坫門跡」の木橋(復元)を渡り「三ノ郭」を抜けて、「畠山重忠像」~「ニノ郭」~「南郭」~「本郭」
で解散となりました。
ガイドボランティアの方の説明に質問していた方は一人しかおらず、あとの方は黙って説明を聞いている
のみでしたので、城館に対してどれだけの知識を有しているのか全く窺い知ることはできませんでしたが、
私の拙い知識からすれば皆さんはそれ以上の情報知識があるのかも知れませんネ。


ガイドツアー参加日:令和7年(2025)4月19日(土)

文化財めぐり「比企地域の中心 松山城跡を訪ねる」

2025年02月28日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉

令和7年2月28日(金)に実施された
埼玉県立嵐山史跡の博物館 令和6年度文化財めぐり3
比企地域の中心 松山城跡を訪ねる
に参加してきました。

松山城跡は、国指定史跡比企城館跡群を構成する城館の一つで、築城時期は不明ですが、15世紀末頃と言
う考えが有力です。戦国時代の重要な拠点であったことから、多くの勢力の間で争奪戦が繰り広げられた
城でした。



今回の文化財めぐりは事前申し込みの必要はなく、参加希望者は、当日、松山城跡に隣接の国指定史跡吉
見百穴出入り口前に参集と言うもので、午前午後の2回にわたり実施されました。
自身は午前の部に参加しましたが、予想以上の参加者があったことから2班に分けて、嵐山史跡の博物館
の学芸員の案内で時間差で出発となりました。



坂道を上っているのは先発の班 各班とも20数名の集団です


根小屋虎口からの登城です
要所要所の写真を撮れればよかったのでしょうが、何せ集団行動ですので何枚かの写真を撮るに精一杯で
したので役に立たないかもしれませんがご容赦下さい。



惣曲輪では発掘調査が行われています(本日は発掘はお休み)


兵糧倉


本曲輪


ニノ曲輪


これから馬出しに向かいます


馬出し


空堀


三ノ曲輪


三ノ曲輪


三ノ曲輪から堀切を隔てて曲輪四を


曲輪四  写真中央やや上に見えるのは通路状土塁
ここから根小屋虎口方向に戻り城跡めぐりは終了でしたが、希望者はこの後吉見百穴・吉見町埋蔵文化財
センターの見学(有料)。何回か見学している自身はパス


攻城日:令和7年(2025)2月28日(金)

さきたま史跡の博物館「古墳群ガイドツアー」に参加してきました。

2024年04月08日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉

埼玉県立さきたま史跡の博物館のリニューアル記念イベントが 4 月 6 日(土)に開催されましたので、
そのうちのひとつ「古墳群ガイドツアー」に参加してきました。
今回の古墳群ガイドツアーは、埼玉古墳群の古墳のうち、築造時期の古い順に3基の古墳(稲荷山古墳・
丸墓山古墳・二子山古墳)を、さきたま史跡の博物館の学芸員の案内で回ったもので、上掲の「国指定特
別史跡埼玉古墳群」図のA~G~Aのコースでした。



午前の部と午後の部のうち自身は午後の部(午後2時~3時15分)に参加
事前予約の必要はなく当日申込で各回先着30名程度ということで、さきたま史跡の博物館前で受付が行われ
ました。午後の部の参加者は約20名程だったようです。



博物館前から愛宕山古墳、忍城城主であった奥平松平家9代・11代・12代の墓がある天祥寺の脇を通り丸
墓山古墳方向に



丸墓山古墳の手前まで来ました。コンクリートポールの先の道は、石田三成が忍城を水攻めにするために
築いた石田堤の跡の一部
ここを右折して稲荷山古墳へと向かいます



稲荷山古墳前方部の階段を登って
この稲荷山古墳の前方部は田畑に転用するために土取りが行われてしまったため消失していたものを復元
したもの



稲荷山古墳前方部から丸墓山古墳を


前方部から後円部へ


国宝「金錯銘鉄剣」等が出土した場所について説明する学芸員
この稲荷山古墳の築造時期は5世紀後半、墳長全長120.2m



稲荷山古墳後円部から下って丸墓山古墳へ


丸墓山古墳へは北側から登ります


丸墓山古墳周囲の桜と菜の花も満開です


丸墓山の築造時期は6世紀初頭、直径105.0m
数年前までは日本で1番大きな円墳とされていたが、奈良市の某円墳がこれを上回るとされ、一番ではな
くなったが日本最大級クラスの円墳であることに変わりはありません
墳頂にて、丸墓山古墳は台地の端の方に築造されたと説明する学芸員
学芸員の左側に少しだけ見えるのが将軍山古墳



墳頂から石田堤跡の桜


やはり墳頂から


これも墳頂から


南側の階段から降りて今度は二子山古墳に向かいます


二子山古墳  築造時期 6世紀前半、墳丘全長132.2m 
埼玉古墳群の中では一番大きな遠方後円墳

この後、愛宕山古墳の脇に出て博物館まで戻って解散 予定よりちょっと早く、ちょうど一時間のツアー
でした。


催行日:令和6年(2024)4月6日(土)

さきたま史跡の博物館「スペシャル古墳群ガイドツアー」に参加してきました

2023年04月06日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


4月1日(土)に、さきたま古墳公園の「にぎわい広場」が開園しました。
これを記念して【埼玉県立さきたま史跡の博物館】の「スペシャル古墳群ガイドツアー」が実施さ
れましたので参加してきました。
埼玉古墳群を見学に行く方たちの多くは丸墓山古墳や「辛亥銘鉄剣(しんがいめいてっけん)」が出土した
稲荷山古墳のある北側のエリアに行っているようで、南側にある奥の山古墳や鉄砲山古墳などへ行
く方は少ないようです。
今回のガイドツアーはそうした行く人が少ない古墳を学芸員の方の説明を聞きながら廻るというも
のでした。




「にぎわい広場」の中にある【観光特産館さきたまテラス】




「スペシャル古墳群ガイドツアー」の参加受付はにぎわい広場で午前10時30分から行われました。
事前申し込みではなく、当日の現地申込です。
参加者名簿に氏名を記入し、資料・メモ用紙。アンケート用紙を頂きツアー開始を待ちました。




ツアー開始は午前10時45分で、館長の挨拶の後、まずはさきたま史跡の博物館の学芸員と古代人と
ともに博物館前の「さきたま古墳公園案内図」の前に向います。




ここで学芸員の方から埼玉古墳群の説明を受けました。




最初は行ったのは「奥の山古墳」
古墳についての説明は省略させていただきますが、詳細はこの現地解説板や博物館のHPを参考にし
て下さい。以下同様




「奥の山古墳」 前方後円墳





奥の山古墳の外堀から出土した「盾持人埴輪」を修復復元し、そのモニュメントがおいてあります
学芸員の背後の白い部分は外堀を平面復元したもの




モニュメントの傍らにある「奥の山古墳・盾持人埴輪」説明板




次の古墳に向かいます。右側に写っている方が”古代人”(博物館職員)です




「奥の山古墳」解説板




「奥の山古墳」 前方後円墳
実は古墳の前で数名の男女が腰を下ろして何やらしていましたので、解説板で隠れるようにして
撮ったものです。




「鉄砲山古墳」解説板
鉄砲山古墳の名称の由来は、近世に忍藩がこの古墳の周辺で砲術の訓練を行ったという伝承があっ
たことによる。




鉄砲山古墳を南側から撮っていますが、全体は入りません。
左が「前方部」 右側が「後円部」




鉄砲山古墳の北側に回り込みました
墳丘に昭和26年建立の『史蹟埼玉村古墳群】標柱  側面に「鉄砲山古墳」と刻まれています




砲術訓練の場所となった「角場遺跡」
中央の窪んでいるあたりを的にして射撃したようです




古墳通り(県道77号)を横断して二子山古墳へ向かいます




「史蹟 将軍塚・稲荷山・ポチ山 入口」と刻まれた標柱 昭和四年六月建立
これも貴重なものですね




「二子山古墳」 前方後円墳




「二子山古墳」解説板




前方部後方から 南側の状況




前方部後方から 北側の状況




中堤造出しから二子山古墳を見学する参加者
ここで「スペシャル古墳群ガイドツアー」は現地解散となりました。

見学日:令和5年(2023)4月1日(土)

比企地区文化財めぐり~松山城主上田氏ゆかりの地を歩く・東秩父村~

2019年11月14日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


比企地区文化財振興協議会主催「比企地区文化財めぐり」
本年度は、~松山城主上田氏ゆかりの地を歩く・東秩父村~
実施月日:令和元年11月14日(木)
見学場所:千部供養板碑群、安戸城跡、山田氏五輪塔群、天神社の大杉、身形神社、浄蓮寺など(徒歩約7㎞)

に参加してきました。

各見学場所の説明は省略しますが、行程を表す写真のみを下に載せておきます




比企地区の各市町村ごとに集合して、行政バスなどで今回の文化財めぐりの出発場所である「東秩父村和紙の
里」に集まってきます。




開会式  全部で200人弱の参加者がありました
開催地の東秩父村の村長さん 見学先のひとつ浄蓮寺の住職さんもフル参加です




出発です  午前10時を少し前くらい




幹線道路を避け田畑沿いの道を最初の見学地『千部供養板碑群』へ




『千部供養板碑群』




『安戸城』に向います




本郭に着きました  さほど高い山城ではありませんがやはり山道はきつい




決して広いとは言えない本郭にだいぶ見学者が集まりました  




数年前に単独でこの安戸城跡を攻めたときには、この説明板は設置されていませんでした。
本郭と二の郭があるだけの小さな城跡です




寺岡方面から登ってきましたが、下りは都沢方面に下りて昼食場所である『安戸グラウンド』に向います。




『安戸グラウンド』の上にある『能氣神社』




能氣神社 御由緒




昼食後 梅沢太久夫 先生(元埼玉県立歴史資料館館長)がわざわざお越しいただき、見学先の文化財につい
て解説してくださいました。




『山田氏五輪塔群』見学者の長い列




『山田氏五輪塔群』




『天神社の大杉』に向います




天神社 御由緒




右側の大杉  全体の写真は撮れませんでした




天神社




見形神社へ向かう途中「安戸休憩所」で小休憩とトイレタイム




見形神社へ向かいます  ほんとに長閑な風景です




『見形神社』




最後の見学地『浄蓮寺』  上田氏の菩提寺です




中央の石段の上に上田氏累代の墓があります




浄蓮寺から再び「東秩父村和紙の里」に戻って解散式を済ませ、各々行政バス等で地元に 
この時間は午後3時ころ 予定より早めの帰路なりました。
比企地区各市町村持ち回りで、来年は、川島町で開催予定とのこと。

参加日:令和元年(2019)11月14日(木・埼玉県民の日)

古墳群ガイドツアー「万葉歌碑を巡る」

2019年11月02日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


埼玉県立さきたま史跡の博物館主催
「古墳の日」記念事業 古墳群ガイドツアー「万葉歌碑を巡る」
 日時:令和元年11月2日(土)14:00~15:00
に参加してきました。

さきたま古墳公園内の丸墓山古墳や国宝「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」の出土した稲荷山古墳
を中心に埼玉古墳群を学芸員に解説・案内して頂きました。最後は万葉集の歌が刻まれている前玉神社の
石灯篭を見学。
予定時間を20分ほどオーバーしてまで細かい説明を頂きました。




受付・集合場所のさきたま史跡の博物館前を出発して丸墓山古墳に向います




丸墓山古墳 この手前でも丸墓山古墳が位置する場所について等の説明を頂きました




丸墓山古墳の墳頂で学芸員の方から説明を受けます




稲荷山古墳に向います




稲荷山古墳後円部の「礫槨」を実物大の写真で
実は稲荷山古墳の前方の方形部は元々のものと思っていましたが、土を使うために削り取られてなくなっ
てしまっていたため再現したものということを初めて知りました




浅間塚古墳の墳頂に鎮座する前玉(さきたま)神社




前玉神社への石段登り口の左右にこのような石燈籠が一対あります(行田市指定有形文化財)
元禄10年(1697)10月15日に地元埼玉村の氏子一同が奉献したもので、それぞれに万葉和歌が陰刻されて
います




左側の石燈籠には  『萬葉集』 9巻1744  「小崎沼」の歌が
右側の石燈籠には  『萬葉集』14巻3380  「埼玉の津」の歌が
万葉仮名で陰刻されています

『萬葉集』 9巻1744 「小崎沼」の歌
原文:小埼乃沼尓 鴨曽翼霧 己尾尓 零置流霜乎 掃等尓有斯
読み:前玉(さきたま)の 小埼(をさき)の沼に 鴨(かも)ぞ 翼(はね)切る 己(おの)が尾に 
   降り置ける霜を 掃(はら)ふとにあらし

『萬葉集』14巻3380 「埼玉の津」の歌
原文:佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽祢
読み:埼玉(さきたま)の津に居る船の風を疾(いた)み 綱は絶(た)ゆとも言(こと)な絶えそね

※大意・作者等については省略します(後日付け加えるかもしれませんが)

以上、万葉歌碑を巡るというガイドツアーではありましたが、石燈籠のみで市内にある万葉歌碑までは巡り
ませんでしたので、機会をみて訪問したいものです。

ツアー参加日:令和元年(2019)11月2日(土)

文化財めぐり 中世の城館跡を訪ねる2「戦国の山城・杉山城跡を訪ねる」

2019年06月07日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による

文化財めぐり 中世の城館跡を訪ねる2「戦国の山城・杉山城跡を訪ねる」

が、6月7日(金)に催行されましたので参加してきました。

縄張りの巧みさは日本屈指であり、「山城の教科書」とも言われている杉山城跡です。個人では複数回攻城して
いる城跡ですので、あらためて縄張りを確認するというよりも、参加の皆さんの城跡や文化財などにに対する考
え方や知識を少しでも吸収出来ればと参加した次第です。

生憎の雨天となったことにより、見学予定地をカットしたりコースの変更があったりしましたが、無事に終了し
ました。
本来なら、城跡の写真を多用すればよいのでしょうが、団体行動の上、雨でレンズが曇ったり雨粒が付いたりで
ほとんど撮っていません。「参加してきたよ」との意味合いで行程の写真を何枚か載せて置きますので、これで
ご勘弁の程を。




東武東上線武蔵嵐山駅が集合(9:45)・出発(10:00頃)場所です。




駅東口から線路沿いの道を




鎌倉街道上道跡の道路(歩道)を歩いて  信号機の先が志賀観音堂石仏群




志賀観音堂石仏群には寄らずに交差点を右折し嵐山町役場に向います




嵐山町役場の標識  ここから緩やかな坂を上がっていきます




そう高い山ではありませんが、嵐山町役場は山の上にあります




嵐山町役場に着きました  ここで時間調整と諸々の見学 




ロビーの一画にある続日本100名城スタンプ設置場所




その隣には杉山上の模型  諸々とはこれらのこと
博物館関係者や博物館のボランティアの方々を含めると60人位の大人数がロビーを占拠した形になってしまいました
「何、この人たちは?」と怪訝な顔をしている役場職員も・・・




役場を出て昼食をとる予定場所の杉山公民館に向います




杉山公民館に到着
公民館と言っても、集落の集会所のようで通常は閉まっていますので、主催者が鍵の管理者のもとへ鍵を借りに
行って使用させていただきました。ここで昼食休憩  
12:30 嵐山町の観光ボランティアの方3名と合流 参加者を3班編成にして杉山城跡に向います




杉山城が続日本100名城に選定された後に整備された見学者駐車場経由で城跡に向います
今後、車で杉山城跡に訪れる人のために駐車場の場所を知ってもらうという意味も込めてのコース設定




大手口に着きました
ここからは班ごとにボランティアの方と見学です 全員一緒の見学には無理がありますので3班別々のコース取り
をしての見学




ボランティアの方の説明を受けています




今歩いている場所は馬出郭辺りか?




馬出郭口前で説明しているボランティアの方
向うに見えるのは別の班の参加者 南三の郭の上ですね




本郭跡に建つ 史蹟杉山城阯の石碑と杉山城跡説明板




北三の郭の先にある搦手口




杉山城跡の見学を終え、市野川沿いの道を歩いて嵐山町立図書館経由で武蔵嵐山駅方向に




解散場所の武蔵嵐山駅に着きました(15:00頃)

以上、城跡見学のリポートでありながら肝心の郭や土塁等の説明や写真がなく恥ずかしい限りです。

散策日:令和元年(2019)6月7日(金)

文化財めぐり 中世の城館跡を訪ねる1「鎌倉街道沿いの菅谷・大蔵の館跡を訪ねる」

2019年04月27日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


平成31年4月26日(金)催行された
埼玉県立嵐山史跡の博物館 平成31年度文化財めぐり 中世の城館跡を訪ねる1
「鎌倉街道沿いの菅谷・大蔵の館跡を訪ねる」
に参加してきました。

【コース】
午前:嵐山史跡の博物館ロビー(9:45集合)=== 博物館展示室見学 === 菅谷館跡見学 === 昼食(博物館)
午後:鎌倉街道の石碑(鎌倉街道の推定道筋1)=== 二瀬橋で都幾川を渡河 === 行司免遺跡の井戸跡 === 大蔵神
   社(大蔵館跡)=== 源義賢墓 === 向徳寺 === 学校橋で都幾川を渡河(鎌倉街道の推定道筋3)===(鎌倉
   街道の推定道筋2)=== 武蔵嵐山駅(解散)

雨が降ったり止んだりの中の散策でした。以上のコース・見学場所のすべてではありませんが何枚かの写真を載
せておきます。

※トップの嵐山史跡の博物館入口の写真は以前撮ったものを使用(今回は撮り忘れたため)




博物館ロビーで今回の文化財めぐり担当者・博物館学芸担当者からの説明を受けます




展示室に入ると畠山重忠の音声ロボットが出迎えてくれます。
重忠の顔は歌舞伎役者が演じた重忠(歌舞伎絵)を基にしてとのことです。実際の重忠の顔は分りませんから。
ところで重忠の被っている兜を見て何か気付きませんか? そうです、立物(鍬形)がありません。重忠が活躍
した時代、立物(鍬形)の付いた兜は、総大将クラスの武将が身分を示すために被ったそうです。
重忠も一軍の大将ではありましたが、軍を率いる総大将ではなかったためこうした兜を被っていたようです。
戦国時代のころにはそうした縛りはなくなり、武将は思い思いの前立てを付けるようになりましたが・・・

なお、通常ですと展示室内の撮影は禁止されておりますが、今回は、「ただ今の期間、展示室内の 写真撮影は
可能です」とありましたので、初めて撮りました。




嵐山町・平沢寺境内の長者塚から出土した鋳銅経筒 
銘文にある「当国大主散位平朝臣茲縄」は、畠山重忠の曽祖父・秩父重綱であると考えられている




博物館入口である搦手門跡で説明を受ける




三ノ郭を「正坫門(しょうてんもん)」・「木橋」方向に




木橋(復元)の上で説明を受ける  橋の先の郭は西ノ郭




二ノ郭から本郭に




本郭小口の土塁と空堀




本郭内で土塁・空堀についての説明を受ける
また、畠山重忠の居館があったのはここ本郭にあったのではないかと言われたり書かれたりしているが、その根
拠はなく、どこにあったのかは不明とのことです。
更に、菅谷館は重忠が築いたと言う説が流布しているようですが、重忠が築いたと裏付ける資料はないとのこと
でもあります。
菅谷館跡は館跡と言うよりも城跡(菅谷城跡)と言ってもよいくらいですが、館跡としているにはそれなりの理
由があるようです(間違ってはいけませんので、そのことには触れませんが)




本郭南側の土塁の所で、南側の土塁のが北側の土塁に比べて低い理由の説明を受けた後、南側土塁の外側を歩い
て南郭方向に




南郭




二ノ郭西側の空堀を忠魂碑の脇から




秋の嵐山まつりの際に行われる流鏑馬の馬場となる二ノ郭の道を歩いて 右側は本郭の空堀




二ノ郭門跡の土塁上に建つ畠山重忠像 鎌倉を向いて建てられています




再び本郭内を歩いてに東側の生門跡へ




本郭東側の空堀
この後、博物館に戻り昼食  予定では屋外の芝生上での昼食でしたが雨天のため館内の研修室をお借りして




午後の最初は鎌倉街道の推定道筋1にある「鎌倉街道の碑」〔昭和33年(1958)建立〕




菅谷館跡周辺の鎌倉街道の道筋については3ルート以上が提唱されているようですが、発掘調査による裏付けが
なされていない現状では、どのルートが本来の本筋であるかわ断定できないようです。
鎌倉街道の説明板の前を鎌倉街道の推定道筋1が通っています。
かつては、菅谷館跡西側・大蔵館跡西側を結ぶこの道筋が支持されていたようですが、現在は、推定道筋のひと
つとして捉えられています。
※推定道筋の後の番号は説明するうえでの便宜上の番号です




推定道筋1の道筋にある二瀬橋の上から槻川と都幾川の合流点(河岸場があったと推定される)を望む




都幾川沿いの道から菅谷館跡南側方向を  上の方で記した南側の土塁が北側の土塁より低い理由については、
この都幾川が天然の要塞として控えていたから特別高くする必要がなかったためと推測します。




行司免遺跡(中世の集落跡)を歩きます  耕地整理されて集落の痕跡はありません




行司免遺跡の遺構として畑の中に唯一残る石組みを持つ井戸跡
農道から見るだけでしたので説明板も裏側しか見えませんでした




大蔵館跡(大蔵神社)に向けて




大蔵神社がある森を西方から




大蔵神社  大蔵神社は大蔵館跡の一画にあるもので大蔵神社が大蔵館跡と勘違いしている方も・・・
説明するまでもありませんが、大蔵館跡は源義賢(木曽義仲の父)の居館跡とされます。
都幾川を挟み北側には午前中散策した平氏を出自とする畠山重忠の居館跡とされる菅谷館跡が、そして、南側に
は、源氏である義賢のこの居館跡があります。
館同士は時間を共有したことがあるか知れませんが、源義賢が甥の悪源太義平に討たれたのが久承2年(1155)、
畠山重忠が誕生したのはそれより9年後の長寛2年(1164)ですので、二人が時間を共有したことはありませんで
した。




え! 鳥居が新しくなっている  赤い鳥居のはずだったのに  今年3月に建て替えられたようです




神額の文字も「大蔵神社」だったのが「日吉山王大権現」に変っています  何故、なぜ?
大蔵神社の境内には「山王大権現」社がありますし、山王様は源氏の氏神様でもありますからね。
続いて館跡周囲を廻ります




館跡北西隅に遺る土塁




館跡北辺の道を北方に向けて歩きます




館跡東辺の土塁




(伝)源義賢の墓  覆屋で保護されています




(伝)源義賢の墓前で五輪塔の形状から銘文等が判明しなくもある程度の年代が推定できるなどの説明を受ける
 



(伝)源義賢の墓・五輪塔
この五輪塔には空風輪(空輪と風輪を一つの石で作ったもの)がなく、別の五輪塔の火輪が一番上に乗せられて
います。




(伝)源義賢の墓から鎌倉街道の推定道筋2を歩いて向徳寺へ向かいます




向徳寺
時宗のお寺で山号を大福山と号します

今回は特別なご配慮を頂き、旧法では国宝指定であった「国指定重要文化財 銅像阿弥陀如来及び両脇侍立像」
を直接拝観させていただきました。撮影は禁止さていましたので写真はありません。




「嵐山町指定有形文化財 向徳寺板碑群」
こちらも今回特別に覆屋の施錠を解いていただき見学させていただきました




覆屋に納められたすべての板碑を一つの写真にはできませんので半分程を




向徳寺で、銅像阿弥陀如来及び両脇侍立像・向徳寺板碑群を拝観見学のあとは鎌倉街道の推定道筋3にある学校
橋で都幾川を渡河、254バイパスに出て国立女性教育会館前をあるきます。




推定道筋2沿いにある稲荷塚古墳




同上




解散場所の武蔵嵐山駅に着きました

今回の文化財めぐりに当って内容の濃い素晴らしい資料の提供いただきました。また、詳しく分り易い説明もい
ただき大変有意義な文化財めぐりであったことを最後になりましたが書き添えておきます。

散策日:平成31年(2019)4月26日(金)

武蔵武士の本拠を訪ねる3 丹党加治氏の遺跡を巡る ③

2018年03月19日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


智観寺で宝物殿の収蔵品や中山信吉らの墓を見学後は、智観寺のすぐ東方にあった中山家範館跡の散策です。
館跡の一角に中山家範館跡碑と中山家範館跡説明板が並んで建てられていますが、これは館跡碑。




石碑の右側に建っている中山家範館跡の説明板 褪色してほとんど読めない状態ですが、写真元画を拡大して何とか読んでみました。
文面は次の通りです。

埼玉県指定旧跡
   中 山 家 範 館 跡
                                         飯能市大字中山496番地2ほか
                                         昭和38年2月7日指定
 中山氏は武蔵七党の一つ丹党の出で、鎌倉時代の加治家季の頃に中山に居住し、中山を氏とするようになったという。館の西方に
位置する智観寺には、加治家季夫妻の供養のために建立されたと推定される板碑(仁治2・3年、1241・1242年)がある。
 中山家範は後北条氏に従い、天正18年(1590)八王子城で戦死している。
 この館は小規模なものであり、周囲に推定幅4~6メートル、深さ1~2メートルの堀をめぐらしていた。この内堀は東西約60
メートル、南北約90メートルで、外郭は東西約110メートル、南北約130メートルと推定される。館の北には勘解由山があり、
館は丹生堀と加治堀の水源にはさまれていた。また西に智観寺、北西に丹生社、北に鎮守12社が置かれた。
 館の周辺には中山家に仕える武士の居宅や田畑があり、中山氏は日常は農業経営を行い、武芸の鍛錬に励み、戦闘にあたっては武
士団の長として活躍した。
 館跡は戦後、北堀及び西堀の一部が残されていたが、現在は宅地化が進み、空堀が北西部隅に残されるのみとなっている。
  平成8年3月
                                              埼玉県教育委員会
                                               飯能市教育委員会




上記説明板の地図部分 撮影したそのままでは見づらいので加工してあります。
現在地の文字の左側に黒点がありますが、遺構はその場所に土塁と堀跡がわずかに残る程度で、周囲は完全に住宅街と化しています。




僅かに残る土塁と空堀跡です。ガレージの向こう側に石碑と説明板が建っています。ガレージの向こう側の道路からは、ガレージの
陰になっていますのでこの遺構は見えません。
石碑や説明板があるから、また、この場所に中山家範館跡の遺構があるといった予備知識があれば、土塁や堀跡を遺構と認識できる
かもしれませんが、石碑や説明板もなく、予備知識もなかったら、ここが館跡とはお城ファンでも気付かないかもしれません。




反対方向から見た土塁や堀跡 こう見ただけではただの窪地くらいにしか見えません。




中山家範館跡見学の後は最後の見学場所加治神社です。




「中山氏と加治神社」説明板




「加治神社寛永十九年石灯籠」説明板




社殿前の参加者の様子




社殿

丹党加治氏の遺跡巡りもここ加治神社で無事終了。現地解散となり参加者は最寄り駅や市民会館へなどと帰路につきました。

散策日:平成30年(2018)3月16日(金)

武蔵武士の本拠を訪ねる3 丹党加治氏の遺跡を巡る ②

2018年03月18日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


 智観寺は、平安時代元慶年間(877~885)武蔵7党の一つ、丹治武信の創建である。丹治氏は、28代宣化天皇の曾孫、
多治比古王より出、武蔵国司として任ぜられ次第に土着豪族として勢力を拡大した。その後、中山に本拠を構え、加治氏として名
乗った末裔が、「中山氏」となったのである。
 加治氏は鎌倉時代北条氏に仕え、その板碑塔婆は県指定文化財となり、その館跡は当時の面影を残す重要な資料として千葉県佐
倉市の国立民族博物館に模型として採用されている。ちなみに板碑とは、畠山重忠と戦った加治家季公を弔った碑である。
 中山氏は、天正18年(1590年)八王子城を最後まで守った勇者中山勘解由家範の働きが豊臣秀吉、徳川家康に絶賛され、
その子照守は徳川家旗本に、弟、中山信吉は15歳で家康の小姓となった。さらに、信吉は水戸徳川家の付家老として幕府より派
遣され、黄門様として親しまれる2代光圀を世継ぎとして3代将軍家光に言上した功績で知られている。また、信吉は林羅山、伊
達政宗とも昵懇であった。寛永19年(1642)に卒し智観寺に葬られる。以後、13代までの墓がある。なお。日光輪王寺に
も碑がある。                (チラシ「真言宗豊山派 常寂山蓮華院智観寺」から転載)




飯能市民会館会議室での昼食・休憩を終えて「丹党加治氏の遺跡を巡る」午後の部に出発です




住宅街の道を歩いて中山氏のもう一つの菩提寺である智観寺へ向かいます




智観寺の参道前に着きました  文化財表示の標柱と寺号標の石柱




中々味のある手書きの案内板




参道




山門をくぐって境内へ




山号「常寂山」の扁額




山門を入ってすぐの左手にある鐘楼




智観寺 宝物殿
普段は公開されておりませんが、今回、特別に公開をしていただき住職さんからの説明もありました




宝物殿に収蔵されている飯能市指定有形文化財木造薬師如来坐像の説明板
宝物殿内は撮影禁止ですので残念ながら薬師如来坐像の写真はありません




これらは宝物殿に収蔵されているものですが、上述の通り撮影禁止のため写真は撮れませんでしたが、この写真は、頂いた「丹党
加治氏の遺跡を巡る」の資料の中に掲載の写真です。
(出典元として、資料には、飯能市郷土館特別展図録『中山氏と飯能・高萩』2003からの転載とあります)




丹党加治氏の板碑
この板碑の写真も上記同様ですが、ブログ用に説明文の位置だけを編集させていただきました。
この2基の板碑は智観寺墓所に建立されていたものですが、現在は宝物殿に収蔵されています。
右側の仁治二年銘の27は、亡母「名阿弥陀仏の五七日(三十五日)供養のため
左側の仁治三年銘の28は、元久2年(1205)6月の二俣川の合戦で畠山重忠に討たれた加治家季の三十八年忌にあたり建てたと
される。
いずれも阿弥陀如来を示す種子を本尊とし、形態や名分の書き様が共通していることから。家季の息子、助家が父母の供養のた
めに造立したと考えられる。(資料の説明文から抜粋)




宝物殿見学の跡は中山信吉公らの墓の見学のため本堂横にある墓所に向かいましたが、雨がポツリポツリと降り始めていました。




本堂




本堂に掲げられた山号「常寂山」の扁額




「中山信吉と智観寺」についての説明板




上記説明板の中から「中山氏墓所図面」部分を




住職さんの初代中山信吉公の墓についての説明を聞く参加者




信吉公の墓は大きな宝篋印塔です。下から見ただけでも大きいことがわかります。




角度を変えて




中山信義墓石碑




左:6代中山信敏夫人の墓    右:6代中山信敏の墓




左:9代中山政信夫人の墓    右:9代中山政信の墓




左:8代中山信昌夫人の墓   右:8代中山信昌の墓




左:?  中央:初代中山信吉夫人の墓   右:初代中山信吉息女の墓  




7代中山信順の墓




13代中山信宝の墓




左:12代中山信守夫人の墓   右:12代中山信守の墓




左:10代中山信敬夫人の墓   右:10代中山信敬の墓




左:3代中山信治夫人の墓   右:5代中山信成の墓




3代中山信治の墓

他にも中山氏の墓がありましたが全部を撮ることはできませんでした。




風軒跡(中山信正霊屋跡)の説明板




石柱、石敷、石柵が遺る




智観寺に関する資料

散策日:平成30年(2018)3月16日(金)