
散歩道 川の中の岩の上に何か小鳥が・・・『カワセミ』だ!
しかもお魚を銜えていました。
安物のカメラとレンズではトリミングしてもこの程度

更にトリミングして・・・

対岸の枯れ草にお魚を銜えたまま移っていきました
今年1年お世話になりました 新しい年もよろしくお願いいたします
多気比売神社 御由緒 桶川市篠津 ⊡ 御 縁 起(歴 史) 『延喜式』神名帳に戴る足立郡四座のうちの一座「多気比売神社」に比定される当社は、篠津の 集落の南に、赤堀川を望んで鎮座する。赤堀川を挟んで対岸は一面の水田となっているが、かつて は「篠津沼」という大きな沼があった。篠津とは篠の生い茂った中の船着き場に由来するといい、 祭神である豊葦建〔竹〕姫命を考え合わせるに、恐らくは篠や葦・竹の茂った付近一帯を領く女神 を祀ったものであろう。 『風土記稿』篠津村の項に「姫宮社当社は〔延喜式〕内多気比売神社にて、祭神は豊葦建姫命な り神体は女体にて十二単衣冠の坐像〔中略〕金剛寺の持」と載り、江戸期、当社は姫宮社と呼ばれ ており、延喜式内社の多気比売神社に比定されていたことがわかる。しかし、吉田東伍氏は「大日 本地名辞書」の中でこれを否定し、さいたま市緑区三室の氷川女体神社を本来の多気比売神社であ るとしている。 別当の金剛寺は、真言宗の寺院で、社蔵の文化5年(1808)の「姫宮大明神」再建棟札にも「別当 金剛寺専教」の名が見える。 明治初年、当社は社名を姫宮社から多気比売神社に改め、明治6年に村社となった。同40年大 字五丁台字上耕地の稲荷社を合祀した。 祀職は、明治初年の神仏分離により金剛寺の僧が姓を金田と名乗って復飾し神職となり、当社の 東隣に居住して昭和20年ごろまで務めたが、その後、加納の桜井家が継いで、現在に至っている。 【以下省略】 |
多気比売神社と大シイ 桶川市指定文化財【多気比売神社の大シイ】 種別:記念物(天然記念物) 昭和36年4月1日指定 篠津の多気比売神社は、平安時代に編さんされた『延喜式』(延長5年【927】完成)の「神名帳」 に名が載る足立四座の一つで、桶川市内で最古の神社です。祭神は「豊葦建姫命」です。地元では 「ひめみやさま」と親しまれ、古くから安産の神様として信仰を集めてきました。 鳥居の脇にそびえる大シイは、高さ13メートル、根回り6,7メートル、枝張り南北17メートル、東 西14メートル、樹齢は約600年と推定されている古木の風格が漂うご神木です。5月末頃には黄色い 房状の花が咲き、9月にはドングリに似た小さなシイの実が熟します 鎮守の森の象徴ともいえるこの大シイは、境内の他の樹木とともに、篠津地区の人々の信仰と親愛 の情によって、大切に守られてきました。歳末には氏子たちによって境内地の古木に張る太い注連縄 が作られ、前年の縄とは張り替える習わしが続けられています。 平成27年3月 桶川市教育委員会 |
西戸古塚記 この石碑は西戸二号墳上に建てられていたもので、明治二六年(1893)にこの古墳を発掘したと きの様子を記したものです。縦書10行、漢文により刻まれ、その概要は次の通りです。 入間郡川角村西戸に行任塚と云う古い塚がある。 今年の秋、長雨により表土が崩れて石が出て来たので、下を掘ってみると槨(横穴式石室か) がすがたをあらわした。槨の内部は分かれて二つになっていて、その広さはどちらも一丈 (畳)ばかりであった。中からは人骨・刀・鏃・金環が発見され、人骨は数体分あり、主従関 係にあるようで、殉死者がいたようだ。この古墳は、行任その人の古墳であろうか。生きた 人が一緒に葬られたのであるから、この墓の被葬者は貴人と考えられる。 この土地の所有者は供養のために石碑を建てることを考えられ、私(この碑文の作者)も同 感であるから、明治癸巳の初冬(明治二六年)古塚の由来を書き記したのである。 なお、地元には道祖土(さいど)の祖である平維新(行任)と云う人物が初めてこの地に入り、 行任塚はこの人の墓であり、近くの丸山城(不明)は平維新が築いた城であると云う伝説があり ます。殉死者や平維新伝説と云った内容は史実とは考えられないでしょうが、これらの碑文や伝 説から、明治中頃の人々がどのような思いで古墳を見つめていたのかが理解され、大変貴重な資 料となっています。 |
熊谷市指定文化財史跡 横 塚 山 古 墳 指定年月日 昭和44年9月11日 所 在 地 熊谷市大字中奈良字横塚 横塚山古墳は、古墳の形態として代表的な前方後円墳であり、長軸は東西方向を向いています。 墳丘は、一部消滅して現在では全長30m、後円部最大径22,5m、前方部先端幅12m、高さは後円部 で3,2m、前方部で2.5mです。 妻沼バイパスの工事に伴って、昭和46年と51年の二度にわたり墳丘部が調査され、周溝の幅が確認 されています。この周溝により、墳丘は本来東西40mの長さであったと推定されます。周溝の幅は、 後円部南側で、5,8mです。 本古墳の造られた年代は、周溝内から出土した円筒埴輪や朝顔形円筒埴輪によると5世紀末と考え られます。しかし埋葬施設が調査されておらず不明な点が多く明確ではありません。 本古墳の周囲は、現在、水田になっていて、他に古墳は見られませんが、付近で埴輪片や土器片が 採集されます。かつては、付近に数多くの古墳があり、横塚山古墳を中心とした古墳群があったこと が考えられます。 平成8年3月 熊谷市教育委員会 |
鳥居奉献記念 抑々武蔵国44座の1社とたたえ奉る延喜式内田中神社の御祭神は武槌命少名彦名命天穂 日命を奉祭し土人の古き伝説には田中天神と呼び菅原道真公併祀の鎮守にて家内安全交通 安全学問高揚の神として氏子の崇敬今に壮んなり 茲に御影石の大鳥居を御奉献そ大神の御安泰と氏子の守護と繁栄を御祈念申し奉る 右側に埋存せる天然石は常陸国鹿島の要石と同様の伝説を存す 又武蔵国幡羅大里榛名の 三郡の彊域を示す境界石として永遠に伝えん |
熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森 昭和59年3月30日指定 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、 「ふるさとの森」に指定されました。 この「ふるさとの森」八幡神社は、天喜4年(1056)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、 前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところであります。 ここは、平成12年に新装となった本殿・拝殿を中心として、多くの大樹が緑豊かな社叢を形成し、 中には、義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木も,神木として時を語っております。 林相は、主に、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されています。 平成16年3月 埼玉県 熊谷市 |
再建之碑 篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂 当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣 の砌、 当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三 ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として 源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのであ る。 《以下長文に付き省略》 平成13年12月吉日 八幡神社宮司 猿田宣久謹書 |
久保嶋大神社鳥居の由来 所在地 熊谷市久保島四七一の二番地 平成十六年十二月解体した際に、柱のほぞから願主と大工の名前とともに、嘉永二己酉年(1849年) 四月吉日の建立を示す墨書が発見されました。 建立以来一五六年ぶりに立て替えられた鳥居は、明神鳥居系の中でも両部鳥居と呼ばれ、笠木が反り 返っている曲線構造です。柱は、転びと言われ少し斜めになっており、補助の控柱で支えているのが特 徴的です。 世界遺産で知られる厳島神社の鳥居と同じ型で、熊谷市内でも木造鳥居として極めて重要です。 |