鎌倉時代初頭、源頼朝の家臣・馬場資幹が館を構えたのが起源とされ、1426(応永33)年に江戸通房が奪った後、その本拠として拡張した平山城。
那珂川と千波湖に挟まれた天然の要害である台地に、土塁と堀のみで築かれた。1590(天正18)年、江戸重通に勝利した佐竹義宣がその翌年に入城
すると、近世城郭として城下町も含めて整備。関ヶ原の戦い後、義宣が出羽国秋田(秋田県秋田市)に本拠移転を命ぜられたため、徳川家康の五男・信吉、
十男・頼宣が続けて城主となり、水戸徳川家初代となった十一男・頼房が城主となると徳川家一門の居城としてさらに拡張されたが、石垣も天守も持たな
いまま幕末まで使用された。廃城後は、残されていた三階櫓も戦災で焼失。現在は城門と堀と土塁、三の丸に設けられた藩校・弘道館が残されている。
(「戦国武将データファイル43 名城コレクション 水戸城 」より引用転記)
本日、毎週発刊されている「戦国武将データファイル」43号を購入してきたが、今号の名城コレクションは「水戸城」であった。ここにも書かれている
弘道館は今月11日に発生した大地震の影響を受けて一部損壊したとの報道である。被害はこの弘道館に限らず、鉄道、市街地受けたようである。
実は地震発生の翌日に当たる3月12日(土)に、私は水戸市を訪ねる予定でいた。某旅行会社企画の貸切列車を利用して水戸市に行き、
偕楽園梅まつりや水戸城跡等を見て歩く計画をたて、この企画に申し込みをし代金振込み済みであった。
ところが前日に地震発生となり、この企画は中止となった。このときはまだ被害の大きさが分からず、正直な話、水戸行きが出来ないことを残念に思ったのである。
しかし、日を経過するに伴い、水戸市を含む茨城県下も大きな被害を受けたことが分かり、地震がもう1日後に起こっていたら私は水戸市にいたわけであり、
考えただけでもぞっとしてきた。
今回の災害から復興までには長い道程があるかもしれないが、水戸市を訪れることが許される時がきたら再度水戸散策を計画したいと考えている・・・・
投稿日:2011年(平成23年)3月23日(水)