四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

ろうばい

2016年12月31日 | 花・鳥・風景


散歩道にある或るお宅の蝋梅が咲いていた。丁度、奥さんが出かけるところだったので、「(蝋梅の)写真を撮らせてもらっていいですか?」とお願いをしてみた。
「どうぞ、どうぞ」と、更に「(枝を)切りましょうか?」「いえ、写真だけで」。と言うことで、道路から庭の蝋梅を数枚撮らせてもらった。今年初めて見た咲いた蝋梅を。







内容のない拙い投稿を繰り返しているうちに2016年も終わりました。新しい年は中味のある記事が投稿出来るよう頑張りたいと思います。
1年ありがとうございました。引き続きこのブログを可愛がっていただければ幸いです。

2016(平成28)年大晦日

世界遺産 富岡製糸場 Ⅱ(群馬県富岡市)

2016年12月30日 | 史跡・遺跡・文化財




世界遺産富岡製糸場見学記パートⅡです
さらっと見学して帰る予定でしたが、思っていた以上に広い敷地で沢山の建物・施設でしたので。




現在保存修理工事中の「西置繭所」(国宝)  2015年から始まって5年計画で保存修理を行うとのこと




西繭倉庫(西置繭所)の説明板




工事内容の説明板
レンガの外壁に見えたのは実際の外壁ではなく、修理のため西置繭所を覆っている素屋根の外壁で実際の外壁がシートに印刷されていただけです
保存修理工事を期間限定で見学できるということで、早速、受付に




見学施設は富岡製糸場見学料とは別に200円(大人)の料金がかかります。これは安全上被るヘルメットの貸出料と言うことになっています。
それがこのヘルメット




ヘルメットを被ってまずは「鉄水溜」に




鉄水溜




白ヘルメットでオレンジの服の方は職員




煙突




煙突の説明板




西置繭所を覆っている素屋根の外壁  遠くから見ると実際の外壁かのように見えました(私だけかな)




仮説見学施設へ




保存修理中の西置繭所工事現場の撮影は禁止されていましたが、フロアーからガラス越しに場内を撮るのはOKでしたので3階フロアーから




同上




西置繭所工事現場見学は気持ち程度で終えてヘルメットを返還し 繰糸場へ




繰糸場表入口




繰糸場説明板




繰糸場内部




天井はこんな具合です




一部の繰糸機は覆いをせずに公開しています  ニッサンHR型自動繰糸機




ゴンドラ(?)で繭などを運んでいたのでしょう




首長館(ブリュナ館)




同上




ここも首長館(ブリュナ館)の一部のようです




榛名寮(女性従業員寮)説明板




榛名寮




寄宿舎[浅間寮・妙義寮]説明板
さすが上州(群馬県)だけあって、上記の榛名寮を含め群馬県の名山を寮名にしています




寄宿舎[浅間寮・妙義寮]




蚕種製造所跡  今は更地になっています




片倉診療所




診療所・病室説明板




病室




女工館説明板




女工館




検査人館説明板




検査人館




東置繭所を女工館前から




更に東置繭所




今度は反対方向から




記念碑




記念碑説明板




国指定史跡 旧富岡製糸場の石標


若干の見学漏れもあったようですが以上です。いつの日か機会あれば、伊勢崎市の田島弥平旧宅、藤岡市の高山社跡、下仁田町の荒船風穴も訪ねてみたいものです。

見学日:2016(平成28)年12月24日(土)

世界遺産 富岡製糸場 Ⅰ(群馬県富岡市)

2016年12月29日 | 史跡・遺跡・文化財




群馬県富岡市にある「旧富岡製糸場」が世界遺産(文化)に登録されたのは2014年(平成26年)6月のことです。その何年も前から、「旧富岡製糸場」を
世界遺産にとの運動が繰り広げられていて、群馬県内等のイベント見学に行くと、「富岡製糸場を世界遺産に」というチラシをよくいただいたものです。
また、上信越自動車道を走っていますと、やはり、富岡製糸場を世界遺産にと書かれた繭の形をした大きなモニュメントが目に飛び込んできました。
そんな世界遺産富岡製糸場ですが、正しくは「富岡製糸場と絹産業遺産群」と言う名称であり、この富岡製糸場と
田島弥平旧宅(伊勢崎市)・高山社跡(藤岡市)・荒船風穴(下仁田町)という3つの養蚕に関わる資産を包括したものです。




世界遺産となって2年半経っていますが初めての見学でした。当初は500円(大人)だった見学料も、その後の大雪(50cm)で繭の集荷場などが倒壊、大改修に
100億円が見込まれる等、世界遺産を守っていくために観光客の皆さんにもにも負担して頂きたいとのことから値上げして現在は1000円となっています。




入場してすぐ目の前に見えるのが「東繭置所」(国宝)  まずはここから見学していきました




記念にと皆さん写真撮影です  実際にはここに写っている以上の方が見学に来ていますが、人の姿が少ない時を狙って撮りました




東繭倉庫(東繭置所)説明板




倉庫右側部分「原料課」の表札が掲げられたところに




ガイダンス展示  沢山のパネルで富岡製糸場の歴史やその他諸々が紹介されています  また映像コーナーもあります
全部のパネルを撮ってくる余裕はありません 内容を事細かく読んでいる方もおりパネル前が空くことも少ないですし  




富岡製糸場の建物模型




倉庫を支える柱と天井




柱を支える礎石




世界遺産登録認定証(複製)




官営で始まった富岡製糸場も民営に移行されましたがその歴史をパネルで(一部)




田島弥平旧宅・高山社跡の説明パネル 無論 荒船風穴の説明パネルもありましたが




田島弥平旧宅模型




高山社跡模型




荒船風穴模型




続いて東繭倉庫左側部分へ




座繰りの実演や体験やできるようです




繰糸作業の再現を描いたパネル




わらマブシに替わって普及した回転マブシ




倉庫内部はこんな状態になっています




東繭倉庫の2階も一部公開されています  ここは2階廊下(通路)部分 ここを歩くことはできませんので見るだけです
倉庫裏側の階段上り口で係員からパス(許可証)を頂き、見学を終えて降りてきたらお返しします




公開されている2階部分にある  国宝「東置繭所」にいて の説明板




公開されている2階内部




場内数か所に設置されている場内案内図
  



東置繭所の裏側(?)
写真右端にちょこっとだけ写っている階段から2階へ上がります




記念にしたいけれど悲しいかな単独での見学のため被写体がおらず




社宅群




社宅群の一部




社宅群の一部

この他の見学した施設はパートⅡにして投稿します  順序だっての見学ではありませんでしたから行ったり来たりですが。

見学日:2016(平成28)年12月24日(土)

川井城跡(群馬県玉村町)

2016年12月28日 | 100名城以外の城館跡


上野国の滝川一益の軍勢と武蔵国の北条氏直・氏邦らの軍勢が、国境近くを流れる神流川をはさんで戦ったのが神流川合戦。この神流川合戦に関係する
金窪城跡(埼玉県上里町)、神流川古戦場跡(群馬県高崎市・埼玉県上里町)、軍配山古墳(群馬県玉村町)と、たて続けに訪ね歩きました。更に、
金窪城と共に滝川一益に攻め落とされた金窪城の支城「川井城」(群馬県玉村町川井)を訪ねればよいのでしょうが、今回はそこまで足が伸びませんでした。
が、実は6年半も前の2010年4月に既に訪ねていますので、その際に撮った写真を蔵出し掲載します。遺構として残るのは、当時の本郭の櫓台の跡だろうと
言われるこの八千矛(ヤチホコ)神社がある高台だけのようでしたし、駐車場もなく長い路駐もできませんでしたから、ここに載せた写真しか撮っていません。




八千矛神社裏側から見た櫓台の跡  川井城があった当時はもう少し規模も大きかったと推測します




社前に設置されている案内板  今もこの状態のようです

散策・撮影日:2010(平成22)年4月24日(土)

軍配山古墳(群馬県玉村町)

2016年12月27日 | 古墳


過日、「本能の変」で織田信長が自害した直後に行われた関東管領滝川一益勢と北条勢による神流川合戦の跡地、この神流川合戦の兵火で焼失した金窪城跡址を訪ねました。
更に、その延長として、この合戦の折、滝川一益が本陣にして、軍配をふるい全軍を指揮したとされる軍配山古墳を訪ねないことには話が終わらないということで訪ねてきました。

軍配山古墳は、群馬県佐波郡玉村町大字角渕に所在する。本来の名を御幣山古墳と言い、4世紀末に築造されたとされる径40メートル、高さ6メートルの円墳で、
上記、滝川一益が軍配をふるったことから軍配山古墳と呼ばれるようになったもの。




軍配山古墳を北側から 道路が設けられていますが車1台通るのがやっとですれ違いは無理です




西側から




南側から




玉村町指定史蹟 軍配山古墳とある鉄製の標柱とASITAを走ろうの看板




誰もがこのカルタに描かれている武将は滝川一益だろうと言う 私もそう思う 間違っても北条氏邦と言うことはないでしょう




御幣山〈軍配山〉古墳の説明板
ここを訪れた理由は古墳の勉強ではなく、滝川一益の本陣跡を見に来ただけですから・・・




眺めを確かめるべく墳頂まで




石碑  何が書かれているのか全く見ませんでしたが、あとで調べてみると発掘時のことが書かれているようです




墳頂や墳中段あたりに小さな石祠が並んでいます




墳頂からの眺め  車が走っている右手方向に県道40号線が走っています



玉村変電所方向です




神流川古戦場跡や金窪城跡があるのはこの方向だと思いますが、方向音痴の人間が言うことですので間違いであるかもしれません。
今でも見晴らしがよいですが、残念ながら神流川古戦場跡や金窪城跡までは見えません。当時はさらに良かったのでしょうね。

散策日:2016(平成28)年12月24日(土)

七日市陣屋(群馬県富岡市)

2016年12月26日 | 100名城以外の城館跡


1週間の間に2度も上野国(群馬県)入りをしてしまいました。計画を立てての行動なら1度で済んだのでしょうが、何せ、無計画な思い付きでの行動ですので、
北から南へ行ったと思ったらまた北にと言った具合で、時間の無駄遣いも多いものですから1度で済むものが2度になってしまういつもです。

群馬県富岡市七日市1425に所在する 七日市陣屋跡を訪ねてみました。七日市陣屋は、大阪夏の陣の武功により、
上野国甘楽郡内に1万石を与えられ前田利家の五男利孝が、七日市藩を立藩し、元和2年(1616)に築いた陣屋とのことです。
同じ前田氏でも富山藩は加賀藩の支藩ですが、七日市藩は支藩でも分藩でもなく、ひとつの独立した藩でありました。
また、1万石ですから大名ではありますが、城を持つことのできない俗にいう陣屋大名と言う格の低い大名でありました。
利孝を初代として12代続き、12代利昭の時に明治維新を迎えています。
現在、跡地の大半は県立富岡高校敷地となっており、3分の1程の場所に御殿の一部と黒門が残っています。




国道254号線沿いにある県立富岡高校の正門前に「七日市藩邸跡」の大きな看板があります。この前を何度か通ったことがありますが、
訪ねたのは校庭内に入った(陣屋跡を見るために)のは今回が初めてでした。
看板の上に描かれた梅鉢紋は、星梅鉢で、加賀前田家の剣梅鉢(加賀梅鉢)と若干の違いがあります。黒門の瓦に入っているのも星梅鉢です。




御殿
現在の玄関は天保14年(1843)に再建された




御殿玄関
残念ながら中には入れませんし、見ることもできません。




御殿の右側面




御殿裏側  この背後には校舎が建っています




御殿の左側面




黒門(中門)  民家に移築されていたものをさらに再移築したようです
この黒門以外にも、大手門(下仁田町)、裏門(市内)、南門(市内)が移築現存しているようです。




綺麗に整備された庭




同上




土塁  櫓台跡かとも言われている




石垣  陣屋創建当時のものではなく土塁保護のためのものかと




黒門(中門)を外から

訪問日:2016(平成28)年12月24日(土)

多胡碑(群馬県高崎市)

2016年12月25日 | 史跡・遺跡・文化財


国道254号線を使って群馬県甘楽町方面に行く機会が多かったが、その途中の高崎市(旧多野郡吉井町)内を通過する際に「多胡碑」の案内標識をよく見かけていました。
そんなことから、多胡碑なるものの存在は知ってはいましたが詳しくは知りませんでした。

多胡碑は、多賀城碑(宮城県多賀城市)、那須国造碑と共に「日本三古碑」と称されるとのことです。そんな多胡碑を突然の思い付きで訪ねてみました。




他所を訪ねてからでしたのでかなり遠回りをしてしまったようですがどうやら無事に着きました。




多胡碑のあるあたりは、吉井いしぶみの里公園として整備されています。




多胡碑記念館入口を入って(上がって)行くとまず目に付いたのが2基の古墳です。
なぜこんなところに古墳が2基も並んでいるの しかも全く違う形状のものが?




移築した古墳だそうです




これは見るからに新しい




表側に回ると何となんと  分かり易くしたのでしょうが、これでは古墳が古墳ではないような




やはり移築です  古墳の移築とは初めてです




入口にも立っていましたが [ユネスコ「世界の記憶」へ 上野三碑]の幟が建っています。  上野三碑・・・こうずけさんび
高崎市内にある多胡碑と山上(ヤマノウエ)碑、金井沢碑の3基の総称でそれぞれそれぞれ国の特別史跡に指定されています。
この「上野三碑」をユネスコの「世界の記憶(世界の記憶遺産」への登録を目指しており、昨年、国内候補に決定し、来年の登録可否を待っているとのことです。
多胡碑については前述の理由から知ってはいましたが、山上(ヤマノウエ)碑、金井沢碑については全く知りませんでした。

それにしても、世界遺産(文化・自然・複合)  無形文化遺産   世界の記憶(世界の記憶遺産)と何がどれだか分からなくなってしまいます




木立の向こうに見える建物が、「多胡碑記念館」




休館日。出先から思い付きで来たものですから休館日のことなど考えにも及びませんでした。




多胡碑は風化を防止のためこの覆屋の中に




正面からガラス越しに撮りましたので、どうしても反射してしまいます




こちらは右側面 やはり格子の間からガラス越しに




こちらは左側面 
背面も撮っては見たのですが使いものにならない写真になってしまいました




特別史跡 多胡碑  の説明板
やはり判読できませんので、いつものように分割にしてみます




説明するまでもありませんが、前段部分




碑文写真と語訳部分を横に並び替えてあります




後段部分です




隣にはこんな説明板も  素人の私にはこれで十分です




ここ多胡碑碑来る途中の高崎市役所吉井支所(元・吉井町役場)の駐車場に建てられていた幟のひとつ
これを見て「上野三碑」なるものを初めて知りました。今回も難しいことは分りませんでしたが、上野三碑を知っただけでも収穫ありと自身で評価しておきましょう。

散策日:2016(平成28)年12月19日(月)

神流川古戦場跡(群馬県高崎市)

2016年12月24日 | 古戦場・陣所


神流川古戦場へ行ってきました。正しくは神流川古戦場跡の碑が建っている場所へですが。古戦場跡は武蔵国と上野国との境で、今で言うと群馬県高崎市(旧多野郡新町)と
埼玉県児玉郡上里町との境を流れる神流川で、国道17号線の神流川橋あたり。群馬県側に、神流川古戦場跡の碑が建っており、埼玉県側にもやはりあるとのことでした。
神流川古戦場跡の碑があるということは知っていましたが、まさかあの場所にあったとは、何度か前を通っていながら気づきませんでした。

この神流川古戦場跡の碑を見るために埼玉県側から神流川橋を渡り群馬県高崎市(旧多野郡新町)に入り、碑のある場所を確認してから駐車できそうな場所を探しましたが
交通量の多いところで適当な場所は見当たりません。埼玉県側ならあるかもしれないと、再び神流川橋を渡って埼玉に戻り、河川敷の堤で駐車できそうな場所を探して駐車。
あとは徒歩で神流川橋の袂まで戻り、橋を渡り神流川古戦場跡の碑のある所まで。正直、一番やりたくない方法だったのですが・・・

先に、神流川の合戦とはどんなものであったを記しておいた方がよいでしょう。と言うことで、本来なら自分の言葉で紹介したいところですが、その知識と能力がありません。
このあと写真でも紹介しますが、碑の脇に建てられている「神流川合戦」の説明板の文面を書き写させていただきます。実際には、もっとたくさんの説明が必要な神流川の合戦であるようです。


  『神流川合戦』
天正10年(1582)6月19日織田信長が本能寺で倒れた直後、関東管領・滝川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、
これに対して好機至れりと北条氏は5万の大軍を神流川流域に進めた。滝川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍1万6千を率いて
石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、滝川軍は戦死3760もの戦史に稀なる大激戦で『神流川合戦』と呼んでいる。
後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。
                                        (以上 現地説明板より)

少し補足しますと合戦は2度にわたって行われ、6月18日の緒戦は滝川勢の勝利、19日の二戦目は北条勢の大勝利で滝川勢は箕輪城に敗走。
これが原因でか滝川一益は、信長の後継者を決める清須会議に間に合わず出席できなかったようです。一説には負けたから参加させてもらえなかったとも。




上里町側の堤を歩いていく途中に見つけました。埼玉側にも碑があると言われていたのはこのことだったようです。




石碑でも建っているのかと勝手に思っていましたが、いつもの高札の形をした案内(説明)板でした。判読するのは大変なので写真のみで。




いよいよ橋を渡ります。こんな長い橋を歩いて渡ったことはありません。
橋の両端にある灯籠でこれは埼玉県側のもの 




この灯籠のモチーフとなった武州側の常夜灯は大光寺(上里町)に移築されている旨の記載があります。




合戦があった当時とは地形も流れも変わっているようですが、この辺りを舞台に合戦が行われたのですね 埼玉県側に近い方で撮影
高所恐怖症の私、橋を渡っているだけで足が竦んでしまいました。更に、車が走り去るときの風と橋の揺れが恐怖を誘う。
帰りもまたこの橋を渡って行くのかと思うと・・・




大体この辺りが中間でしょうか
写真左側群馬県側が滝川一益が領していた織田領 右側埼玉県側が北条領




上の写真より若干群馬寄りかな




群馬県高崎市に入りました  10年前までは  高崎市ではなく「新町」の地名標識が架かっていたはずです




神流川橋を渡り終えた目の前に・・・




神流川合戦ゆかりの里と白く抜かれた幟旗 上部の紋は「丸に竪木瓜紋」 滝川氏の家紋ですね。まあ、ここはかつての滝川領ですから
埼玉県側に北条の三鱗紋の入った幟でも立っていれば、なんてつまらない考えは止しましょう




目的の神流川古戦場跡の碑




そして、神流川合戦の説明板




道路反対側から 車の途切れた一瞬を狙って




帰りは来た時撮った神流川とは反対側を高崎線の鉄橋入りで  当然ですが左が埼玉 右が群馬となります

神流川古戦場跡の碑を見たからどうってことはないのでしょうが、でもなぜか歴史へのロマンがあるようで・・・

散策日:2016(平成28)年12月19日(月)

金窪城跡(埼玉県上里町)

2016年12月23日 | 100名城以外の城館跡


上里町金久保地内に「金窪城跡」(別名太瑯〔たや〕城)があるということは以前から知っていました。また、土塁以外の遺構は無いに等しいとのこともそれなりに知識としてありました。
そんな金窪城跡を訪ねてみることにしたものの、所在地が上里町金久保内出とまでしかわからず地番までは分りませんでした。まあ、金久保地内に行けば何とか
見つかるのではないかと例の如く甘い考えで出かけたことに加えて方向音痴を特技としていることから、目標とされる施設さえ見つけられず、何度も同じ道を徘徊する羽目に
(わが愛車に取り付けてあるナビには金窪城跡は登録されていませんし、使用者同様にだいぶ回路が狂ってきたようですので・・・恥ずかしいですね)。
そんなことで2度ほど人にお聞きして何とか辿り着いた次第ですが、とにかくわかり難いところにありました。過去にも、いくら探しても見つからず諦めて帰ってきた城跡が幾つかありますが。




この標識を目にした時の気持ちは何とも言えません   あちらこちら回った挙句に諦めて帰ることにならずにすみましたから




このあたり一帯が金窪城跡のようですが、城跡碑があるのみで土塁跡であろうと言われるところ以外の遺構はないようです。
碑の立つ場所と道路を挟んだ所は「金窪城跡公園」となっており、この写真はその城跡公園から撮ったものです。




道路より一段高くなっているこの一角に城跡碑と説明板が建っています。
しかも、こんな狭いところに碑が2基必要とも思われませんが?
生垣で隠れてしまっていますが、手前の柱状の碑は下部に 入口 と入っています。
入口(階段)に近い方にありますから入口と言えば入り口ではあるのですが必要か?




城跡碑の背後に説明板が放置状態であります 以前は鋼管の柵に取り付けられていたようですが落ちたのか外されたのか無残な形に。
右手には、かつては埼玉県のあちらこちらで見かける高札の形の茶色の説明板があったようですが新しいものに変わっていました。




碑をよく見ると「史蹟 金窪館阯」となっています  てっきり金窪城跡とあるとばかり思っていたのですが、「城」でなく「館」として表現していことに、このブログを書き始めた今気付きました。
更に、色々な方のブログ等をあらためて覗かせていただいたところ、手前にある「史蹟 金窪館阯 入口」とあるものは、所謂「碑」ではなく、
史蹟金窪館阯への案内標柱であったようで、古い記事のブログではこの標柱が県道沿いの建っている写真。そして、ここには城跡碑1基と説明板しか写っていない写真が掲載されていました。
つまり、本来は案内標柱であったものをここ移したということで、碑を2基建てたわけではなかったようです。
また、この金窪城が出来たころは、館と城とに違いはほとんどないことから、以前は、「金窪館阯」と標記し、最近に至って「金窪城跡」と標記するようになったものと考えらえます。




放置状態の説明板  まだ十分に判読できますが古いからと言うことでしょうか?
昭和十年三月 埼玉県指定史跡となった  と強調して書かれています  かなりの規模の城跡でも史跡指定がなかったり、あっても市町村指定や旧跡扱いの所が多いですが、
この金窪城跡は遺構がないに等しいにも拘らず県指定史跡です。規模や遺構云々もさることながら歴史的背景や価値が重要なのでしょうね(素人判断です)




以前の茶色の説明板に変わって、最近?建てられた説明板 
背後にはしっかりと鋼管の柵が  これがないと遺構探しに私有地に無断侵入するお城マニアがいないとも限りません。真のお城好きにはそんな輩はいないと信じていますが。




正面から撮ってみましたが、新しく艶があることから風景が映っています(写真を撮る誰かの姿がなるべくわからないように撮ってみましたが)
このままですと文字が小さく読みづらいので、いつものように・・・




金窪城趾  ■ 1962年10月1日指定  ■ 埼玉県指定史跡

とありますが、放置状態の白色の案内板では、昭和10年3月 埼玉県指定史跡になった とありますが、1962年(昭和37年)と1935年(昭和10年)では全く違いますが
正しいのは・・・現段階で埼玉県指定史跡であるから何の影響もありませんけれど
更に略図では「金久保城跡」とあります。「趾」と「阯」・「址」・「跡」は同じですから問題ありませんが、「金久保」と「金窪」では・・・?  すみません粗探しばかりしているようで
(2022.1.26追記)
指定関係について確認してみましたら、放置されている看板にあるよう昭和10年(1935)2月31日に埼玉県指定史跡に指定されましたが、昭和37年(1962)10月1日に、埼玉県指定旧跡に指定替えになっていますので、正しくは指定旧跡です。しかし、ここに限らず旧跡指定であるにもかかわらず史跡指定と表記しているところが多々あります。旧跡では馴染みがないから?




これを読めば金窪城の歴史が分ります。

斉藤実盛の名がありますが、斉藤実盛って大蔵合戦(嵐山町)のおり、源義平(悪源太)から殺害の命が出ていた、当時2歳の駒王丸(後の木曽義仲)を
畠山重能(重忠の父)と共に木曽に逃し、駒王丸の命を守ったというあの斉藤さんですよね。決して、トレンディエンジェルの「斉藤さん」ではないですよね。

川窪信俊の名もありますが、川窪信俊って武田信玄の弟、武田信実の子で、父の追善と一族の菩提寺とするため、小川町にあった安養寺を廃し、輪禅寺を建立した方ですね。




最後に、陽の当たる碑のある場所から撮った金窪城跡公園の写真を掲載して金窪城跡攻城(散策)記を終わりにしたいと思います。最後まで読んでいただきた多謝です。

散策日:2016(平成28)年12月19日(月)

帯刀の菅原神社(埼玉県上里町)

2016年12月22日 | 神社仏閣


上里町帯刀に鎮座する菅原神社に寄ってみました。実は、同じ帯刀地内にある福昌寺を訪ねる過程において通りがかりましたので寄った次第でした。
初めからの予定なら寄ったではなく訪ねたとするのですが、変なこだわりがありまして菅原神社さん申し訳ありません(まあ、寄ったも訪ねたも同じことではあるのですが・・・)




合格祈願の幟がはためいていました。菅原神社の名の通り学問の神様菅原道真公が祀られています。同神社のHPには次の通り紹介されています。

御祭神
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
武夷鳥神 (たけひなとりのかみ)
火雷神  (ほのいかづちのかみ)

由緒
平安時代、菅原道真公が九州は太宰府で望郷の思いかなわず没した延喜3年(903)2月25日、その御意を全国に広めるべく、陰陽博士(おんようはかせ)の紀友成は、
菅公の御影を背負い日本回国の旅に出発し、同年5月25日、当地へお立ち寄りになりました。村人たちは村の鎮守とすべく道真公の絵姿を乞い、村内の清浄な地を選び
小さな祠を建立し、併せて神代の神々より武夷鳥神(たけひなとりのかみ)、火雷神(ほのいかづちのかみ)をお祭りしたことが当社の創建と伝えられております。
以来、開運招福・一門繁栄を願う地方の名主の尊崇を集め、たびたび補修・寄進が行われ、村の鎮守社としてばかりでなく、学問の神様として往来する一般民衆にも広く信仰される神社となりました。
当社は往古より天満宮(天神さま)と称されておりました。明治5年に埼玉県児玉郡長幡村村社に列し、同33年には郷社に昇格、同34年社名が菅原神社と改称され、現在に至っております。




鳥居   社号「菅原神社」の扁額が掲げられています




鳥居の前にある社号標  旧社格の郷社の文字が残っています




鳥居をくぐったすぐ右手にある案内板には次のように由緒が記されています。

菅原神社  所在地 上里町帯刀235

菅原神社は縁起によると、治承年間(1177~1181)に伊藤祐親が改築したが、度重なる戦火に焼失し、
建武2年(1335)村民により再建されたと伝えられているので、かなり古い時代に創立されたものと思われる。
江戸時代に至り地頭伊藤刑部左衛門により修繕されたといわれている。
古くは天満宮と称されていたが、明治時代の始めに菅原神社と改称された。
祭神は、武夷鳥神、火雷神、菅原道真公である。
また、境内には、厳島神社、秋葉神社、稲荷神社、八坂神社、八幡皇太春日神社がまつられています。

昭和61年3月  埼玉県 上里町




参道はコンクリート舗装  拝殿の手前左にある建物は社務所




玉垣に掲げられている菅原神社御由緒  内容は他のものと変わりはないです(当然ですが)




拝殿前の左右には菅原神社らしく梅の木が  この写真は左側のものです




拝殿   新築されてまだ10年未満のようです。




拝殿を横から




社号「菅原神社」の扁額




拝殿の右にある境内神社の稲荷神社・愛宕神社  拝殿と境内社の間の裏側に見えるのは古墳です




拝殿背面です  右下の小高い部分は古墳です


予定外の菅原神社参拝でしたが、これを機に学問に励みましょうか 何を学ぶかはこれから考えます・・・学ばずに終えそう

散策日:2016(平成28)年12月19日(月)