四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

「踊る埴輪」モニュメント

2022年06月30日 | 古墳


熊谷市野原(旧大里郡江南町)の八幡神社の境内に2体の「踊る埴輪」モニュメントが建立され、
4月23日に除幕式が行われたとのことから、モニュメントを見に行って来ました。
2体の「踊る埴輪」は、この八幡神社の社殿裏にある野原古墳群から出土したもので、実物は東京
国立博物館が所蔵しています。
モニュメント台座にはめ込まれた銘板には

        踊る埴輪 出土地
   野原古墳群「埴輪 踊る人びと」1930年(昭和5年)3月21日出土
    (古墳時代6世紀 復原高さ 左57.0cm  右64.1cm)

とあります。
2体の「踊る埴輪」モニュメントは石製(花こう岩)で、高さは 左174cm 右195cmですので
実物の約3倍の大きさです。




野原の八幡神社  
社殿の裏から西方にかけて野原古墳群が展開されていますが、開墾や採土等により損壊され、今は20
数基を残すのみです。
『踊る埴輪』はこの野原古墳群から出土しました。




以前から設置されている『八幡神社と野原古墳群』説明板の横に「踊る埴輪」モニュメントと碑が
建立されました。




『踊る埴輪、この地に出土する』碑
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   踊る埴輪、この地に出土する
「踊る埴輪」(「埴輪 踊る人びと」)は、1930年(昭和5年)3月212日、この地に所在する埼玉県大里郡小原
村(現在の埼玉県熊谷市野原)の野原古墳群で出土した2体の人物形象埴輪である。
「踊る埴輪」の製作年代は、周辺の遺構状況や、埴輪の造形比較などから6世紀頃と推定される。踊るような容
姿と、独特の顔の表情が印象的で、国内の埴輪の中で有数の知名度を誇る。その一方で、手綱を持ち、馬を引く
「馬飼」を表現したとする設もある。
 出土後,当時の関係法令に基づき東京帝宝博物館へ移管され、欠損部を補填する修理措置を受けた後、同館が
正式に購入した。戦後は東京国立博物館が所蔵し、考古学者・後藤守一が2体を踊る人物と定義したことで知ら
れる。
 両像は共に左腕を上に揚げ、右腕を前方斜め下に置いている。口と目の部分は概ね大きさの円形にくり貫かれ、
目を見開き、口を大きく開けたような造形が表現されている。髪形や装備の様子から小さい像の埴輪が男子像と
考えられている。
 このモニュメントは、野原古墳群で出土した「踊る埴輪」の記憶を次世代に引き継ぐことを目的に建立された。
この埴輪の躍動感は、野原における大地の響きとなり、ここに住まう人々に勇気と希望を与え続けることだろう。

【裏面】   2022年(令和4年)4月1日
           撰文 高階秀爾・山下祐樹

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「踊る埴輪」モニュメントと碑




2体の埴輪を背後から
「踊る埴輪」モニュメントの台座の裏側には2枚の銘板が嵌めこまれています。

左側の銘板には           右側の銘板には  
  埼玉県熊谷市野原古墳群       踊る埴輪モニュメント建立委員会
  八幡神社 野原自治会        協力 野原自治会 野原八幡神社氏子総代各位
  熊谷市立江南文化財センター     熊谷市教育委員会
  寄贈者 八木賢十郎         ※※※※ ※※※※
                    総括 熊谷市立江南文化財センター山下祐樹
                    施工 ※※石材店 代表※※※※
                    2022年(令和4年)4月1日




写真左  熊谷市江南文化財センターに展示されている『踊る埴輪』レプリカ
     昨年訪館した際の写真ですがショーケースのガラスに反射してしまい1体は残念ながら
写真右  旧江南町の代名詞・キャッチフレーズともいうべき「緑とおどるはにわの里」の看板で
     旧江南地域の市境に何カ所か建てられています。
     下には「江南町 江南町観光協会」と書かれていますがほとんど読めなくなっています。
     代わりに柱に「熊谷市」のシールが貼られています。これは野原古墳群から1kmほどの
     場所に建っていました。

仮に、「踊る埴輪」ではなく「馬飼」(馬曳き人)の埴輪であったとされていたなら、ここまで有
名になることもなかったでしょうし、旧江南町の代名詞はおろか、東京国立博物館のキャラクター
「トーハクくん(本名:東 博 あずまひろし)」のモデル
となることもなかったでしょう・・・!!

散策日:令和4年(2022)6月25日(土)

鎌倉街道上道 -深谷市畠山・寄居町赤浜-

2022年06月28日 | 鎌倉街道


荒川右岸の台地上にある深谷市畠山(旧大里郡川本町畠山)と大里郡寄居町赤浜との境に鎌倉街道
上道の古道跡が残っています。「赤浜天神沢遺跡」と称される掘割状の鎌倉街道上道です。
写真の標柱は、平成18年(2006)1月1日の合併により深谷市となる以前の旧大里郡川本町が建立
したものです。
この標柱前から始まる掘割状遺蹟(深谷市・旧川本町分)は、
  深谷市指定史跡 
  名 称:鎌倉街道上道(かまくらかいどうかみつみち
  所在地:深谷市畠山1500
  指定日:平成15年(2003)6月12日
となっています。
川本町時代に指定され、合併により深谷市となったことから深谷市指定に変更となったようです。

まずは下の5枚の写真を見て下さい。












写真に日付を入れたとおり、平成28年(2016)2月8日に訪ねた際に撮った写真の一部です。
掘割には竹が倒れて覆い被さり、雑草も繁茂し、土手の上も荒れ放題の状態でした。

この時の散策記 「鎌倉街道 上道跡-寄居町・赤浜 天神沢-」 です。




最新号の『埼北よみうり』(埼玉県北部地区の読売新聞購読宅に毎月2回折込配布されるコミュニティ新聞
です。
なんと荒れ放題だった赤浜の鎌倉街道上道が整備されているではありませんか。
地元(旧川本町)出身の畠山重忠が人気を博している大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の波及効果のよ
うです。
これを知った以上は早く確認したいとその日のうちに出かけてきました。但し、この日は歴史講座
の聴講予定がありましたので僅かな時間しかありませんでしたが。




前回(2016年)訪ねた時と違い、堀割りも土塁も整備されています。
左側の建物が生活用品大手メーカーの工場(アイリスオオヤマ)です
ここに写っている土塁・掘割り・竹林のあるところは深谷市畠山(旧川本町)ですが、手前の道路
は寄居町赤浜で、深谷市と寄居町との市町境ということでかなり入り組んでいる地域となっていま
す。




最近の手入れのようですが、竹が覆い被さっていることもなく堀底をそのまま進めました。




先の方まで見渡せます。また、掘割状の状況がよくわかります。




土塁の法面の竹や雑木は伐採されていましたが、切り株がだいぶ残っています。




流石に説明板までは元の状態にはなってはいませんでしたが、説明板を覆っていたものは取り除か
れています。




更に進んで・・・




この辺りで掘割状の遺構は消滅していますが、ここまでの掘割状遺構が深谷市畠山(旧川本町)分
のようです。
消滅している先が大里郡寄居町になるようですが、先には進めません。消滅した掘割状の古道は
熊谷寄居線(県道21号)を横切り、普光寺裏へと進み更に塚田を経由して小川町へと進んでいた
ようです。




先に進めませんので掘割状の鎌倉街道上道を戻ります




標柱のところまで戻りました
掘割状の古道を抜けて右に折れる道が山王坂でこれも鎌倉街道上道跡
この辺りから荒川が見下ろせるのですが、今回は木々が繁茂していて見えませんでした




山王坂を下ります。この道路は寄居町分となっています。




山王坂を下りきりました(左側の車両幅制限コン柱のあるの坂道)
道路右側にある「史蹟 鎌倉街道」とある白い標柱が建っている所は深谷市(旧川本町)




”不法投棄絶対禁止”の看板”は昔からもので、下部に”寄居警察署 深谷市”とあります。
同じ深谷市でも旧深谷市と旧岡部町は深谷警察署の、ここ旧川本町と旧花園町は寄居警察署の管轄
となっていますのでこのあたり一帯は市町こそ違え同じ警察署の管轄下(どうでもいい話でした)




「史蹟 鎌倉街道」標柱  最近塗り替えたようです
側面に⇔印がありますが、向って左方向が先ほどの山王坂・掘割状遺構方向
右方向が荒川河岸方向ですが、「山王の渡し」に至る古道は確認できませんでした。




『鎌倉街道上道 案内板』
設置者が深谷市でなく”畠山重忠公顕彰会”というのも・・・
これも最近設置されたようです




『鎌倉街道上道 案内板』が設置される前の状況
標柱に、”史跡 鎌倉古街道 川本町教育委員会”と書かれているのがうっすらみえます。




普光寺(寄居町赤浜320)脇の鎌倉街道上道跡です。
中央の白い建物が「アイリスオオヤマ」で、この建物の左側を鎌倉街道上道が走っていたわけで、
途中から掘割状遺構は消滅していますが、印のあたりに出てきて県道を横断(その昔はなかった
道?ですが)し、ここ普光寺の方に延びてきていたわけす。更に、寄居町塚田・小川町・嵐山町・
・・と進み鎌倉に至りました。

散策日:令和4年(2022)6月24日(金)

さきたま講座①「埼玉古墳群におけるレーダー探査 -遺跡の非破壊調査の方法と実践-」

2022年06月26日 | 講演会・講座


令和4年度 さきたま講座① 
 講座名:「埼玉古墳群におけるレーダー探査 -遺跡の非破壊調査の方法と実践-」
 日 時:令和4年6月25日(土)13:30~15:30
 場 所:埼玉県立さきたま史跡の博物館 講堂
 講 師:ナワビ 矢麻 氏(さきたま史跡の博物館学芸員)
 内 容:レーダー探査は、土を掘らずに地下の様子を見ることができる調査方法です。本講座では、埼玉古
      墳群でこれまで実施してきたレーダー探査の実例と成果を紹介します。探査のデータの解釈や最新の
      調査成果などにも触れ、埼玉古墳群におけるレーダー探査の可能性について展望します。

  
を聴講してきました。




講座資料




講座開講までには時間がありましたので、さきたま史跡の博物館から400mと少しのところにある
前玉神社(さきたまじんじゃ)を参拝してきました。




今月の『行田花手水week』は終了していましたが、手水舎の水盤にはご近所さんからいただいた
というユリ、あじさいなど浮かべられていました。




同上




同上




前玉神社

とにかく 暑い一日でした・・・

聴講日:令和4年(2022)6月25日(土)

歴史講座Ⅰ「鎌倉殿とその時代」第1回

2022年06月25日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館
令和4年度  歴史講座Ⅰ「鎌倉殿とその時代(1)」
 日 時:令和4年6月24日(金)13:50~15:30 
 会 場:国立女性教育会館 講堂
 講義名:考古資料から探る草創期の武蔵武士
     -畠山重忠に関連する事跡を手掛かりに-

 講 師:末 木 啓 介 氏(埼玉県立歴史と民俗の博物館 館長)
 内 容:1 重忠の事跡ー手掛かりの確認ー
     2 児玉地域における草創期の武士

を聴講してきました.

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映で、鎌倉時代・武蔵武士に関心が集まっております。
嵐山史跡の博物館は畠山重忠の館があったと伝わる「菅谷館跡」内にあり、畠山重忠関連の史料
を中心に中世に特化した博物館です。
講義内容の詳細は書けませんが、講義名にあるよう古代から畠山重忠が登場するまでの考古学の
観点でのお話をしていただきました。
なお、録画・録音・写真撮影は禁止のため写真はありません。  

実は、この国立女性教育会館講堂で嵐山史跡の博物館主催の講座が行われたのは2年ぶりでした。
一昨年(令和2年)2月に行われた令和元年度歴史講座第1回を最後に新型コロナ新型コロナウイルス感染拡大防止のため、
更に、同会館が埼玉県からの新型コロナウイルス感染症の無症状者・軽症者の宿泊施設としての利用受け入れ要請を受け
たことから、一般の利用ができなくなり第2回以降は中止となり、昨年度は他の町の施設での開催になりました。
2年ぶりで国立女性教育会館講堂に戻っては来ましたが、現在も宿泊施設となっていますので本館には立ち入りできませ
ん。また、聴講者もかつての5分の2の200人と制限しての開講でした。幸い受講の資格を得ることが出来ましたが、涙を
飲んだ応募者の方が多かったようです(私自身も何度も涙を飲んでいますが)





女性教育会館内の庭園のアジサイ  何か写真がないと淋しいので




同上

聴講日:令和4年(2022)6月24日(金)

埼玉県の国指定特別史跡・史跡

2022年06月22日 | 史跡・遺跡・文化財


先日(6月17日)、国の文化審議会は、入間郡毛呂山町に所在する「鎌倉街道上道」を国の史跡に指定す
るよう文部科学大臣に答申しましたが、現在、埼玉県には国指定特別史跡が1件、国指定史跡が21件の計
22件があります。
これらの中には、複数の市町に跨ったり、複数の史跡をひとまとめにした『群』での指定もありますの
で、場所的には26カ所になります。
22件26カ所の国指定史跡は、埼玉県63市町村のうちの20市町に分布しています。
この分布図では一つの市あるいは町に複数の国指定史跡があっても印はひとつ。また他市と跨っており
市単独でなくも、やはり印をひとつ付けました。なお、印の位置と史跡の位置は全く別です。
私はこのうちの16件20カ所を散策済ですので、各1枚写真を載せておきます。

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◎ 特別史跡 埼玉古墳群 (さきたまこふんぐん) 

           
所在地:  行田市
指定年月日:大正13年(1938)8月8日 史跡  
      令和2年(2020)3月10日 特別史跡
《概要》
全国一を誇る大型円墳と武蔵最大の前方後円墳を含む大型古墳が群集する。

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吉見百穴 (よしみひゃくあな)   
 
            
所在地:  比企郡吉見町
指定年月日:大正12年(1923)3月7日
《概要》
古墳時代後期の 230 余の横穴墓群。

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南河原石塔婆 (みなみがわらいしとうば)  


所在地:  行田市
指定年月日:昭和3年(1928)2月7日
《概要》
文応2年銘および文永2年銘の2基。多くの人名を刻む。

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野上下郷石塔婆 (のがみしもごういしとうば) 


所在地:  秩父郡長瀞町
指定年月日:昭和3年(1928)2月7日
《概要》
応安2年己酉銘。現存する板石塔婆中最大。地上高 5.37m。

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小見真観寺古墳 (おみしんかんじこふん)   


所在地:  行田市
指定年月日:昭和6年(1931)3月30日
《概要》
古墳時代後期。横穴式石室を2か所持つ大型の前方後円墳。

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水殿瓦窯跡 (すいでんかわらかまあと)   


所在地:  児玉郡美里町
指定年月日:昭和6年(1931年)1月26日
《概要》
鎌倉時代の瓦窯跡。押花蝶文様、剣菱紋の宇瓦も発見されている。

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鉢形城跡 (はちがたじょうあと)   


所在地:  大里郡寄居町
指定年月日:昭和7年(1932)4月19日
《概要》
関東管領山内上杉氏、後北条氏の北関東支配の拠点の城で、荒川右岸断崖上の天然の要害地に縄張
りされている。指定面積約 24ha、空堀・土塁が現存する。天正18 年豊臣秀吉の小田原攻めに際し
開城、その後廃城となった。

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塙保己一旧宅 (はなわほきいちきゅうたく)  

     
所在地:  本庄市
指定年月日:昭和19年(1944)11月13日
《概要》
群書類従を編纂した、江戸中期の国学者塙保己一の旧宅。

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高麗村石器時代住居跡 (こまむらせっきじだいじゅうきょあと)


所在地:  日高市
指定年月日:昭和26年(1951)12月26日
《概要》
縄文時代中期の円形の竪穴住居跡2軒が、重複して検出された。

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宮塚古墳 (みやづかこふん) 


所在地:  熊谷市
指定年月日:昭和31年(1956)5月15日
《概要》
古墳時代末期の上円下方墳。上円部直径10m 余、下方部西辺 24m、東辺 17m。

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大谷瓦窯跡 (おおやがようせき)  
  
       
所在地:  東松山市
指定年月日:昭和33年(1958)10月8日
《概要》
7世紀後半の登り窯跡。鐙瓦(蓮華紋)出土。

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水子貝塚(みずこかいづか)


所在地:  富士見市
指定年月日:昭和44年(1969)9月9日
《概要》
縄文時代前期の大規模な地点貝塚。環状に分布して形成されている。3.9ha。

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栃本関跡 (とちもとせきあと) 

         
所在地:  秩父市
指定年月日:昭和45年(970)11月12日
《概要》
信州・甲州への道を押さえる位置にあり、大村氏が代々番士をつとめる。役宅は江戸後期。

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比企城館跡群 (ひきじょうかんあとぐん)


【菅谷館跡】嵐山町   
 
【松山館跡】吉見町 

【杉山城跡】嵐山町 

【小倉城跡】ときがわ町・嵐山町・小川町

所在地:  比企郡嵐山町・吉見町・ときがわ町・小川町
指定年月日:昭和48年(1973)5月26日 菅谷館跡が国指定
      平成20年(2008)3月28日 既に国指定史跡であった菅谷館跡に、松山城跡・杉山城
      跡・小倉城跡を追加指定し、国指定史跡比企城館跡群となる
《概要》
畠山重忠の居館跡と伝える菅谷館跡(嵐山町)に、松山城跡(吉見町)、杉山城跡(嵐山町)、
小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)が追加指定されたもので、総じて保存状態が良好な、
比企郡内の4中世城館跡で構成される。県内初の広域指定。

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真福寺貝塚(しんぷくじかいづか)   

 
所在地:  さいたま市岩槻区
指定年月日:昭和50年(1975)7月19日
《概要》
岩槻台地に所在する縄文時代後・晩期の環状貝塚、及び低湿地遺蹟跡、径 150m。

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見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)  


所在地:  さいたま市緑区・川口市
指定年月日:昭和57年(1982)7月3日
《概要》
見沼代用水路と芝川間を接続する閘門式運河。享保 16 年開通、全長約1km。通船差配鈴木家住宅、
木曽呂の富士塚(重要有形民俗文化財)、水神社を含む。

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黒浜貝塚(くろはまかいづか)  

 
所在地:  蓮田市
指定年月日:平成18年(2006)7月28日
《概要》
縄文時代前期を中心とした貝塚を伴う集落遺跡。黒浜式土器の標式遺跡であり、縄文時代の生業
や自然環境を考える上できわめて重要な遺跡である。

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河越館跡 (かわごえやかたあと)  


所在地:  川越市
指定年月日:昭和59年(1984)12月6日
《概要》
河越重頼等の居館跡。土塁・空堀等の一部が現存する。

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下里・青山板碑製作遺跡 (しもざと・あおやまいたびせいさくいせき)


所在地:  比企郡小川町
指定年月日:平成26年(2014)10月6日
《概要》
鎌倉時代から戦国時代の板碑製作遺跡。武蔵国における板碑の中心的な生産地であったと考えられ、
板碑の生産と流通だけでなく、板碑に象徴される中世の精神文化を知る上でも重要。

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幡羅官衙遺跡群 (はらかんがいせきぐん)  


【幡羅官衙遺跡】(はらかんがいせき) 深谷市

【西別府祭祀遺跡】(にしべっぷさいしいせき) 熊谷市

所在地:  深谷市・熊谷市
指定年月日:平成30年(2018)2月13日
《概要》
古代幡羅郡家及び祭祀場等からなる官衙遺跡群。深谷市の幡羅官衙遺跡と熊谷市の西別府祭祀遺跡
から成り、古代においては武蔵国幡羅郡に属する。深谷市教育委員会による調査では、正倉をはじ
めとする多数の建物群や区画施設、鍛冶工房、道路など郡家を構成する諸施設を検出している。
熊谷市教育委員会による調査では、7世紀後半から 11 世紀前半にかけての湧水における祭祀が石造
模造品を主としたものから土器を用いた祭祀へと変化していく過程が判明した。

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神明貝塚(しんめいかいづか)


所在地:  春日部市
指定年月日:令和2年(2020)3月10日
《概要》
奥東京湾最北部の汽水域に形成された縄文時代後期前半の馬蹄形貝塚を伴う集落遺跡の中でも最大
級の規模を持つ遺跡。面積 19876.94 m。集落域と貝層のほぼ全体が良好な状態で保存されており,
豊富な動植物遺存体と出土石器等から集落を営んだ人々の生業形態とその地域性を知ることができ
る。

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午王山遺跡(ごぼうやまいせき) 


所在地:  和光市
指定年月日:令和2年(2020)3月10日
《概要》
埼玉県東南部、荒川を望む独立丘陵上に位置する弥生時代後期の大規模な環濠集落。面積 13425.24
㎡。150 棟以上の竪穴建物と丘陵縁辺部に掘削された多重の環濠が検出された。北関東系や南関東
系の複数の他地域の出土遺物が認められ,関東における弥生時代後期の地域間交流の実態を考える
上で重要な集落遺跡。

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【番外】
鎌倉街道上道(かまくらかいどうかみつみち) 


所在地:  入間郡毛呂山町
答申年月日:令和4年(2022)6月17日
《概要》
毛呂山町の鎌倉街道上道は、「中世の街道の遺構が良好に保存されているだけでなく、宿場と墓域、
その境界という一体的な空間が残り、中世の街道の状況を明らかにする重要な遺跡」として評価

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各史跡の《概要》は、埼玉県教育委員会HPの『埼玉県の国・県指定等文化財の一覧』から引用。
鎌倉街道上道の《概要》は毛呂山町のHpから抜粋引用しました。

「鎌倉街道上道」一部国史跡へ

2022年06月18日 | 史跡・遺跡・文化財


国の文化審議会は、昨日17日、入間郡毛呂山町地内に所在する「鎌倉街道上道」国の史跡に指定
するよう文部科学大臣に答申したとのことです。
これにより文部科学省(文部科学大臣)の告示を以って正式に国の史跡になりますが、埼玉県では
23件目(特別史跡を含む)、毛呂山町では初の国指定史跡となります。また、街道を中心とした国
の史跡では県内初でもあります。
折しも今年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」ということで、畠山重忠を初めとする武蔵武士らが
行き来した鎌倉街道上道が国指定史跡とは何かの縁でしょうか・・・




毛呂山町川角・大類境に残るの鎌倉街道上道




同じく市場・西大久保境に残る鎌倉街道上道
2枚とも6年強前に散策した際の写真ですが、現況に変化はないと思いまます。

この毛呂山町の鎌倉街道上道は、比企郡小川町、大里郡寄居町に残る鎌倉街道上道と共に、文化庁
選定の「歴史の道百選」(平成8年・1996)選定)にも選定されています。
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文化庁選定「歴史の道百選」

№24 名称:鎌倉街道―上道(埼玉県小川町・寄居町・毛呂山町)
選定箇所:伊勢根(埼玉県小川町)~赤浜(寄居町)、大林坊~川角(毛呂山町)
概 要:鎌倉街道上道は、鎌倉から埼玉県西部の台地・丘陵地帯を抜け、北部の児玉郡から群馬県藤岡市方面に
   抜ける。街道の周辺は、中世城館や寺社、宿などが形成され、幾多の合戦の舞台にもなり、文化・軍事・
   物流の幹線ルートとして重要な役割を果たした。埼玉県内には、台地から低地へ向かう転換点に、地面を
   逆台形状に掘削して道を造りだす掘割遺構が多数確認されている。なかでも、小川町の大字伊勢根、寄居
   町の大字赤浜、毛呂山町の大字市場字大林坊には掘割遺構が顕著に残る。
                         《文化庁HP・文化庁選定「歴史の道百選」から抜粋

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中宿古代倉庫群跡(中宿遺跡)

2022年06月12日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


深谷市岡(旧・大里郡岡部町岡)にある「中宿古代倉庫群跡」(中宿遺跡)を訪ねて来ました。
これまでにも何度か行っておりましたが。今回は復元倉庫特別公開ということでしたので見学して
きました。
まあ、普段でもフェンス越しに見ることが出来ますが、フェンス内に入れて、倉庫内にも入れると
いう初めての体験でした。




中宿古代倉庫群跡の説明板
以前建っていたものは合併により深谷市になる前の岡部町時代のものでした。これには平成30年
(2018)2月に国指定史跡となった幡羅官衙遺跡跡についての記述はありませんでしたが、内容的
は以前のものと大差はありませんが下に説明文を転記しておきます。
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埼玉県指定史跡
中宿古代倉庫群跡
                               所在地     深谷市岡3286-2ほか
                                  指定年月日   平成3年12月6日

 中宿古代倉庫群(中宿遺跡)は、北に妻沼低地を望む櫛挽台地の先端部に立地し、平成3年に発見されました。
主な遺構は掘立柱建物跡、礎石建物跡、溜池状土壌、竪穴建物跡、区画溝などがあり、遺物は須江器、土師器など
が出土しています。
 遺構の性格を最も特徴づける遺構は、高床倉庫と想定される総柱式(柱を碁盤目状に配置する方式)建物跡です。
多数の高床倉庫が整然と列をなしており、7世紀末~10世紀の長い期間、建て替えながら使用されていたと考え
られます。8世紀後半には建物の基礎構造が掘立柱から礎石へと変化しています。
 大規模な規格性の倉庫群であることから、中宿古代倉庫群は古代「榛沢郡」の役所(郡家または郡衙)の正倉院
であり、税として納められた稲穀が収納されていたと推定されます。周囲には郡庁(郡を治める役人である郡司が
政治を執る場所)・館(郡司の宿舎)・厨屋(食料の管理及び調理施設)などの諸施設が広がっていると考えられ
ます。
 遺跡の周辺には、寺院跡の岡廃寺、大集落跡の熊野遺跡た白山遺跡といった古代の遺跡が広く分布しています。
また深谷市内ではこの他に、市域の東端から熊谷市にまたがる範囲で、「幡羅官衙遺跡跡」(古代「幡羅郡」の役
所)も確認されています。中宿古代倉庫群跡やこれらの遺跡について調査が進むことことで、古代の姿がより明ら
かになっていくことが期待されます。
 
 令和2年11月  
                                         深谷市教育委員会

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普段は閉ざされているフェンスが開放されており、中に入ると係員の方が資料を渡してくださいま
した。
左が第2号復元建物(板倉) 右が1号復元建物(校倉) 




1号復元建物(校倉)   礎石の上に柱が立っている礎石建物




1号復元建物 校倉が分るようにアップで




1号復元建物(校倉)の内部 
稲穀を保管するだけですからなんら造作はされていません




第2号復元建物(板倉)  掘立柱  掘立建物




第2号復元建物 板倉のアップ




2号復元建物(板倉)の内部 
やはりなんら造作はされていません




1号建物実測図  第1号・第2号復元建物設計図




頂いた資料

過去記事「中宿古代倉庫群跡」

散策・見学日:令和4年(2022)6月11日(土)

ときがわ花菖蒲まつり2022

2022年06月09日 | 花・鳥・風景


今年も「ときがわ花菖蒲園」に行ってきました。6月4日(土)から6月19日(日)までが、「ときがわ花
菖蒲まつり」期間となっていますが、平日は特別イベントがあるわけでもありませんし、テント店も出て
いません。
比企郡玉川村と同郡都幾川村が、2006年(平成18年)2月1日に合併して誕生したのがときがわ町ですが、
この花菖蒲園は旧玉川村地区にあり、もとは「たまがわ花菖蒲園」という名称でした。「ときがわ花菖蒲
園」と改称したのはときがわ町に変ってから4年後の2010年(平成22年)からでした。それだけ愛着があ
ったのでしょう。
2019年(令和元年)10月の台風19号の影響をもろに受け園内を巡る八つ橋(木道)は流されてしまいまし
た。
また、2020年・2021年は新型コロナウイルスの影響で、ときがわ花菖蒲まつりは中止(花菖蒲見学は可で
した?)となりましたので3年ぶりのまつり開催です。

























散策日:令和4年(2022)6月9日(木)

講演会「現代に活かす畠山重忠の生き方」

2022年06月05日 | 講演会・講座


畠山重忠公プロジェクト 講演会
「現代に活かす畠山重忠の生き方」
講 師:加 来 耕 三 氏(歴史家・作家)
日 時:2022年6月5日(日曜日)午後1時~午後3時45分
会 場:花園文化会館アドニス( 深谷市小前田)
主 催:深谷市教育委員会

事前申し込みをしてあり、入場整理券をお送りいただきましたので聴講してきました。

内 容:重忠太鼓保存会による太鼓演奏
    講演「現代に活かす畠山重忠の生き方」加来耕三 氏
    対談 加来耕三 氏×小島深谷市長

本年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場している畠山重忠は、深谷市(旧・大里郡川本町)
出身の武将ですが、その重忠と鎌倉殿(幕府)との関係などについて講演頂きました。
これまでの浅くちっぽけな知識を上書きするようなお話も沢山あり、大変参考になる有意義な講演
内容でした。

※客席内での写真撮影・録音・録画は禁止のため写真はありません。




会場である花園文化会館アドニス入口前に立てられていた畠山重忠公の幟旗。他に、やはり深谷市
出身の武士で重忠公の側近であった榛沢成清・本田近常の幟旗も立っていました。
右は記念に頂いた重忠公の缶バッジ

聴講日:令和4年(2022)6月5日(日)