四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

巾着田の曼珠沙華

2013年09月22日 | 花・鳥・風景


日高市の『巾着田曼珠沙華まつり』が始まりました。
昨年までは100万本ということでしたが、数えなおしたらもっと多かったようで、今年からは『5百万本の曼珠沙華群生地』になったようです。
それに伴ってかどうかは知りませんが、200円だった入場料が300円に改定されました。
そんな巾着田の曼珠沙華を、秋分の日を明日に控えた秋彼岸中の今日行ってきました。曼珠沙華を別名「彼岸花」と呼びますが、まさにぴったりのネーミングですね。

今日が一番の見ごろだったでしょうか。辺り一面真っ赤な絨毯(ほんとは朱色なのですが)。500万本と言われても納得してしまいます。






早すぎるかなと思うくらいの時間に出かけたのですが、行って見るとすでに、ひと・人・ひと で、見物客の数も500万くらいかと(笑)
















巾着田の曼珠沙華は何度か観に行っていますが、今日が一番かもしれません




そうそう、これは今日の朝刊。1面にカラーで載っていました。これで見物客の数が増大したかな? 天気も良かったことだし・・・ 

散策日:2013年(平成25年)9月22日(日)           

現存12天守

2013年09月21日 | 城館雑記


現存12天守(双葉社スーパームック)

  発売日:2013年05月22日
  定価:1,785円 (本体 1,700円)
  判型:B5判   
  
  武士の世を今に伝える 戦国、幕末維新を生き抜いた名城

  【CONTENTS】
  ■第一章 国宝天守
  ・姫路城・彦根城・犬山城・松本城

  ■第二章 本州に残る重文天守
  ・丸岡城・弘前城・備中松山城・松江城

  ■第三章 四国に残る重文天守
  ・松山城・宇和島城・丸亀城・高知城
  ■主要天守マップ     ほか
  
ついひと月ほど前に、「現存天守12城」を一応制覇したばかりですが、本日、某書店に立ち寄ったところ、写真の「現存12天守」というムック本が目に入りました。
今更と思いながらも、衝動買いをしてしまいました。

この目で見てきた天守や天守内部ですが、ページをめくっていくとまた新たな感動が・・・  
                                              

現存4御殿

2013年09月18日 | 城館雑記


『現存4御殿』という呼び方があるかどうかはわかりませんが、現存する天守が12基に対して、現存する御殿は更に少なく4つしかありません。
ここにいう現存の定義は、天守同様に「江戸時代またはそれ以前に建設されて現在まで存在する御殿」ということになるでしょう。
この4つの現存御殿のうち、ふたつが「本丸御殿」、もうふたつが「二の丸御殿」です。  
  
冒頭の写真は、「高知城」(高知県高知市)の「本丸御殿」ですが、高知城は現存天守12城のうち、
御殿も現存するのはこの高知城だけであり、天守と御殿とはつながっているという特色もあります。   
  




もう一つの本丸御殿は、「川越城」(埼玉県川越市)の本丸御殿ですが、全部が残っているわけでなく一部が現存しています。
川越城に関しては、これ以外の建造物が残っておらずさびしい限りです。  




世界遺産(世界文化遺産)「二条城」(京都市)にある「二の丸御殿」。大政奉還が行われた場所であることは有名でありますね。
正式名称は、「元離宮二条城」。
この二条城を訪れた最後は、12年前、平成13年(2001)2月のことで、写真もこの1枚しか残っていません。
また、御殿内は撮影禁止ですので撮りたくもとれません。この時頂いたパンフレットの写真を使わせていただきました。




 もう一つの二の丸御殿は「掛川城」(静岡県掛川市)にあります。
 この掛川城には天守がありますが、これは近年復元(木造)されたものです。

 以上、城、御殿等に関する史実等には触れずに紹介させていただきました(これ以上の手抜きはないでしょう)

岡山後楽園(岡山県岡山市)

2013年09月17日 | 史跡・遺跡・文化財


岡山後楽園は、岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)には一応の完成をみました。
その後も、藩主の好みで手が加えられましたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきました。
                                       (パンフレット 「特別名勝 岡山後楽園」より抜粋引用)  
  
岡山城の大名庭園である「岡山後楽園」は、金沢の「兼六園」、水戸の「偕楽園」と共に『日本三名園』とされていることは説明の必要はないでしょう。
岡山城を訪ねて、岡山城の一部でもあるこの庭園を訪ねないわけにはいきません。そんなことから岡山城を訪ねた後、わずかな時間でしたが足を運んでみました。 














この日は、夏季夜間特別開園「幻想庭園」の期間中で、庭園のライトアップがあり、沢山のカメラマンが来園しておりました。
私は、ライトアップが始まったころに早々と・・・

訪園日:2013年(平成25年)8月7日(水)           

現存天守12城を制覇

2013年09月16日 | 現存12天守


去る8月13日に、世界遺産・国宝である「姫路城」を攻城したことによって、一応、『現存天守12城』を制覇しました。
最初に現存天守の城を訪ねたのは平成21年9月のことでした。この時は、『現存天守12城』を意識したわけではありません。
そこに城があったから訪ねたにすぎませんでした(そこにと言っても遠方ですが)。
『現存天守12城』を意識して訪ねるようになったのは平成23年以降のことです。たかが12城、されど12城です。
いずれも遠方の地にあり、おいそれと攻城できるものではなく、別件の旅との抱き合わせでのものが大半でした。
そうして、漸く4年弱で12城を制覇しましたが、「姫路城」については昨日のブログに記したよう大天守の大修理中で天守内部には
入れませんでしたから、0.5城扱いになるかもしれませんね。そしてもうひとつ、時間の関係で堀の外側から見るだけで天守に入れ
なかった城があり、これも0.5城扱いでしょうから、12城制覇とは言え11城分でしょうか。
この足りない0.5城と0.5城については、いずれの日にか各々1城に数えられるようにできればよいのですが・・・  




現存天守の城を攻城した際の入城券とパンフレットです。入城券が手元に残らないシステムになっている城もあり、攻城数と入城券の数は一致していません。
ある1城だけ入城券もパンフレットもまだ手にしていないところがありますが・・・ 

姫路城(兵庫県姫路市)

2013年09月15日 | 現存12天守


姫路城の創築は南北朝時代の初めとされる。羽柴(豊臣)秀吉が姫山に三重の天守を築いて近世城郭としての体裁を整え姫路城と改称した。
今日に残る城の形にしたのは徳川家康の娘婿池田輝政で、9年の歳月を費やして慶長14年(1609)、五重六階地下一階の大天守に3基の
小天守を結んだ天守群を中心に、多くの櫓と門が並び建つ大城郭を築き上げた。その後本多忠政が西の丸などを増築し、複雑な縄張をもつ名城が完成した。
明治時代に失われた部分もあるが、昭和の大修理が施され、平成5年に日本を代表する城として世界遺産に登録された。 (「日本100名城公式ガイドブック」より引用) 

「昭和の大修理」から半世紀が過ぎ、大天守には傷みや汚れが目立つようになったことから、屋根、壁面の修復を主工事とした「平成の大修理」が
平成21年(2009)に着手され、現在も修理中ですが、ほぼ終了したようです。大天守が見られない、天守に入れない。そんな姫路城に行っても
仕方ないので修理が終えてから行けばよい。と思う反面、修理を終えた姫路城ならいつでも訪ねられるが、修理しているところ、ましてや天守の屋根を
目の前に出来ることなどこの先ない。見ておけば良かったと後悔することになるかもしれない。ということで・・・  




姫路駅から姫路城に徒歩にて。 連日、猛暑の下にいたので体がへばりきっていました。そして、この日も猛暑でした。




桜門橋の向こうに見えるのが大修理中の大天守 

素屋根

鉄骨トラス構造で建設された素屋根は、備前丸からの高さが約52mになり、13階建てのビルの高さに相当します。素屋根の壁面には約800枚の
メッシュシートが取り付けられ、南側と東側には実物大の姫路城大天守の線画を描いています。この線画はギネス級の巨大なもので、素屋根に隠された
大天守の存在感をアピールしています。                     (パンフレット「白鷺の大天守ふたたび」より引用) 




大手門から三の丸跡へ




「世界遺産 姫路城」の石碑の先に天守群が




大修理中の大天守と小天守群




入城券売り場
ここで入城券とともに予約してあった「天空の白鷺」入館券を購入




菱の門 




いの門




ろの門




ぬの門




備前門
この備前門から、素屋根の内部に設けられた姫路城大天守修理見学施設「天空の白鷺」へ向かいます。
見学予約をしてありましたので、ほとんど待つことなくエレベーターに乗れ8階に行けました。




天空の白鷺8階の見学窓から見た「最上層の大屋根」の修理状況

この日は作業が行われておりませんでした。また、ほとんど修理完成の状態でした。
修理が終えてしまうと、こうして目の前に大屋根を見ることはできません。




屋根目地漆喰




7階の見学窓からは壁面修理の模様が見られますが、こちらもほとんど終えていたようです。




1階見学スペースから見た大天守の石垣










天空の白鷺8階から城内を見下ろす
画像に線が入っているのは、窓のガラスに線が入っていたためです。 




7階から   
こうした櫓なども見て歩く予定だったのですが・・・




小天守




水の三門




水の二門




水の一門




ほの門




にの門




にの門 東方下土塀




はの門   
  
ここで今回の姫路城攻城は取りあえず終わりに。
門ひとつ撮るにも、ひっきりなしに往来する見学者が切れる一瞬を待つのですが、なかな人の流れは切れず人が入ったままのものが多くなりました。




あまりの暑さとのどの渇きから、帰り際に、普段は食べることのないものを「氷」ののれんのお店で。    
  

来年1月15日で「天空の白鷺」は閉館になり、その後1年半をかけて素屋根の足場などが解体されるそうです。そして、再来年には大修理なった
大天守が見られるようようですので、もし、再攻城の機会を得られれば、今回見られなかったところも合わせて見学したい。そう思う私です。

攻城日:2013年(平成25年)8月13日(火)             

「高知城」ふたたびみたび(高知県高知市)

2013年09月14日 | 現存12天守


南海の名城・高知城

高知城は、日本で唯一本丸の建築群がすべて現存する、江戸時代の姿を今に伝える城郭である。
もともとこの場所には南北朝時代に築かれた大高坂城があり、戦国時代には長宗我部元親が岡豊城より移り築城に取り組んでいた。しかし、
治水に難儀し、わずか3年で元親は浦戸城へ本拠を移した。その後、関ヶ原の戦いの功績で遠州掛川より入国した山内一豊がこの地を城地と定め、
慶長6年(1601年)秋から築城をはじめた。 一豊は築城家として知られた百々越前守安行を総奉行に任じ、近隣諸村から石材や木材を
取り寄せ工事を進めたが、難工事の末城のほぼ全容が完成したのは10年後、二代藩主忠義の治世に移った慶長16年にことであった。
享保12年(1727年)には一部の建物を残し焼失、ただちに復旧にあたったものの財政難もあって天守閣が復興するまでに20年以上の歳月を
要している。その後、明治維新により廃城となり本丸と追手門を除くすべての建物が取り壊され、公園となっていまに至っている。別名を鷹城。
  ( 高知城管理事務所発行のパンフレット「国指定重要文化財 高知城」より引用)   
   
「高知城」を訪れるのは今夏で3年目でした。
過去2年とも、追手門から入って行きましたが、別の方(裏?)から攻城してみました。  




県庁の前あたりから見た天守 




御台所屋敷跡




御台所屋敷跡前の道路から 「黒鉄門」を




城内三社跡付近の石垣




「廊下門」と「西多聞」 こうした方向からは初めて見ました  




二の丸跡から望む天守




やはり二の丸跡の別の位置から




「詰門」の2階 
本丸と二の丸を結ぶ通路となっている。家老・中老などの詰所として用いられたことからこの名がついた




廊下門




「本丸御殿」と「天守」




本丸御殿入り口正面の「式台の間」




大河ドラマ「功名が辻」で、千代役・仲間由紀恵が着用したもの




御殿内部  黒潮と鯨の潮吹きを表現したといわれる欄間




御殿内部  「上段の間」(主君が家臣と対面した所)と、「武者隠し」




本丸御殿の庭(一部)




天守1階  高知城に関する資料が展示されている




天守2階(だったと思います)




天守内部の階段 2階と3階を結ぶ階段? 




天守最上階(6階)の天井
6階の間を写したかったのですが、人、ひとだらけでしたので、天井で我慢してください




「廻縁」




「鯱」 雄の方か雌の方かは? 




天守最上階から見た「二の丸跡」




天守最上階から見た「黒鉄門」 




天守から望む城下




「黒鉄門」




「鐘撞堂」




「三の丸跡」から




追手門から出て・・・




追手門脇の堀に咲いていた蓮を・・・   
  
高知城を裏から攻めたのは全くの思いつきでしたから、「搦手門跡」にも寄らず(位置を全く把握していなかった)等、今回も攻略失敗・・・

攻城日:2013年(平成25年)8月11日(日)           

岡山城(岡山県岡山市)

2013年09月13日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 岡山城跡



岡山城は、旭川の西方の丘陵を城地とする平山城として築かれた。この地には元々、金光氏の居城があったが、元亀元年(1570)、宇喜多直家が略奪した。
その子の秀家は慶長2年(1597)に、豊臣政権の有力大名にふさわしい城にすべく大改修し、金箔瓦を使用し五重六階の複雑な構造をもつ前期望楼型の天守を築いた。
天守の外壁には黒い下見板が張られ、その色から「烏城」の別名がつけられた。関ヶ原の戦い後に入った小早川秀秋や池田氏によって城の拡張整備が続けられ、
縄張が完成をみた。天守は昭和20年(1945)の空襲で焼失し、昭和41年(1966)再建された。   (「日本100名城公式ガイドブック」より引用)   
  



年に1度の高知入りの際に、ここ岡山駅で列車を乗り換えています。岡山駅からそれほど遠くない所に「岡山城」があることは知っていましたから、行きの際
あるいは帰路の際に訪城する気になればできました。しかし、行程の時間の都合から、「ついでだから寄っていく」といったことはできずにいました。
今年は、予めその時間がとれるような計画を立て、ここ岡山市で1泊して翌朝高知入りすることにした次第でした。

とは言え、ホテルにチェックインしたのが夕刻でしたから、早足で岡山城に向かい入館可能な午後5時をほんの数分前に天守に。
天守内部と言っても、鉄筋コンクリートで再建したものですからたいした興味もありませんでしたし、展示物の撮影も禁止されておりましたので、
100名城スタンプを押印して早々に退館。(5時前に入館したかったの目的はこれだったものですから)  








岡山城天守
冒頭の引用文どおり、昭和20年(1940)6月、空襲により焼失。昭和41年(1966)に鉄筋コンクリートで外観復元された




礎石
焼失した天守を鉄筋コンクリートで元の場所に再建したため、礎石を移し、元の通りに配置




不明門(あかずのもん)
明治の廃城後に取り壊され、昭和41年に鉄筋コンクリートで再建されたもの




月見櫓(国指定重要文化財)
岡山城本丸内で戦火を免れた唯一の建物 




廊下門
昭和41年に鉄筋コンクリートで外観復元




六十一雁木(がんぎ)上門
昭和41年に再建されたもの




六十一雁木門横の石塁
関ヶ原合戦後の池田氏が下の段を大がかりに整備した時に築かれた石塁である。
 板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的である。
 石塁の先の上端から本段石垣の中位に櫓門が架けられていた。
     (説明板に書かれていた文面)  




岡山後楽園の園内から見た岡山城

足早に見た岡山城でした・・・     

攻城日:2013年(平成25年)8月7日(水)           

備中松山城(岡山県高梁市)

2013年09月12日 | 現存12天守


備中松山城は、秋庭重信」が延応2年(1210)に築いたのが最初とされる。城のある臥牛山は中国山地と瀬戸内とを結ぶ交通の要衛を見下ろす位置にあり、
毛利家などの城塞として機能していた。江戸時代になり、小堀正次・政一(遠州)親子の修築を経て、天和年間(1681~84)、水谷勝宗の大改修で
近世三大山城とされる最終的な城の形となった。城の縄張りは4つの峰にまたがり、天守は標高430mの小松山の本丸に建つ。二重二階の天守は現存する
天守の中で最小であるが、日本一高いところに建っている。平成9年、本丸の南御門をはじめ、平櫓・土塀などが再建された。
                                              (「日本100名城公式ガイドブック」より引用) 

「日本100名城」(財団法人日本城郭協会選定)全部を制覇するのはとてもできる相談ではありません。せめて「現存天守12城」だけでも攻城できたらと思うように
なり、ぼっちらぼっちらと城めぐりを始めた次第です。 それには問題がありました。上記説明文にもあるように「備中松山城」は、地理的問題もさることながら、
現存天守の中では一番高いところに建つ山城です。途中までは車で行けるものの、その先は約20分山道を歩いて登らなければなりません。今の私にそれだけの体力の
自信はありません。しかし、ひとつでも攻城を放棄すれば12城制覇は成りません。諦めるか挑戦するか迷った末に、ひとが20分のところを例え1時間かかろうと
2時間かかろうと休み休みでも攻城しようと決めたわけです。そのために伸縮式の杖と携帯用酸素ボンベを用意して行きました(杖は現場に置いてありましたが)  




攻城予定の前日の夕刻、備中松山城のある高梁市に入り、市内のホテルに1泊しました




予約してあった乗合タクシーの出発時刻までには間がありましたので、駅前を散歩(3歩)
数日後に控えた「備中たかはし松山踊り」の準備が進んでいました






駅前通りの左右の歩道にはこんなタイルが 






備中高梁駅前から乗った乗合タクシーで「ふいご峠(8合目)」まだ上がってきました
ここから先は徒歩です。遊歩道を行く、林道(?)を行くか。途中で合流のようですが、舗装された林道を




写真で見るとそれほどでもないようですが、実際に歩くとかなりきついです
乗合タクシーに同乗してきた京都から来たという親子連れの姿がもう見えません




石段もかなりきつい




石垣群が目の前に。こういうのを見ると疲れも飛ぶ・・・そう思うだけでやっぱりきつい




大手門跡付近の石垣




三の平櫓東土塀(国指定重要文化財) 




黒門跡 




天守が見えました。やっと着きました




二の丸跡から見た(左から) 「六の平櫓」・「五の平櫓」・「天守」
* 天守以外は平成9年に復元




五の平櫓から天守方向に  




二重櫓(国指定重要文化財)  




左から 六の平櫓・南御門・五の平櫓・天守




入城券を購入して、いざ本丸・天守へ 






備中松山城天守(国指定重要文化財)  




左から 五の平櫓・本丸南御門・六の平櫓 と 本丸




接続(つなぎ)廊下
「この天守は二重二階であり、ここは一階ではなく、八の櫓と天守をつなぐ廊下である」とあります






天守内部の一部  






階段
踊り場を付けた曲がった階段、幅も狭く勾配が急であり、敵がすぐに上がれないように工夫されている




天守から見た「二重櫓」




二の丸跡から見下ろした城下
備中松山城がいかに高いところにあるか実感できます   
 
完璧とはいかないものの備中松山城の攻城を終え下山。再び、ふいご峠から予約しておいた乗合タクシーで備中高梁駅まで戻り目的達成
次の目的地へ・・・  

攻城日:2013年(平成25年)8月7日(水)           

松江城(島根県松江市)

2013年09月11日 | 現存12天守


松江城は、慶長12年(1607)、堀尾吉晴が徳川幕府の許可を得て宍道湖を見下ろす標高28mの亀田山に築城した。慶長15年(1610)に築かれた
外観五重内部六階の天守は現存12天守のひとつ。極めて実戦的な天守で、板張部分のいたるところに石落や狭間が設けられるなど、防備面での工夫が凝らされていた。
縄張も本丸の周囲は多聞櫓で囲み、石垣や土塀には屈曲や折れを多用するなど防御性の高いものであった。水堀がよく残り、
また二の丸の隅櫓群や多聞櫓の一部が再建されて、かつての威容を偲ぶよすがとなっている。       (「日本100名城公式ガイドブック」より引用)




「松江駅」に着いたのは午後3時少し前。本当はあの人気の列車で早いうちに松江入りしたかったのですが、乗車券争奪戦で涙をのんだものですから・・・
「松江駅」からバスに乗り、「県庁前」で下車




県庁前に建立されている「松平直政公」の銅像。もともとこの場所は三之丸のあったところ
松平直政公は、堀尾三代、京極一代、松平十代と続いた松江藩の松平家初代の藩主




目の前には、松江城の堀と高石垣と櫓が




堀に沿って大手前広場に行くと、ここには松江開府の祖「堀尾吉晴公」の築城と城下造成を指揮する姿の銅像が建立されている




馬溜跡と高石垣 
左の櫓が「中櫓」(復元)  右の櫓が「太鼓櫓」(復元)




登閣券売り場(自動販売機)で登閣券を購入して天守へ




天守西面  




天守上部




付櫓




付櫓に設けられた天守入口
鉄延板張りの大戸があり、入ると桝形の小広場が二段ある  




地階と井戸
地階は、籠城用生活物資の貯蔵庫であった




天守内部の一部




寄木柱




桐の階段
各階の間に設けられてある。階段を引き上げたり、防火防腐のために桐を使った




石落とし




天守最上階  




天守最上階からの眺め   




太鼓櫓(復元)




中櫓(復元)   




南櫓(復元)   




3つの櫓を1枚に収めるのは難しい!!  どうにか見えれば
左から「南櫓」、「中櫓」、「太鼓櫓」 




南櫓  
  
攻城時間に限りがあったものの、それなりに松江城を攻めてきました。
再びバスに乗って「松江駅」に戻り、次の目的地に・・・

攻城日:2013年(平成25年)8月6日(火)