四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

小見真観寺古墳(埼玉県行田市)

2019年11月29日 | 古墳
■ 国指定史跡



名 称:小見真観寺古墳(おみしんかんじこふん)
別 名:―
墳 形:前方後円墳 
規 模:全長112m、高さ8m、 横穴式石室 ※行田市のHPでは全長を102mとしている
築 造:6世紀末から7世紀初め頃
指 定:国指定史跡(名称:小見真観寺古墳 昭和6年(1931)3月30日指定)
所在地:埼玉県行田市小見1124 真観寺

小見古墳群に属する小見真観寺古墳は、行田市小見に所在する真観寺の境内裏(観音堂裏)にあることから
この名が付けられた。




【国指定史跡 小見真観寺古墳】説明板
この説明板の内容で小見真観寺古墳の概要がよくわかります




後円部南側  写真中央の格子の扉が見えるところが石室




石室の開口部には格子の扉がありますが、施錠されておりませんので開けて内部を見せていただきました。




扉を開いた状態で石室内を




緑泥片岩による石室で巨大な石材を用いた精巧なもの
前室:奥行2.7m・幅2.2m・高さ2.1m  玄室:奥行2.4m・幅2.2m・高さ2.1m
両室の間仕切りは、緑泥片岩の一枚石に四角い窓を開けている




天井も大きな一枚石が使われている




前室から玄室を




玄室内から前室、開口部を




古墳の上がりました  鞍部辺りから前方部方向に




鞍部辺りから後円部部方向に




この大きな石は、鞍部の石室の天井板の石




鞍部の石室
貢室のみが現存するが、前室については明らかではない。 後室 : 全長2.8m・幅1.76m・高さ1.12m




鞍部の石室内部




古墳の北側から 古墳全体を写すことはできませんでした この写真は後円部寄りに・・・左側が後円部




こちらは前方部寄りに・・・右側が前方部



西側の道路から見た前方部




石標「史跡 小見真観寺古墳」




南西方向から見た小見真観寺古墳 堂宇(真観寺観音堂)屋根の裏の右方に延びている




西側の道路際に設置されている標識

散策日:令和元年(2019)11月12日(火)

万葉遺跡 小埼沼(埼玉県行田市)

2019年11月27日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:万葉遺跡 小埼沼 (まんよういせき おさきぬま)
概 要:小埼沼は、現在では小さな池が残るだけであるが、上代の東京湾の入江の名残りともいわれ、「埼
    玉の津」万葉集の遺跡とされる。宝暦3年(1753)忍城主阿部正允(まさちか)によって建てられ
    た万葉歌碑がある。
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:万葉遺跡 小埼沼 (昭和36年(1961)9月1日指定)
所在地:埼玉県行田市埼玉2636-3

万葉集には小埼沼について歌われているものが2首存在(巻9-1744・巻14-3380)し、ここ行田市埼玉の小
埼沼が歌のその場所とされてきた。そんな万葉遺跡を訪ねてみました。




田園の中にある小さな森の中に万葉遺跡小埼沼はあります




正面に見える鳥居は尾崎沼神社(宇賀神社)の鳥居




尾崎沼神社(宇賀神社)の鳥居と祠  祠の右横に見えるのが古代蓮公園の展望塔




尾崎沼神社(宇賀神社)の祠 




遺跡入口には「埼玉県指定旧跡 万葉遺跡 小埼沼」説明板と「小埼沼」の標柱




「埼玉県指定旧跡 万葉遺跡 小埼沼」説明板
説明文末尾に、〈残念ながら、現在ではこの池が埋没したローム台地上に位置していることが判明しており、
かつて「埼玉の津」であった可能性は極めて低いものと考えられていますが、・・・〉とあります。
正直、遺跡と呼ばれるものの中にはこうした類いのものが少なからずあるようです。




「小埼沼史跡保存碑」 大正14年(1925)建立の碑
苔などで判読しにくい状態ですが、表には和歌が3首と遺跡が荒廃してきたため、保存会を組織して、小埼
沼の跡を後世に残そうとした趣旨。
碑陰には、名誉賛助員の氏名や「小埼沼史跡保存会」の多くの会員氏名がびっしりと刻まれているようです。




今は小さく水も枯れていますが、埼玉の津・小埼沼の姿




反対側から




池の渕に建つ「水神社」碑




「水神社」碑は何と板碑を転用しています




「弁財天」 寛政7年(1795)建立




「武蔵小埼沼」碑
宝暦3年(1753)忍城主阿部正允(まさちか)によって建てられた万葉歌碑
元々はなかった花立と線香置きがいつの間にか置かれて、墓石(墓所)と見間違います




石碑背面(写真左側)には万葉集の歌2首が刻まれています
                  
『万葉集』巻9-1744  雑歌

  原文: 前玉之 小埼乃沼尓 鴨曽翼霧 己尾尓 零置流霜乎 掃等尓有斯
  読み: 埼玉(さきたま)の小埼(をさき)の沼に鴨ぞ翼(はね)切る 己(おの)が尾に降り置ける霜を
       掃(はら)ふとにあらし
  大意: 埼玉の小埼の沼で、鴨が羽ばたをしていてしぶきを飛ばしている。ああ、あれは、羽に降り積もっ
      た霜を払い落としているのですね。


『万葉集』巻14-3380  東歌 武蔵国 相聞

  原文: 佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛 許登奈多延曽祢
  読み: 埼玉(さきたま)の津(つ)に居る船の風を疾(いた)み綱(つな)は絶(た)ゆとも言(こと)な
      絶えそね
  大意: 埼玉の津に繋留(けいりゅう)されている船のように、風が激しくて、もやい綱が切れてしまっても、
      二人の間の愛の言葉は絶やさないでほしい。

上記2首は高橋蓮虫麻呂(たかはしのむらじむしまろ)の歌集の中にあるもの


石碑右側面(写真右側)
この碑を建てた目的をあらわした文章で、碑文では武蔵小埼沼はここだと断定しており、そのことを後世に
残すことが、この碑を建てた理由だったと書かれ(刻まれ)ているとのようです。

石碑左側面(写真掲載梨)には、建立日と建立者忍城主阿部正允等が刻まれています




小埼沼の東側にある天祥神宮
近年建立の個人持ちの神社だったようで、社も朽ちて草が生い茂っています。




天祥神宮のものか小埼沼のものかはわかりませんが、四阿も今は朽ちています。かつては参拝者の休憩場所に
なっていたのでしょう。

散策日:令和元年(2019)11月12日(火)

大日塚古墳(埼玉県行田市)

2019年11月26日 | 古墳


名 称:大日塚古墳(だいにちづかこふん)
別 名:うるし塚、山伏塚
墳 形:円墳 
規 模:直径約18m
築 造:6世紀前半頃
指 定:市指定史跡(名称:大日塚古墳 平成11年(1999)3月25日指定)
所在地:埼玉県行田市佐間3-8-9

行田市埋蔵文化財センターの敷地内に所在する大日塚古墳を訪ねてみました




小規模の円墳です これが古墳であるとの知識や説明板がなかったりしたらただの残土置き場としか(失礼)




大日塚古墳説明板  ここに書かれた内容でほぼすべてが分ります(素人が知ろうとする範囲では)




向きを変えて




大日種子板石婆搭(複製)  
この板碑は日本で5番目に古い板碑のようです墳頂部には嘉禎(かてい)2年(1236)に、左近将監が父母の
供養のために建立したもの。もとは大日塚古墳の墳頂部に立てられていたもので、実物は行田市史料館に展
示されている。昭和36年に県指定文化財に指定。

この大日塚古墳は住宅街の中にあって、ナビを設定したものの路地を行ったり来たりで中々辿り着きません
でした(方向音痴のせいも多分に影響していますが)
そこで、たまたま付近にいた方に「この辺に古墳があるということで来たのですが?」とお聞きしたところ、
「すぐそこだよ」と教えていただきました。
教えていただいた道を行くと何と埼玉古墳群方向でした。埼玉古墳群の近くで「古墳」と訊けば埼玉古墳群
のことだと思われても当然。自分では「大日塚古墳」のことを聞いたつもりでも「大日塚古墳」と言わなか
った私がバカでした。




後日、某所に向かうときに目にした「大日塚古墳」への標識。ナビを設定したからとて必ず標識のある所を
通るとは限りませんので、当日はこの場所を通過せず気付きませんでした。

散策日:令和元年(2019)11月12日(火)

地蔵塚古墳(埼玉県行田市)

2019年11月24日 | 古墳


名 称:地蔵塚古墳(じぞうづかこふん)
別 名:―
墳 形:方墳
規 模:一辺28m、高さ4.5m 周溝は幅約1m、深さ0.4~0.5m
築 造:7世紀中葉頃
指 定:県指定史跡(名称:地蔵塚古墳 昭和38年(1963)3月29日指定)
所在地:埼玉県行田市藤原町2-28-1

地蔵塚古墳は若小玉古墳群に含まれる古墳で、かつては8基存在した古墳群ですが、現在残るのは八幡山
古墳とこの地蔵塚古墳の2基となってしまったようです。
そんな地蔵塚古墳を訪ねてみました。




石標【県指定史跡 地蔵塚古墳】




【県指定史跡 地蔵塚古墳】説明板




石室の修復工事中に西側側壁に線刻画が発見されたが、石壁は今は保存のため扉に閉ざされいて非公開
埼玉県立博物館にレプリカが展示されているとのこと




墳頂への階段を上がって




石地蔵が並んでいます




地蔵塚古墳の名称のもととなった地蔵堂




東南側




北側(裏側)




地蔵塚古墳石室復元記念碑  昭和39年3月 行田市教育委員会建立




地蔵塚古墳のある場所は地蔵塚公園として整備されています




地蔵塚公園北側道路際に設置されている地蔵塚古墳への標識
住宅街の中にある古墳のため見つけ辛いがこの標識が目印になります

散策日:令和元年(2019)11月9日(土)

万葉遺跡 防人藤原部等母麿遺跡(埼玉県行田市)

2019年11月22日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:万葉遺跡 防人藤原部等母麿遺跡 (まんよういせき さきもりふじわらべのともまろいせき)
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:万葉遺跡 防人藤原部等母麿遺跡 (昭和36年(1961)9月1日指定)
所在地:埼玉県行田市藤原町1-27-2 八幡山公園内

天平勝宝7年(755)に防人(さきもり)を派遣する際、諸国より選ばれた壮丁(そうてい:成年男子)が
父母妻子と惜別の情を歌った短歌90余詩が「万葉集第20巻」に載せられています。市内若小玉地区にある
春日神社、大御田等の地名等から、この地を藤原部等母麿の遺跡と考察し、昭和36年5月1日に八幡山古墳
に隣接して歌碑が建てられました。碑表には「藤原部等母麿」とその妻である「物部刀自売」の2首の歌が
刻まれています。              【行田市(教育委員会)ホームページより抜粋引用】




【埼玉県指定旧跡 万葉遺跡 防人藤原部等母麿遺跡】 説明板




【歌碑】
碑表には、

 足柄の 御坂に立して 袖振らば 家なる妹は さやに見もかも
 色深く せなが衣は 染めましを 御坂たばらば まさやかに見む

の2首が陰刻されています。

前者は、
  埼玉郡上丁藤原部等母麿(さいたまぐんかみつよぼろふじわらべのともまろ)
が詠んだもので
  万葉集巻20-4423
  原文:安之我良乃 美佐可尓多志弖 蘇埿布良波 伊波奈流伊毛波 佐夜尓美毛可母
  読み:碑文のとおり
  仮名:あしがらの みさかにたして そでふらば いはなるいもは さやにみもかも
  大意:夫の等母麿が防人として西国に行く途中、足柄峠で袖を振ったならば、家に残った妹(妻の意味)
     にも、はっきり見えるであろうか

後者は
  妻・物部刀自売(め・もののべのとじめ)
が詠んだもので
  万葉集巻20-4424
  原文:伊呂夫可久 世奈我許呂母波 曽米麻之乎 美佐可多婆良婆 麻佐夜可尓美無
  読み:碑文のとおり
  仮名:いろぶかく せながころもは そめましを みさかたばらば まさやかにみむ
  大意:もっと色を濃く背(夫)の衣を染めればよかった。それなら、足柄のみ坂を通ったら、はっきり
     見えるであろうに
と唱和したものです。




碑陰には、[碑陰記]として、
  表記の歌はこの地に起居せし埼玉郡上丁藤原部等母麿と妻物部刀自売の作にしてともに萬葉集巻二十所載
  のものなり 縣は後にこの地を史蹟に指定しての保存を図り・・・保存会を設立し追悼の碑を建てんとす
などと陰刻されていますが判読しきれませんでした。

散策日:令和元年(2019)11月12日(火)

八幡山古墳(埼玉県行田市)

2019年11月19日 | 古墳


名 称:八幡山古墳(はちまんやまこふん)
別 名:―
墳 形:円墳 
規 模:径約80m、高さ9.5m 横穴式石室 石室全長16.7m
築 造:7世紀前期から中期
被葬者:伝・物部連兄麿
指 定:県指定史跡(名称:八幡山古墳石室 昭和19年(1944)3月31日指定)
概 要:古墳時代末期の古墳の石室で、その規模と用材が大きいことでしられている。
所在地:埼玉県行田市藤原町1-27-2

八幡山古墳は、この周辺に広がる若小玉古墳群の中心となる古墳。昭和9年(1934)に、約2km東にあった
小針沼の干拓事業のため古墳の封土を崩した際に、石室が現れました。石室はほぼ南北に位置し、南を正面
とする前・中・玄室の3室からなります。昭和52年から54年に発掘調査と復元整備が行われて現在の姿にな
りました。
奈良県明日香村の石舞台古墳に匹敵する巨大な石室であることから、「関東の石舞台」とも呼ばれます。
石室内の公開は土曜日・日曜日・祝日〔年末年始を除く〕となっています。




八幡山古墳(石室への)の標識




八幡山古墳のある場所は、現在、「八幡山公園」として整備されています。




石標『県指定史跡 八幡山古墳石室』




八幡山古墳全景




埼玉県指定史跡 八幡山古墳整備記念之碑




埼玉県指定史跡 八幡山古墳石室復元記念之碑




北大竹遺跡・若小玉古墳群説明板




八幡山古墳石室説明板




石室上部の状況①




石室上部の状況②




石室開口部




石室開口部




羨道(パンフレットの置いてある手前)




前室  左側にある石祠は「八幡大神」  右側にある石祠は「仙元大菩薩」




中室




中室から前室方向を




中室から玄室(後室・奥室)を




中室と玄室の境の巨大な石




玄室の正面




玄室の正面天井付近




西方から

散策日:令和元年(2019)11月9日(土)

鬼太鼓座 和太鼓パフォーマンス

2019年11月17日 | まつり・イベント


【道の駅和紙の里ひがしちちぶ】で開催の『和紙フェス2019 ㏌ 東秩父村』2日目(11月17日・日)
に行って来ました。
目的は、プロの和太鼓創作集団である『鬼太鼓座(おんでこざ)』の和太鼓パフォーマンスを観る(聴く)
ことにありました。
『鬼太鼓座』は、ここ東秩父村白石に合宿所を構え、全国各地、世界各国へ公演に出かけています。
去る11月9日の【天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典】にも参加しており、その様子はテレビ等で流れま
した。




和紙のランタンが並べられた和紙の里は色づいています




茅葺屋根の古民家前は一段と色づいています




何れも和紙で




東秩父村マスコットキャラクター わしのちゃん もお出ましです




『鬼太鼓座』の打奏は和紙の里の中庭で




『鬼太鼓座』の演奏は午後2時から  それまでは一般の方に太鼓を開放し座員と一緒に敲いていました




『鬼太鼓座』の打奏が始まりました




















途中から上半身裸になっての打奏になりました
本来は、ふんどしだけの裸同然の姿が定着しているようですが、さすがここでは上半身だけ裸という姿で










『鬼太鼓座』の方々の打奏が終了しますと、再び一般の方に太鼓が開放されました。

見学日:令和元年(2019)11月17日(日)

比企地区文化財めぐり~松山城主上田氏ゆかりの地を歩く・東秩父村~

2019年11月14日 | 史跡・文化財めぐり〈団体〉


比企地区文化財振興協議会主催「比企地区文化財めぐり」
本年度は、~松山城主上田氏ゆかりの地を歩く・東秩父村~
実施月日:令和元年11月14日(木)
見学場所:千部供養板碑群、安戸城跡、山田氏五輪塔群、天神社の大杉、身形神社、浄蓮寺など(徒歩約7㎞)

に参加してきました。

各見学場所の説明は省略しますが、行程を表す写真のみを下に載せておきます




比企地区の各市町村ごとに集合して、行政バスなどで今回の文化財めぐりの出発場所である「東秩父村和紙の
里」に集まってきます。




開会式  全部で200人弱の参加者がありました
開催地の東秩父村の村長さん 見学先のひとつ浄蓮寺の住職さんもフル参加です




出発です  午前10時を少し前くらい




幹線道路を避け田畑沿いの道を最初の見学地『千部供養板碑群』へ




『千部供養板碑群』




『安戸城』に向います




本郭に着きました  さほど高い山城ではありませんがやはり山道はきつい




決して広いとは言えない本郭にだいぶ見学者が集まりました  




数年前に単独でこの安戸城跡を攻めたときには、この説明板は設置されていませんでした。
本郭と二の郭があるだけの小さな城跡です




寺岡方面から登ってきましたが、下りは都沢方面に下りて昼食場所である『安戸グラウンド』に向います。




『安戸グラウンド』の上にある『能氣神社』




能氣神社 御由緒




昼食後 梅沢太久夫 先生(元埼玉県立歴史資料館館長)がわざわざお越しいただき、見学先の文化財につい
て解説してくださいました。




『山田氏五輪塔群』見学者の長い列




『山田氏五輪塔群』




『天神社の大杉』に向います




天神社 御由緒




右側の大杉  全体の写真は撮れませんでした




天神社




見形神社へ向かう途中「安戸休憩所」で小休憩とトイレタイム




見形神社へ向かいます  ほんとに長閑な風景です




『見形神社』




最後の見学地『浄蓮寺』  上田氏の菩提寺です




中央の石段の上に上田氏累代の墓があります




浄蓮寺から再び「東秩父村和紙の里」に戻って解散式を済ませ、各々行政バス等で地元に 
この時間は午後3時ころ 予定より早めの帰路なりました。
比企地区各市町村持ち回りで、来年は、川島町で開催予定とのこと。

参加日:令和元年(2019)11月14日(木・埼玉県民の日)

さきたま講座「さきたまをとりまく利根・荒川の古墳群」

2019年11月09日 | 講演会・講座


埼玉県立さきたま史跡の博物館主催
令和元年度さきたま講座 企画展関連講座2「さきたまをとりまく利根・荒川の古墳群」
講 師: 塚 田 良 道 氏(大正大学教授)
日 時: 令和元年(2019)11月9日(土)13:30~15:30  
会 場: 埼玉県立さきたま史跡の博物館 2階講堂 (埼玉県行田市埼玉)

を聴講してきました。

内 容: 埼玉古墳群と同じ時代に利根川と荒川の流域でも多くの古墳が築かれた。しかし、両地域の古
    墳は、場所により、時期により特徴がそれぞれ異なる。その背景には。埼玉古墳を造営した豪族
    が関係したりしていた可能性が高い。さきたまを取り巻く古墳群に注目して考える。




講座資料

国指定史跡埼玉古墳群9基の古墳のうち巡っていなかった瓦塚古墳・奥の山古墳・中の山古墳・鉄砲山の
4基については1週間前(2日)に巡りましたので1枚づつですが写真を下に。




瓦塚古墳




奥の山古墳




中の山古墳




鉄砲山古墳

聴講日:令和元年(2019)11月9日(土)