四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

新田金山城跡の御城印(群馬県太田市)

2021年05月31日 | 御城印


日本城郭協会選定の日本100名城のひとつ『金山城』(群馬県太田市)の御城印を、太田市立史跡金山城
跡ガイダンス施設で頂いて(購入して)きました・・・300円
金山城の説明書もついています。




金山城跡は過去2回攻城していますので今回は体の状況等も考慮して攻城はしませんでした。
   『金山城再攻城』←クリックで記事にリンク




とは言え、全く城跡を無視してくるわけにはいきませんので、ガイダンス施設の道向かいの斜面にある
「桜ノ井戸」を攻略? この大手口石塁の標柱のある所を上がってすぐの場所に




「桜ノ井戸」説明板




「桜ノ井戸」




折角、史跡金山城跡ガイダンス施設まで行きましたので御城印だけでなく「不落の城 新田金山城ガイド
ブック」も併せて購入してきました。

購入日:令和3年(2021)5月20日(木)

城戸野廃寺跡(埼玉県神川町)

2021年05月30日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:城戸野廃寺跡(じょうどのはいじあと)
種 別:寺院跡
創 建:奈良時代と推定
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:伝緑野寺旧跡 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
所在地:埼玉県児玉郡神川町新宿 (旧・児玉郡神川町)

神川町新宿地内の城戸野廃寺跡(伝緑野寺旧跡)を訪ねてみました。
礎石もあったようですが現在は不明とのこと。現状はただの耕地にしか見えませんし、どの程度の範囲で
あったかもわかりませんが、かつてここに寺院があったと言う場所の確認だけが目的でしたので、古墳群
の散策までには至りませんでした。




農業水路の北側道路沿いに石標と説明板が建っていますが、この背後の耕地が城戸野廃寺跡のようです。




『伝緑野寺旧跡と城戸野古墳群』説明板と石標




『伝緑野寺旧跡と城戸野古墳群』説明板
浄土野(じょうどの)・・・城戸野(じょうどの) ですか




用水工事や農地改良で元の形はなくなっているようです




『石標』
異体字で刻まれていますので読み方が間違っている個所もあるかもしれませんが
  【縣指定史蹟城戸野寺阯》  裏面には【昭和二十五年・・・】
とあります。
昭和25年(1950)3月20日に【城戸野寺跡】の名称で埼玉県指定史跡になったようです。その後の昭和36
年(1961)9月1日に【伝緑野寺旧跡】の名称で県指定旧跡に指定替になっています。このころ指定文化財
の見直しがされ、史跡に準ずるという形で「旧跡」が設けられ、「範囲が定めにくいものや、歴史的実証
性が確認できないが地域で守り伝えられている等」が、指定史跡から指定旧跡に指定替になったもので、
多くの指定替えのそのうちのひとつのようです。中には指定そのものが解除になったものも複数あるよう
です。
つまり、指定史跡からの格※げ・・・※ 好きな文字をどうぞ(以上は私の勝手な解釈です)
石標は埼玉県指定史跡のころの名残りです。横道に逸れてしまいました・・・




西方から東方に




東方から西方に




北方から南方に

これらの写真以外にも城戸野廃寺跡は広がっているのかもしれませんが取り敢えずこの範囲で・・・

散策日:令和3年(2021)5月9日(日)

蓮生堂~熊谷次郎直実墓~(埼玉県美里町)

2021年05月29日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:蓮生堂(れんしょうどう)
種 別:小堂
指 定:-
所在地:埼玉県児玉郡美里町大字下児玉字熊谷

源頼朝に「日本一の剛の者」と称された武将「熊谷次郎直実」の遺骨が埋葬されていると伝えられている
小堂(蓮生堂)が美里町下児玉にあるとのことで訪ねてみました。
「蓮生」とは直実の法名でもあります。




小山川西岸の道路沿いに建てられている『蓮生堂』説明板標識




善台寺の跡地に建つ「熊谷公会堂」の裏に『蓮生堂』はあります
蓮生堂そのものよりも枝垂れ桜の「熊谷桜」の方が有名なようで桜の季節には多くの方が訪れるようです




枝垂れ桜の枝に包み込まれるようにある蓮生堂の小堂




改修してからまだ何年も経過していないようです




扉は開きませんが格子の間から中を  石祠です




【蓮生堂説明板】

 『蓮生堂』は、美里町大字下児玉字熊谷の地にある小堂である。この小堂は、町の北西部を流れる小山川西岸の熊谷
公会堂の裏手に建っている。ここに「熊谷次郎直実公の遺骨が埋葬されている」と言い伝えられている。
 大字下児玉の旧家には、文化11年(1814)に、京都黒谷の金戒光明寺から届いた依頼状があり、『武蔵国児玉郡誌』
(1927)という書物に残されている。そこには、おおよそ以下の内容が記されている。

 熊谷次郎直実公(連生法師)は、建永2年9月4日に年齢75歳で亡くなり、その時に家臣であった下山上総介直明が、
蓮生法師の御骨を十条の墳墓に埋め、分骨して黒谷の法然上人の元へ持参し、その半分を五輪塔の下に埋め、残りを宝
蔵に納めた。
 下山直明の嫡子藤九郎、十条の郷に居住す、・・・下山大和守信直御盛の時に、連生法師の墳墓を改めて一宇として
熊谷山蓮生院と号す。この蓮生院に入道直実殿の白骨を葬ると云う事が、当山御廟所の旧記にみえる。
 直実公の御遺骨を当山に再度分骨していただきたい。
                               (武蔵国児玉郡誌「申送状」意訳)

 また、安永元年(1772)に書かれた『武乾記』にも、「下児玉村之内熊谷に熊谷次郎直実の墓あり・・・」とある。
その真偽は不明であるが、当時、直実公の墓が下児玉の熊谷の地にあると伝えられていたことが分かる。

再びここを訪ねるときがあるとすれば枝垂れ桜が満開の時にしましょう!!

散策日:令和3年(2021)5月14日(金)

五明廃寺跡(埼玉県上里町)

2021年05月28日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:五明廃寺跡(ごみょうはいじあと)
種 別:寺院跡
創 建:奈良時代(8世紀前半)と推定
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:五明廃寺跡 昭和51年〔1976〕10月1日選定)
所在地:埼玉県児玉郡上里町五明字若宮

神流川の扇状地に造営された奈良時代の寺院跡である上里町の五明廃寺跡を訪ねてみました。
下掲の説明板にもあるように寺域等は不明のようですし、現状はただの空き地としか見えませんが、かつ
て寺院があったと言う場所の確認だけの目的でした。




五明廃寺跡の北側道路から




『五明廃寺』説明板と【五明廃寺跡】と入っている屑籠?
かつては巡回バスの停留所【天神社東】はここであったようですが、現在は少し離れた場所に移動してい
ました。




『五明廃寺』説明板




この空き地部分は五明廃寺跡の一部なのでしょう




南側から 
写真中央に『五明廃寺説明板』が建っています
話が完全に逸れてしまいますが、写真の右側に鉄塔が建っています。これはアマチュア無線のアンテナ用
のタワーで、関越自動車道の上里SA辺りまで来ると見えるタワーですが、ここに建っていたのですね。




五明廃寺跡の西北西約100mのところにある天神社の参道と一の鳥居




写真中央〇印のところが五明廃寺跡




天神社

散策日:令和3年(2021)5月9日(日)

寺内廃寺跡(埼玉県熊谷市)

2021年05月27日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:寺内廃寺跡(てらうちはいじあと)
種 別:寺院跡
指 定:熊谷市指定史跡(名称:寺内古代寺院跡 平成10年〔1998〕2月10日指定 指定面積 10,744㎡)
所在地:埼玉県熊谷市柴 (旧・大里郡江南町)

平成4年(1992)から5年(1993)にかけて、ゴルフ場の造成にともない、江南町教育委員会・江南町千代
遺跡群発掘調査会により、開発予定地と遺跡範囲確認のための発掘調査が行われました。
調査の結果、本寺院跡は8世紀半ばに創建され、10世紀後半には焼失している。発掘調査の結果、伽藍の中
心部を巡る溝、築地等の施設と整然と配置する伽藍が確認されており 当時、諸国に建立された国分寺にも
劣らない規模と内容を備えていた寺院の概要が確認された。平成10年〔1998〕2月10日 江南町指定史跡と
なる(平成19年〔2007〕2月13日熊谷市に編入合併し、市史跡となる)
指定史跡地内に存在する施設は、金堂・講堂・中門・参道・東塔跡などである。




道路北側(右側)が寺内廃寺跡ですが、現在はゴルフ場となっていてフェンスで囲繞され立ち入りはでき
ません。
仮に立ち入りが可能でも発掘調査後に埋め戻されていますので礎石等を確認することもできませんので、
初めから場所の確認ということだけで訪ねた次第です
写真中央の道路右側にゲートが僅かに見えますが、この辺りが参道跡のようです。




ゲートの内側奥に中門跡などがあったようです、
更にゲート外側の道路を横切るように参道跡があったようです。




ゲート脇に建立されている標柱
 熊谷市指定史跡 寺内古代寺院跡 平成十年二月十日指定

 「寺内古代寺院跡」本寺院跡は八世紀半ばに建立され、史跡地内には、
           金堂・講堂・中門・参道・東塔跡などが確認されている。
 



ゲートの脇から中を覗いてみても何も確認できません




一応西方からも




任意の地点からフェンス越しに中を覗いてもやはり何も確認できません




『熊谷市立江南文化財センター』
「寺内廃寺跡(寺内古代寺院跡)」の場所確認をした後に、何か参考になるものをとやってきました。




展示室の一角に
「寺内廃寺遺構模型】・【航空写真・配置図】・【金堂模型・塔模型】
※ 写真では名札の文字が読めませんので加筆しました




航空写真は上から 「講堂跡」・「金堂跡」右に「塔跡」・「中門跡」




   「寺内廃寺跡金堂復元模型」           「寺内廃寺跡塔復元模型」




出土品の「瓦」

散策日:令和3年(2021)5月6日(木)

照岩寺の芭蕉句碑(埼玉県行田市)

2021年05月26日 | 歌碑・句碑


 句 : 父母の しきりに恋し 雉子の声
     (ちちははの しきりにこいし きじのこえ)     

出 典: 『笈の小文』 貞亨5年(1688) 芭蕉45歳の時の句
所在地:埼玉県行田市北河原(旧・北埼玉郡南河原村) 照岩寺
建立年:明治元年(1868)
建立者:-




照岩寺は泉福山瑠璃光院と号する臨済宗円覚寺派の寺です




芭蕉の句碑は本堂と無縁塔の間に建立されています




芭蕉の句碑とは関係はありませんが、河原太郎高直・同次郎忠家兄弟及び森和泉入道道本の供養塔

平安時代、この地域を支配していた豪族の河原兄弟は、安元2年(1176)蒲の冠者範頼(源範頼)
の陣に加わり、源平一の谷の合戦生田の森(現:神戸市)の戦いでは、源氏方の先陣の功をたて、
壮絶な戦死を遂げた活躍が伝えられています。
両人の後見人でもあった森道本入道が兄弟の討死後、その遺体を摂津の国に葬り、郷里である当
地に寺を建立したのが、照岩時の創立と伝えられるとのこと。
この河原氏兄弟塔と家臣森和泉入道道本の供養塔は昭和62年(1987)に建立。
なお、河原兄弟の館があった場所は、同市南河原地内の観福寺付近と言われます。
   【河原氏館と国指定史跡「南河原石塔婆」】

散策日:令和3年(2021)5月1日(土)

藤原町の芭蕉句碑(埼玉県行田市)

2021年05月25日 | 歌碑・句碑


 句 :  春もやや けしき調ふ 月と梅
     (はるもやや けしきととのう つきとうめ)

出 典:『続猿蓑』 元禄6年(1693)春 芭蕉50歳の時の句
所在地:埼玉県行田市藤原町2丁目 竹内家墓所内
建立日:寛政5年(1793)10月12日、芭蕉の百回忌に建立
建立者:不明




句碑は覆い屋で保護されています
円の中に句が刻まれていますが、摩耗しており肉眼でも判読が難しい




見つけ辛い場所にあります
句碑は墓所を入ってすぐの右側にあります




このお堂を「赤いお堂」と呼ぶようですが、近年、塗り替えをしたようで現在は茶色に見えます

散策日:令和3年(2021)5月1日(土)

渋沢平九郎自決の地(埼玉県越生町)

2021年05月24日 | 史跡・遺跡・文化財


本年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一の義弟・養子である渋沢(尾高)平九郎の自決の地と
その関係地を訪ねてみました。

名 称:渋沢平九郎自決の地
指 定:越生町指定史跡(昭和37年〔1962〕2月14日指定)
所在地:埼玉県入間郡越生町黒山
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渋沢(尾高)平九郎とは
 弘化4年(1847年)、武藏国榛沢郡下手計村(現深谷市)の名主尾高勝五郎の末子として生まれ、兄の惇忠(新五郎)や
長七郎、従兄の渋沢成一郎(喜作)、渋沢栄一らの影響を受けて育ちました。
 慶応3年(1867)、渡欧する栄一の養子(跡継ぎ)となった平九郎は、日本橋錦町に居住し幕臣としての生活を始めます。
 翌年、鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜追討令が出されると、成一郎や兄の惇忠とともに彰義隊、振武軍に参加し、徳川家
再興のために自らの生命を顧みず尽くす決意をしました。
 旧暦5月23日(7月12日)、隊長の成一郎と右軍頭取の平九郎らが率いる振武軍は、飯能の東方で新政府軍に敗れます。顔
振峠から黒山村(現越生町大字黒山)にひとり逃れてきた平九郎は、新政府軍の斥候隊に遭遇し奮戦しますが、深手を負い
潔く自刃しました。村人たちは、名も分らぬ若き志士を「脱走のお士様(だっそ様)と呼び、勇ましい姿を語り継ぎました。                         
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                            (『越生に散った若き志士 渋沢平九郎展』配布資料から)





渋沢平九郎自決の地は黒山三滝入口の二差路を三滝方向に向かわず左に100m程行った場所にあります。
平九郎はこの林道を下って来たのでしょう。




自刃岩の上に「自刃岩」と刻まれた碑が建立されています。
ただ岩だけでしたら自刃岩とは考えもしないでしょうし、気づきさえしないかもしれません。




【文化財解説板】(左)と【澁澤平九郎自決之地】石碑(右)


【文化財解説板】 ※越生町では数年前からこの形式の文化財説明板になりました
《上段》


左:渋沢平九郎の写真  右上:明治45年4月14日 自決の地を訪れた渋沢栄一一行の写真
            右下:渋沢家と尾高家略系図


《中段》


町制施行百周年記念 越生町再発見100ポイント
  80 渋沢平九郎自決の地
         平成元年度選定 平成28年度再建』
 慶応4年(1868)5月23日、飯能で官軍に敗れた一人の振武軍兵士が、顔振峠から黒山村へ下りてきた。官軍の斥候隊と
遭遇した兵士は、孤軍奮闘後、路傍の石に座して自決した。首は越生今市で晒され、骸は全洞院に葬られた。今市では、
横田佐兵衛と島野喜兵衛が、密かに首を法恩寺に埋葬した。黒山の村人たちは、その壮絶な最期を讃え、「脱走の勇士様」
(だっそ様)と崇めた。
 やがて、この兵士は振武軍頭取尾高惇忠(後に初代富岡製糸場長)の弟平九郎、享年22歳であったことが判明した。平
九郎は渋沢栄一の妻千代の弟で、渡欧する栄一の見立て養子となり、渋沢姓を名乗っていた。 「自刃岩」の傍らの茱萸
は、平九郎の血の色を宿す実をつけると言われ、「平九郎ぐみ」と呼ばれている。

                                昭和37年2月14日町指定(史跡)

《下段》


「澁澤平九郎自決之地」碑文
表題を書いた 澁澤敬三 は渋沢栄一の孫で財界人・民俗学者

この「澁澤平九郎自決之地」の石碑は、梅園青年会と八基村(平九郎が生まれた当時は手計村といったが、
のち改称して八基村となった・現深谷市)青年団の呼びかけによって昭和29年(1954)に建立されたもの。




「平九郎ぐみ」について




渋沢平九郎の墓がある『全洞院』(越生町黒山)




『全洞院本堂』




渋沢平九郎の墓 道標
  最上段 歴代住職の墓地の下
   黒山に散った悲運の英傑




奥にあるのが渋沢平九郎の墓




『渋沢平九郎の墓』




澁澤平九郎之墓(渋沢平九郎の墓)説明板




墓参に訪れた渋沢栄一一行の写真




境内に「澁澤平九郎埋首之碑」が建立されている『法恩寺」(越生町越生)




『澁澤平九郎埋首之碑』
この碑は、昭和39年(1964)、渋沢元治の題字、山口平八の撰文により建立された。
題字を書いた 渋沢元治 は渋沢栄一の甥(工学博士・日本学士院会員)
山口平八は、「澁澤平九郎自決之地」碑の撰文も書いている



                                         2021.2.19撮影
深谷市の旧渋沢邸「中の家」の敷地にある『澁澤平九郎追懐碑』
大正6(1917)、東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家の墓所内に建立されたものですが、渋沢家墓所の
整理縮小にあたり、平成26年(2014)3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設された。
この碑は若くして亡くなった平九郎のために渋沢栄一が建立したもの。

【碑文】
 [澁澤平九郎追懐碑]
 楽人之楽者憂人之憂   (人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂い)
 喰人之食者死人之事   (人の食を喰らう者は人の事に死す) 
        昌忠       ※平九郎が仮住まいの障子に書いた書

 嗚呼此我義子平九郎取義之前日自題寓舎障壁之辞也明治戊辰五月官軍入江戸城平九郎
 年尚少不忍坐視主憂便投振武軍廿三日遂殞命草野・・・以下省略・・・
                   大正六年十二月 義父 渋沢栄一識並題額


散策日:令和3年(2021)5月22日(土)

越生に散った若き志士 渋沢平九郎展(埼玉県越生町)

2021年05月23日 | 企画展・見学会


越生駅西口総合観光案内所(道灌おもてなしプラザ) において
 令和3年2月14日(日)から

  『越生に散った若き志士 渋沢平九郎展』

が開催されていますので見学してきました。

渋沢平九郎は、現在放映中の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公渋沢栄一の従弟にして義弟・養子でも
ありますが、ここ越生町黒山で短い生涯を閉じています。




展示コーナー




渋沢平九郎の等身大(?)パネルと幟




博物館や資料館などでの企画展等と違いますので、壁に説明入りの写真が貼られただけのものですが、こ
れでも十分勉強になります。




詳しい記述がされている配布資料です。

写真撮影・資料配布に関して職員の方には親切丁寧な対応を頂きました。感謝

見学日:令和3年(2021)5月22日(土)

大長寺の芭蕉句碑(埼玉県行田市)

2021年05月22日 | 歌碑・句碑


 句 : 古池や 蛙飛びこむ 水の音
     (ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)

出 典: 『蛙合』  貞亨3年(1686) 芭蕉43歳の時の句
所在地:埼玉県行田市行田23-10 大長寺
建立年:江戸期  
建立者:不明
指 定:行田市市指定記念物(名称:大長寺の芭蕉句碑 平成5年〔1993〕3月31日指定)




句碑の脇に設置されている「大長寺の芭蕉句碑」説明板




大長寺は 亀通山行田院 と号し、忍藩主阿部家の菩提所
寺紋は「丸に三つ葉葵」紋
芭蕉句碑は山門の手前右側に建立されています




大仏

散策日:令和3年(2021)5月1日(土)