四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

今年のトリは・・・

2019年12月31日 | 花・鳥・風景




今年の投稿のトリは、大晦日の本日の散歩道で山際に見つけた小鳥(メジロ)の写真で。
道路から、山の中を飛んでは移動して枝に止まったところを撮ったものです。

この1年、拙いブログにお付き合い有難うございました。
今年前半は、秩父平氏(畠山氏、河越氏、葛西氏、江戸氏)と畠山氏の家臣たちに関係する史跡を
中心に。
更に大きく時間を遡って古墳見学も。令和という新しいに時代に関連する万葉史跡・歌碑を。鎌倉
街道(上道)をと、すべてが中途半端でしたが、何とか1年を過ごしてきました。
年と共に散策範囲が狭まってきておりますが、新しい年もそれなりに史跡巡りをしたいと思います。

撮影日:令和元年(2019)12月31日(火)

中世の城館跡

2019年12月28日 | 城館雑記


資料館ガイドブック4
  中世の城館跡  ―埼玉県入間・比企地方―
   発行 平成8年9月30日(第二版)

資料館ガイドブック6
  中世の城館跡  ―埼玉県大里・北埼玉地方―
   発行 平成1年7月10日

この2冊の冊子は、埼玉県立歴史資料館から発行されたものです。発行から30年以上は経っている
もので、B5版で其々表紙を含めて16ページです。当時、書類等はB版が使われていました。
発行元の埼玉県立歴史資料館は、現在の埼玉県立嵐山史跡の博物館です。

過日、嵐山史跡の博物館の企画展を見学に行った折に、埼玉県立歴史資料館時代のバックナンバーの
冊子を数種類頒布していましたので、城館跡というこの2冊を購入してきました。
多分、この2冊のもの以外にも城館跡の冊子が発行されたと思いますが、残部はないようでした。
其々20数か所の城館跡の解説と写真・縄張図(一部)が掲載されており、今では公園として整備さ
れてしまったり、低くなってしまった土塁などの30年以上も前の城館跡の姿がわかるものも何点か
ありましたので、興味があったとともに参考になると購入してきた次第です。

富士浅間神社古墳(埼玉県東松山市)

2019年12月27日 | 古墳


名 称:富士浅間神社古墳(ふじせんげんじんじゃこふん)
別 名:諏訪山36号墳
墳 形:前方後円墳(前方部消滅)
規 模:径27.1m
築 造:5世紀後半から6世紀初と推定
指 定:―
所在地:埼玉県東松山市西本宿

富士浅間神社古墳は、都幾川右岸の台地上にある諏訪山古墳群はを構成する古墳。
元々は前方後円墳であったが、前方部は削平されたようで消滅しています。後円部の墳頂には浅間
神社が祀られています。




富士浅間神社古墳




浅間神社社殿




墳頂の一部




墳丘を南東から




墳丘西側の斜面




墳丘北西側の斜面




墳丘東側の斜面




西側から墳丘を見るが雑木林のため視認性に難点があります




西側道路から ここからでは墳丘を確認できません

散策日:令和元年(2019)11月24日(日)

愛宕山古墳(埼玉県鴻巣市)

2019年12月25日 | 古墳


名 称:愛宕山古墳(あたごやまこふん)
別 名:下忍愛宕神社古墳
墳 形:円墳? 
規 模:直径20~30m、高さ約3m 
築 造:古墳時代後期(6世紀~7世紀)と推定
指 定:市指定史跡(名称:愛宕山古墳 昭和34年(1959)1月16日指定)
所在地:埼玉県鴻巣市下忍(旧北足立郡吹上町)

地名が示すよう、この辺りは昔、忍藩の領地であったようです。今も行田市と接しています。
この愛宕山古墳は墳頂に愛宕神社が祀られていることから付いた墳名のようですが、愛宕山古墳と言う名
称の古墳は各地にあります。地名を冠した下忍愛宕神社古墳(或いは下忍愛宕山古墳)と言った方が通り
がよいかもしれません。
左の高架は上越新幹線の高架です。




愛宕山古墳説明板
結論から言うと、原形も築造時期もはっきりせず、すべてが推定の域を出ていないということでしょうか。




本殿がある古墳の周囲はコンクリートブロックで固められており、古墳独特の土のにおいがしません。
ここが古墳だという説明がなければだれも古墳とは思わないでしょう。




北側にある下忍第一児童公園から見ると本殿の真後ろです。左端に一部見える白い建物は下忍農村センター




高架下の南西側道路側道から

散策日:令和元年(2019)11月21日(木)

企画展「戦国大名は如何にして軍需を調達したか」

2019年12月21日 | 企画展・見学会


埼玉県立嵐山史跡の博物館
令和元年度企画展「戦国大名は如何にして軍需を調達したか」

が、
令和元年11月30日(土)~令和2年2月16日(日)の会期で開催中ですので、観覧してきました。

【開催趣旨】
英雄の時代とされる戦国時代は、兵士の犠牲、農村の荒廃、放火や略奪の横行などの負のイメージも
併せ持つ。
戦国大名は、多数の武将やや兵士を従え、実に百年を超える間、戦いに明け暮れた。
本展では、当時の文献記録のほか、城郭や浄化に残された当時の武器・武具・生活遺産を手掛かりに、
戦国大名や武将たちが、頻繁な戦いを永く継続することができた理由を探る。(企画展チラシから)




企画展開催中の看板




昨年までは、展示室入口の上に企画展の看板が掲げられていましたが、本年度は、ロビーに懸垂幕で。
ロビー展示は、「比企城館跡群展」(会期は企画展と同じ)




今回も購入してきた「企画展図録」(¥400)

見学日:令和元年(2019)12月21日(土)

真名板高山古墳(埼玉県行田市)

2019年12月19日 | 古墳


名 称:真名板高山古墳(まないたたかやまこふん)
別 名:-
墳 形:前方後円墳 
規 模:全長90.5m、前方部の高さ7.3m、最大幅50m、後円部の高さ5.4m、直径40m
築 造:6世紀後半(推定)
指 定:県指定史跡(名称:真名板高山古墳 昭和49年(1974)3月8日指定)
所在地:埼玉県行田市真名板1532

真名板高山古墳を訪ねて来ました。埼玉県下で7番目の大きさの前方後円墳とのことですが、利根川などの
氾濫や関東造盆地運動により本来の地表面が地下に約3メートル埋没してようです。また、付近の河川の護
岸工事等で土の採取が行われ、墳丘はかなり変形しています。




【真名板高山古墳説明板】 劣化して判読しにくいので下に転記します

県指定史跡
   真名板高山古墳
                                 昭和49年3月8日指定
この古墳は、東西に主軸をもつ前方後円墳で、旧忍川の沖積地に向かう微高地に立地している。
現存の墳丘の大きさは、全長90.5メートル、前方部の高さ7.3メートル、最大幅50メートル、後円
部の高さ5.4メートル、直径40メートルである。
墳丘の形状は、かつて多量の封土が除去されたために、大きく変形している。
築造年代、埋葬施設、副葬品類については明らかではないが、周辺から採集された埴輪片等から、6世紀
後半の築造と考えられている。
武蔵最大の規模を誇る埼玉古墳群は南西約4キロメートルにあるが、時期的には並行しており、その関連
が注目される。
                          埼玉県教育委員会・行田市教育委員会




北東から全景(後円部)を




真名板薬師堂境内から後円部を




南東にある道路から全景を




南方から




南西にある道路から前方部を




前方部




前方部を西側から




墳丘の北側法面




北側から後円部を




墳丘(後円部)への登り口は「真名板高山古墳」石標の左方 草ではっきりしませんが




後円部墳頂の手前




前方部方向を背にして後円部を




後円部の一部と思われるが多量の封土が除去されたために細くなっている




くびれ部 ここも封土が除去されたようで山城の土橋のように細くなっている




くびれ部から前方部を




前方部に祀られている浅間宮(仙元宮)が祀られている




前方部墳頂から木立の合間をぬって南方向の風景を




真名板薬師堂前の道路際に設置されている「真名板高山古墳」の標識

散策日:令和元年(2019)11月21日(木)

武将らの銅像(3)

2019年12月16日 | まち歩き
最近は、諸々の事情から遠出ができず、近場の城館跡や史跡を巡っています。そのため、当然のこ
とながら新たな武将らの銅像に会う機会はほとんどなくなりました。
ここ数年では6人の武将の銅像しか会っていません。この先増えるここもないようですから、一旦
ここで区切りの意味で・・・



 齋藤実盛公(さいとう さねもり) 【 天永2年(1111)~寿永2年(1183)】

  所在地:埼玉県熊谷市妻沼 妻沼聖天山   齋藤別当実盛開基の寺    
  撮影日:平成29年(2017)1月22日

平安時代末期の武将
藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直)の子越前国の出 
武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県妻沼町〔現・熊谷市〕を本拠とし、長井別当と呼ばれる
大蔵合戦において源義賢を討ち取るも、その子駒王丸(のちの木曽義仲)を助けて木曽に送る
寿永2年(1183)加賀国の篠原の戦いで敗北。義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。




 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 ①

  所在地:群馬県太田市新田市野井町 生品神社   新田義貞挙兵の地    
  撮影日:平成30年(2018)9月19日

鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将
正式な名は源 義貞(みなもと の よしさだ) 河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁
鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人




 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 ②

  所在地:群馬県太田市世良田町  太田市立新田荘歴史資料館  
  撮影日:平成30年(2018)9月19日
  



 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 ③

  所在地:東京都府中市科片町2丁目 分倍川原駅前   「分倍河原の戦い」の地  
  撮影日:平成30年(2018)9月5日




 脇屋義助公(わきや よしすけ)  【 嘉元3年(1305)~興国3年/康永元年(1342)】

  所在地:群馬県太田市脇屋 正法寺    脇屋義助の菩提寺   
  撮影日:平成30年(2018)9月23日

鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将
新田朝氏の次男。新田義貞の弟。兄・義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は
南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦




 新田義貞公(にった よしさだ)  【 正安3年(1301)頃~延元3年/建武5年(1338)】 左
 脇屋義助公(わきや よしすけ)  【 嘉元3年(1305) ~ 興国3年/康永元年(1342)】 右

  所在地:群馬県太田市東本町 太田駅前広場    
  撮影日:平成30年(2018)10月2日




 太田道灌公(おおた どうかん)  【 永享4年(1432)~文明18年(1486)】

  所在地:埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷 龍穏寺    太田道真・道灌ゆかりの寺
  撮影日:平成30年(2018)12月28日

室町時代後期の武将 武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰
摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで
享徳の乱、長尾景春の乱で活躍。江戸城を築城したことで有名。また、「山吹の里」伝説でも有名




 大石定久公(おおいし さだひさ) 【 延徳3年(1491)~天文18年(1549)】

  所在地:東京都八王子市下柚木 柚木城跡(永林寺)  定久の居館跡
  撮影日:平成28年(2016)12月17日

戦国時代の武将 山内上杉家、後北条氏の家臣 武蔵国守護代 滝山城主
天文15年(1546)、上杉氏が北条氏康に河越城の戦いで大敗し没落すると、主君の上杉憲政を見限
って後北条氏に臣従する。その後、氏康の3男・氏照を娘・比左の婿養子として迎え入れて滝山城と
武蔵守護代の座を譲り、入道して心月斎道俊と号し多摩郡五日市の戸倉城に隠居。

  過去記事   『武将らの銅像』   『武将らの銅像(2)』

講演会「戦国武将と甲冑 ー武装自弁とお貸具足ー」

2019年12月13日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館 
令和元年度企画展関連講演会 「戦国武将と甲冑 ー武装自弁とお貸具足ー」
 講師:伊 澤 昭 二 氏(甲冑研究家)
 日時:令和元年12月13日(金)13:45~15:30
 会場:国立女性教育会館 講堂

を聴講してきました。

甲冑の移り変わりや特徴を写真を交えながら解説して下さいました。




企画展「戦国大名は如何にして軍需を調達したか」のチラシと開場を待つ聴講者たち




講座資料




女性教育会館の山茶花  花弁が散って見事なピンクの絨毯となっています




池の周りを覆い尽くしている枯落葉  ※講習会中の写真はありませんので・・・

聴講日:令和元年(2019)12月13日(金)