四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

平山氏館(東京都日野市)

2018年06月30日 | 100名城以外の城館跡


平山氏館は、京王線・平山城址公園駅(東京都日野市平山5丁目)付近にあったと言われます。
駅ロータリー南側に石碑と案内板が建っています。背後に見える山稜が平山城です。単に駅前だから碑を建てたのではなく、
実際、館跡がこの場所であったから建てたということでしょう。

平山季重とは、生没年不詳なるも平安後期・鎌倉前期の武士。本姓は日奉(ひまつり)氏で武蔵七党の西党に属す。父は直季。
武蔵国多西郡船木田荘平山郷(日野市平山)を本領とし、院の武者所に祗候して平山武者所と称した。




京王線・平山城址公園駅




平山季重遺跡之碑




季重光霊地碑




「市指定史跡 平山季重居館跡」説明板   居館の説明より碑についての説明に重きを置いているような説明板ですね。




石碑の背後に立てられた「義経ゆかりの武将 平山季重」と染め抜かれた幟  丁度いい風向きを狙って「パシャ」
丸に二つ引き紋は平山季重の家紋です  まあ、他人の家紋を入れることはないでしょうけど




駅前に設置の案内板「平山季重の道」
ここにもある「宗印寺」行きそびれてしまいました




道路の反対側にある「平山季重ふれあい館」
「平山ふれあい館」なら平山地域のふれあい館とすぐに理解できたのでしょうが、平山季重とフルネイムで入っていたために、
てっきり平山季重に関する資料館のようなものかと思いましたら然に非ず。図書館と、子育てひろば、交流センター等の施設
で、名前を冠しただけで平山季重とは全く関係ありませんでした。裏を返せば、この地域の人たちは平山季重をそれだけ誇り
にしているということの所証しかも知れません。
館跡の遺構は皆無でしたが石碑と、幟と、平山季重ふれあい館、駅名の平山城址駅。ここに平山季重の存在があったのは確か
なようです。

散策日:平成30年(2018)5月28日(火)

平山城(東京都日野市)

2018年06月28日 | 100名城以外の城館跡


平山城跡(東京都日野市平山6丁目)を訪ねてみました。城と言っても、源氏方の侍大将として名を馳せた平山季重(ひらや
ますえしげ)の見張所があったと伝えられる場所です。見張所であっても広義では城であるわけですが。
その見張所のあった多摩丘陵の一画が現在「平山城址公園」となっています。

城址公園入口は、近世の城の塀を模した造りになって居ます。これは平山季重が活躍したころの塀壁とは違うかもしれません
が、城址公園としての雰囲気を出すには十分でしょう。




平山城址公園の説明案内図板




城址公園の説明に係る部分のアップです




早速、公園内を散策です




木橋  やはり城跡は木の橋が似合う




猿渡の池

実は、季重神社はこの城址公園の中にあるものとばかり歩いていたのですが、それを示す標識は見当たらず。
丁度、犬の散歩に来ていた女性の方に遭遇しましたので、「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」ならぬ「聞かぬは一生歩く
はめに」ということで季重神社の場所をお聞きしました。
何となんと、公園内ではなく公園の外にあるとのことでした(案内図を確認したのに何という有様・・・いつもことではあり
ますが)




公園内の散策は早々に打ち切って、公園から出て教えていただいたとおりに歩き、鎖がかかった所に到着。
侵入を禁止しているのではありません。警察・消防・市役所の駐車用のため一般車両の駐車を防ぐための鎖のようです。




鳥居と祠が見えます




鳥居の扁額には「平山季重神社」




平山季重神社の祠
創建は不詳ですが、古くは日奉明神社と呼ばれており、現在でも日奉神社とも呼ばれているようです。平山季重が祖先の日奉
を祀ったものとも、季重を子孫が祀ったものともいわれるようです。
日奉(ひまつり)とは、平山氏の本姓です。
無論、この祠は最近(平成17年造営)のものですが、丘陵の突き出たこの場所に見張所があったと伝えられています。




祠正面に「平山季重」としっかり彫られています




鳥居を出た左側に道標が建っていて、山を下っていけば平山城址公園駅に至るようでしたので少し下り始めました。しかし、
ちょっと距離がありそうでしたし、片道だけなら歩いて行ったのですが、また戻って来なければなりませんでしたので断念。
この後、この平山城(見張所)と一体であったと考えてもよい「平山氏館跡」に向かいましたが、これは別記事とします。

散策日:平成30年(2018)5月28日(月)

蕨城(埼玉県蕨市)

2018年06月26日 | 100名城以外の城館跡


城 名:蕨城(わらびじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:長禄年間(1457~1460)頃
築城主:渋川義行
城 主:渋川氏
遺 構:水堀跡・土塁
指 定:県指定旧跡(昭和36年〔1961〕9月1日指定)
現 状:城址公園・市民会館・和楽備神社
所在地:埼玉県蕨市市中央4丁目

蕨城は、南北朝時代に足利将軍家一族の渋川義行によって築城されとされます。大永4年(1524)北条氏綱により攻めら
れ、破壊されたと言われます。
江戸時代になると徳川家康が鷹狩用の御殿として城跡を利用したといわれます。




城址公園通りです。ここを行ってみましょう。




公園入り口前の石垣と堀です。往時はこうした石垣はなかったのでしょうが、「城址」の雰囲気を演出しています。




本来の虎口ではないと思いますが、桝形風にできています。城跡に来た実感を持たせてくれます。




「蕨城址公園」の銘板の左側に設置の「蕨城跡」説明板
銘板と説明板を一緒に撮りたかったのですが、丁度、間に自転車を止めて休んでいる方がいたものですからセパレート撮影に。




公園内広場です。曲輪跡でしょうか?




同じく公園内広場です。




蕨市が成年式(成人式)発祥の地であることは誰もがご存知かと思います。
蕨市制20周年と成人の日制定30周年を記念して昭和54年1月15日に建立された『成年式発祥の地記念像』




『成年式発祥の地記念像』の左方にある土塁 徳川家康がこの蕨城跡に鷹場御殿を設けたときに築いた土塁の一部?




ニュートンのリンゴの木




市民会館




城址公園北側にある城址碑・標柱群




蕨城址碑 昭和36年に建立されたもので、高さは3m位ある大きなものです




「蕨城跡」説明板  公園入口にあったものと内容は全く同じです  違うのは高札型というだけです




蕨城跡標柱  ここには「埼玉県指定文化財」と標記しています




標柱の背後に鎮座する小祠  何を祀ったものかの確認はしませんでした




公園と公園北側にある和楽備神社と間(城址碑の背後)にある『御殿堀跡』
廃城となった蕨城跡に、関東に入部した徳川家康が鷹場御殿を築きましたが、その際の水堀跡が一部遺っています。
今ある状態は池として改修されていますが。




『御殿堀』碑




和楽備神社寄りから見た御殿堀跡




和楽備神社鳥居に正対して建つ「神楽殿」  鳥居の西側




和楽備神社は、渋川氏が蕨城の守護神として「八幡社」を祀ったのが始まりと伝えられています(他説もあるようです)




水盤(蕨市指定文化財)




社殿①




社殿②




「和楽備神社」扁額




神輿殿




境内社①




境内社②




社殿斜め裏に忠魂碑、日清戦争凱旋記念碑等が建っているが、その背後は土塁となっている(9枚目の写真の土塁の反対側)




「蕨駅」
今回の蕨城跡探訪は電車利用で蕨駅から往復しました。実は、ウン10年前赴任したのがこの蕨市でした。蕨市で勤務をした
のは約3年半、住んだのは約4年でした。
「蕨」という字は難しく読めなかったり、書けなかったりしますが、当時の私は、「蕨」という文字を数え切れないほど書い
ていました。今は書く必要も機会もありません。
それこそ久しぶりに訪ねた蕨市ですが、すっかり変わっていました。それでもなんとなく当時の面影も感じながら懐かしんで
きました。

散策日:平成30年(2018)5月24日(木)

八王子城みらいシンポジウム ~落城から次世代への継承を考える~

2018年06月23日 | 講演会・講座


天正18年(1590年)6月23日は、本市の名前の由来ともなっている八王子城が、豊臣秀吉の関東制圧の過程で落城した日
であるとともに、本市においては、戦国の世の終わりを告げ、まちの中心が現在の中心市街地へ移るきっかけとなった、八王
子の大きな転換点の一つの日でもあります。
この6月23日にちなんで、八王子城跡内において、歴史を知り未来へ継承するシンポジウムを開催します。
本イベントに参加して、戦国時代当時の八王子城へ思いを馳せるとともに、先人が遺したものについて、次の世代へどのよう
に継承していくか、一緒に考えてみませんか。

開催日時 平成30年6月23日(土)午前10時~12時30分
場  所 八王子城跡ガイダンス施設
テ ー マ 「北条一族が遺したもの」
     平成28年に北条三兄弟の縁で姉妹都市盟約を締結した、神奈川県小田原市・埼玉県寄居町の学芸員を招いて開催し
     ます。
テーマに沿って、各自治体の北条氏ゆかりの史跡整備の経験に基づく意見交換を行い、文化財の普及と次世代への継承を考え
     ます。
コーディネーター
   相原 悦夫 氏(八王子市文化財保護審議会 会長)
パネリスト
・小田原市
  佐々木 健策 氏(小田原城総合管理事務所 係長)
・寄居町
  石塚 三夫 氏(鉢形城歴史館 館長)
・八王子市
  新藤 康夫 氏(所沢市文化財保護委員会委員、八王子市文化財課元職員)
主 催 八王子市教育委員会勝敗学習スポーツ部文化財課

上記主旨・内容によるシンポジウムが開催されましたので聴講してきました。




シンポジウムの写真・ビデオ撮影、録音は禁止されていましたのでありません。
代わりに八王子城跡ガイダンス施設内の写真を1枚。




シンポジウムの前に(10時~)八王子城御主殿跡で開会セレモニーが行われました。
シンポジウム参加者は開会セレモニー参加(観覧)が必須でしたので参加してきました。
NPO法人八王子城三ツ鱗会の皆さんの演武




八王子城三ツ鱗会の皆さんの演武  槍の舞




市長、パネリストらを交えての勝どき 
この後、八王子城跡ガイダンス施設内に移動してシンポジウムが行われました。

城跡を発掘調査したり、復元したりするには大変な苦労があるようです。城跡だから掘ってみようといった簡単なものではあ
りません。木一本切るのもままなりません。
土地の所有関係、保安林、自然公園、文化財(史跡)等の関係が複雑に絡んできます。更に発掘調査復元に要する費用の問題
もあります。
綺麗に整備された城跡を見ることのができる裏には関係者の大変な苦労があります。そんな認識をあらたにしました。

興味ある裏話もお聞かせいただきました。




左上:今回購入してきた書籍(¥550) 八王子城跡の発掘調査の状況や出土品などが紹介されています
上中:シンポジウム参加のお土産に頂いたキーホルダー 裏は橋の写真(今は曳橋とは表現していない)
右上:八王子城跡パンフレット
下 :書籍売り場で頂いた「北条氏照年表稿」上・下  ガイドボランティア氏照会さんの力作

聴講日:平成30年(2018)6月23日(土)

嵐山町 千年の苑ラベンダー

2018年06月19日 | 花・鳥・風景


埼玉県比企郡嵐山町鎌形地内に嵐山町が整備を進めている「千年の苑(その)」ラベンダー園に行ってきました。
「日本一のラベンダー園」を目指し、2016年から千年の苑造り事業を初め、来年2019年6月に本オープンを予定して
いますが、プレオープンとして6月16日(土)から7月1日(日)まで一般開放されています。23日(土)・24日(日)
は「らんざんラベンダーまつり」が開催されます。
現在は、約6ヘクタールに4万本のラベンダーを植えられており、現時点でも関東最大規模ですが、来年の本オープンまでに
は約8ヘクタールに5万本を植栽し、完成すれば「ラベンダー植え付け面積日本一」になるとのことです。

平日にも関わらず、天候もよかったせいか沢山の方がラベンダーの香りを楽しみに来ておりました。
ラベンダーの摘み取りも大変な人気で、希望者殺到の為に摘み取ったラベンダーを入れるリングが足りなくなって、摘み終わ
った人が戻ってくるのを待たなければならないといった状況でした(リングに入るだけのラベンダーを摘めます)

近くには、「続日本の100名城」に選定された、平安末期~鎌倉時代の武将・畠山重忠の居館跡とされる【菅谷館】や、い
つも講演会や講座での会場としてお世話になっている【国立女性教育会館】もありますし、春には桜で賑わう都幾川堤桜並木
とは隣り合せです。
更に、平安末期の武将・木曽義仲の「産湯の清水」がある【鎌形八幡神社】、義仲の父・源義賢の居館【大蔵館】も近くにあ
るなど歴史(長い年月)のある町であることから「千年の苑」と名付けられたようです。


















































皆さん色々な形で情報を仕入れて訪れているのでしょうが、沢山の方が訪れたのは単に天候が良かったというだけではなく、
この方が、本日朝、ここから天気予報を放送していましたので、それで知ってという方が多数おられたかもしれません。

散策日:平成30年(2018)6月19日(火)

出羽山砦(東京都八王子市)

2018年06月18日 | 100名城以外の城館跡


城 名:出羽山砦(でわやまとりで)
別 名:―
形 態:砦
時 期:戦国期
築城主:近藤出羽守助実(近藤綱秀)
城 主:近藤氏
遺 構:土塁
指 定:―
現 状:出羽山公園
所在地:東京都八王子市城山手1丁目

出羽山砦は、八王子城主・北条氏照の重臣近藤助実が豊臣秀吉の小田原攻めに備えて、八王子城の出城として、比高10m程の
単独丘に築いたものと言われるようです。
今は、出羽山公園として整備されており、遺構らしき遺構は見当たりませんし、出羽山公園の石標はあるも出羽山砦跡の文字
はどこにも見当たりません。訪れてすぐ確認のために、園内を掃除していた女性に、「出羽山砦でここでよいのですか」とお
聞きしたところ、「ここは城山手って言うところだよ」との返答でした。こんな状況ですから、地元の方でさえ砦があった場
所と認識していない方は多いのではないかと思います。
公園に駐車場はありませんので、すぐ近くにあるスーパーの駐車場に、ちょっとした買い物をして止めさせていただきました。




東側にある入口です。虎口跡かはわかりません。ファッションセンターしまむらのすぐ脇です。




3方向に道があります。遊歩道として整備されたものでしょう。




右手(北側)へ進むと丘の斜面がはっきり見えます。ここより先に進むと遊具が並んでいます。この更に右手は幹線道路です。




左手(南側)に進んでみます




モニュメントのある広場に出ます  自動販売機の背後にある建物がトイレです




ここが出羽山公園の表入り口のようで「出羽山公園」の石標があります。完全に公園です。




3方に分かれていたところの中央の階段の散策路を登ります




折れとなっています 土塁様のものもあり、違い虎口のようにも思えます。




北側から上がって来た道、表入り口から上がって来た道と合流します




南側眼下に遊具広場が見えます




土塁のように見えますが、遊歩道部分を削平したときの削り残しの部分が土塁のように見えるのかと勝手に解釈します。




遊歩道の上にあたる木立の中(二曲輪跡)を歩いてみましたが遺構らしきものはありません




一番の高所である西端部の広場に着きました。しいて呼ぶなら「本曲輪跡」といったところでしょうか。




元々このように広かったのか、公園化に伴い削平して広げたのか関係者でない私には分りませんが。




西端には土塁らしきものが遺っています




主郭跡から南側の住宅街を




柵前に設置してある「公園配置案内図」
下の緑色部分が出羽山公園すなわち出羽山砦跡ということになりますが、冒頭にも書いたよう出羽山砦跡という文字はどこに
もにもありません。

公園の造成により遺構が失われたのか、もともとあるままの丘に少し手を加えただけの砦であったのかは分りませんが、城館
砦跡を思わせるものは遺っていません。砦跡と知って訪れるから、虎口跡かとか土塁かもしれないとの目で見て歩きますが、
城郭跡に特段の興味がなかったり、仮に興味があっても、砦跡ということを知らずに訪れたならただの公園にしか過ぎないで
しょう。

近藤氏の出自は不明のようで、浄泉寺城を居城としていたようです。天正18年(1590)の小田原征伐の際は、ここ出羽山砦
ではなく、八王子城の近藤曲輪を守備して壮絶な最期を遂げたと伝えられています。

散策日:平成30年(2018)5月22日(火)

平成30年度初級歴史講座第1回「城郭の縄張り」

2018年06月15日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による
平成30年度初級歴史講座「戦国城館跡の見方」
第1回「城郭の縄張り」
講師 梅沢太久夫 氏 (元埼玉県立歴史資料館長)
日時 6月15日(金)13:45~15:30
会場 国立女性教育会館研修棟 講堂

を聴講してきました。

内容は、〈縄張図から城館跡の構造や機能を考える〉ということで、歴史、城郭共に初心者にも及ばない知識しかない私にと
っては大変勉強になりました。今後の城館跡巡りでの見方が変りそうです。




アジサイの雨 雨のアジサイ・・・アジサイ越しに講座会場を




もう何度もお世話になっている国立女性教育会館講堂
 



講座資料

今回も梅沢多久夫 先生の著書を1冊購入してきました。著書名は内緒・・・

聴講日:平成30年(2018)6月15日(金)

藤橋城(東京都青梅市)

2018年06月13日 | 100名城以外の城館跡


城 名:藤橋城(ふじはしじょう)
別 名:―
形 態:平山城
時 期:不明
築城主:不明
城 主:平山越前守虎吉・藤橋小三郎
遺 構:土塁
指 定:市指定史跡(昭和28年〔1953〕11月3日指定)
現 状:公園
所在地:東京都青梅市藤橋

藤橋城は、武蔵野台地が北側の霞川低地に突出する台地の端に位置し、低地からの比高は、5~6mで、城跡は単曲輪で、長方
形の曲輪を空堀と土塁が取り囲んでいます。 曲輪の広さは、東西約50m、南北約60m。天正18年(1590)の小田原北条
氏の滅亡とともに落城したと考えられているようです。




藤橋城趾は現在公園として整備されていますが、公園の北側や南側の住宅街の一部も城域であったと考えられます。
北側には農地が広がっています。




南側の道路沿いにある公園入口。虎口跡かどうかは不明です。
入口正面から撮りたかったのですが、撮れない事情があったものですから斜めからとなりました。




道路北方から入口方向に向けて見ています。土塁がよく遺っています。




入口横に建てられている「青梅市史跡 藤橋城跡」の標識




入口を入ったすぐの左側に設置されている「藤橋城跡」説明板




入口を入ってすぐの所にある休憩所(四阿)
正面から撮れなかった理由のヒントが、写真の左端にあります。




西側の土塁  一番高所の南西隅部分です




西側土塁の上から北方に見ています 土塁左側(西側)は腰曲輪跡




西側土塁上から公園内を見ています




西側土塁の切れた部分(虎口?)から下を見ています




土塁と腰曲輪




北西側の土塁




櫓台があったと推定される北側にある方形の平坦地  




上記場所より北側の眼下の農地を見ています




北側の土塁




北側土塁の斜面を外側から




東側の土塁




石垣の土台の上に石柱が見えます  藤橋城跡碑(石標)か?




残念ながら藤橋城跡碑(石標)ではありませんでした。刻まれた文字が薄くなっていて読みづらいですが、「杣保神社趾」と
あります。杣保は「そまのほ」と読むようです。(画像の中の右上の写真)中世のころ、羽村と青梅と奥多摩を合わせて杣保
と言っていたようです。
杣保神社は、藤橋城主平山越前守重吉が元亀・天正(1570-1591)城内鎮護のため愛宕社と称して祀ったと伝えられ、明治43
年に葛神社と合併し杣保葛神社と称したといいます。
ということですので、城跡碑ではないものの、城跡に深いかかわりがある碑であることには違いはありません。
左下の写真は、この石垣土台の反対側に埋め込まれた銘板で、昭和61年に藤橋城跡整備とありますので、石標を藤橋城跡碑
と勘違いしても仕方ないですね。




公園東側の入り口




東側入口を入った道




城跡北方の農道から藤橋城跡の遠景を

公園として整備されていることから城跡の雰囲気には欠けますが、遺る土塁が往時を想像させてくれそうです。

攻城日:平成30年(2018)5月22日(火)

今井城(東京都青梅市)

2018年06月10日 | 100名城以外の城館跡


城 名:今井城(いまいじょう)
別 名:―
形 態:平山城
時 期:不明
築城主:今井氏
城 主:今井氏
遺 構:土塁・空堀
指 定:市指定史跡(昭和28年〔1953〕11月3日指定)
現 状:山林
所在地:東京都青梅市今井1丁目

今井城跡は、多摩川の北岸、加治丘陵の南辺にあり、入間川の支流、霞川沿いの低地に臨む舌状台地上に築かれており、現在も
土塁や空掘が良好な状態で残されています。この城は今井氏が城主であったと伝えられています。
城跡からは、発掘調査の際に板碑(青石塔婆)や宝篋印塔等が城跡内西側の土塁の中から打ち捨てられたような状態で発見されて
います。板碑に刻まれた年号等から、16世紀前半にこの地を治める勢力の交替があったと考えられています。
現在残る城跡の遺構は16世紀半ば以降に改修されたものと考えられています。遺構の様子から、この改修には戦国大名・北条氏
が関わっていた可能性が指摘されていますが、改修の目的や廃城時期などは不明です。
                    (青梅市教育委員会ホームページより  青梅市指定史跡「今井城跡」を引用)




恥ずかしくて載せられるような代物ではありませんが、郭の位置関係が分ればと描いてみました。位置や形状は不正確です。




「今井城跡」説明板




南側にある今井柳田自治会館の裏手にある今井城あと登城口  本来の虎口ではなく登城用に設けられたものと思料




曲輪2の西側にある平場




曲輪2西側の空堀  南方から北方に




曲輪2西側の空堀   



曲輪2




曲輪2南側  土塁はなく直接崖となっている




空堀




空堀




曲輪2から曲輪1(主郭)へ




曲輪1




曲輪1を囲む土塁




曲輪1東側の空堀




南側にある虎口の内側(喰い違い虎口)




虎口(内側から)  住宅が建っていますので外部からこの虎口に至ることは不可能です




虎口(外側から) 




土塁




空堀  曲輪1北側かと思いますが記憶不確か
 



空堀




空堀 曲輪3にあたる箇所?




曲輪3北側




曲輪3・曲輪2の西側の平場




今井城跡の南側を走る道路から見た今井城跡  左奥の建物が今井柳田自治会館  
右の道を行くと今井城跡への登城口がありますが、道路から見たときは気付きませんでしたので、北側から登城しました。




今井城跡北東隅




今井城跡北側 住宅街になっていますし道路も狭い




今井城跡北側東方部




北西隅から見た今井城跡  

道路(外周)から見ただけではた山林くらいにしか見えませんでしたが、中に入ってみると土塁。空堀が良好は状態で遺って
いましたので、あちらを向きこちらを向きと夢中で写真を撮ったのはいいのですが、後で見るとどの位置かわからなくなって
いました。建物党が写り込んでいればおおよその位置が特定できるのですが木だらけですから分らなくなり、単に「空堀」・
「土塁」とだけしたものが多くなってしまいました(恥)




今井2丁目にある「正福寺」  今井氏の墓所があるとのことで足を延ばしてみました




本堂




鐘楼ではなく本堂の濡縁の軒に吊るされた銅鍾




これが目的ではなかったのですが、否が応にも目に入ってしまったお約束の六地蔵尊




「今井氏の墓」説明板




この五輪塔や宝篋印塔群が今井氏の墓と伝わるようです

攻城日:平成30年(2018)5月22日(火)

戸吹城(東京都八王子市)

2018年06月06日 | 100名城以外の城館跡


戸吹城は、別名根小屋城・二城城とも呼ばれ、築城時期などは不明ですが、大石氏が滝山城の支城として築いたものと考えら
れています。
北方に秋川が流れる加住北丘陵の断崖上に築かれた自然の要害を利用した平山城で、急峻で両側が崖の細尾根道が続いている
うえ、崩落が進んでいることから見学範囲も限られています。

なお、八王子市や、NPO法人滝山城郭群・自然と歴史を守る会では、主たる呼び名を根小屋城とし、戸吹城・二城城を副と
しているようです。しかし、根小屋城の名称は色々な城で使われており、どこの城かすぐには判別できませんし、城郭関係の
ブログ等で大半の方が「戸吹城」を使っておりますので、このブログにおいても記事名は戸吹城とさせていただきます。




以前は、南側(縄張図下部)にある「馬出」辺りくらいまでは行けたようですが、今では「南郭」や社辺りまででそれ以北へ
は無理なようです。




幹線道路から逸れて戸吹城に向かう道に入りますと狭い道で、対向車があったら幅の広い場所に退避して譲り合うなどしなが
ら進みますが、その途中にある標識。戸吹城の文字は入っていませんが、間違ったと思う方はいないでしょう。




社員寮の脇にある標識  戸吹城跡(根小屋城跡)へは、かたらいの路秋川丘陵コーストとコースを同じにしているようです。




社員寮の脇を進んで裏側に回り込みます




ここに道が見えますが、この道は行けません。不法侵入として警察に通報するとあります。




社員寮の建物が終わったあたりにまた標識があります




竹柵の右側の道が登城路・ハイキングコースです  他の場所からここへ来るルートも、他の道もはないようです




竹林の中に入りますが、竹林のほぼ中央にある竪堀跡と思われる急坂がコースです。




竹林に侵入したら警察に通報する旨の立て看板が登城路・ハイキングコースの両側に幾つも立てられています。
筍泥棒対策でしょうか?




写真にすると緩やかな登城路に見えますが、実際には急坂で枯れた竹の葉が路面を覆っていますので慎重に登っていきました。




竹林の東側部に竪堀ようのものが見えます。また、段郭ようなものも見えますが、登城路から見るだけですから形状は確認で
きません。




南側にも段郭ようのものが見えますが、滑り落ちたりしないようにと神経を使っていましたので細かく観察はできません。




八幡社のある所まで上り詰めました




八幡社に向かって左側の平場が「南郭」で、尾根上にしては比較的広い郭かと思います。




同上 「南郭」




横堀前に建てられているハイキングコース道標には「二条城跡」とあり、下部の紙で目隠しされた場所には「秋川市役所」(現
あきるの市)の文字が読み取れます。
戸吹城は、八王子市とあきる野市に跨った城とのことで、どのあたりが境界なのか分りませんが、この道標がある場所はあき
る野市の領域ということでしょうか。更に、二城城との標記から察するに、あきる野市側では主たる呼び名を「二城城」とし
ているのでしょうか?




南郭に北側にある横堀  この横堀に後ろもだいぶ崩れが生じているようです
その先の薄茶色に見えるのは馬出(主郭?)の絶壁の崖のようです




アップで見ています




横堀前にロープが張られています これ以上は入るなということでしょう
堀の向こうが馬出のようですが大分崩れているようなので馬出まで行くのは無理のようです




同上




ちょっと離れた位置から横堀と南郭を見ています    横堀の東端は崖のようです




南郭から尾根を西方に進んでみましたが、崩れが見えます(写真中央あたり)
ここよりも更に少し先まで行ってみましたが、尾根筋も崩れでだいぶ狭くなっている場所などもあり、引き返しました。




八幡社右側(東側)の桝形虎口にあたる部分ですが、「秋川丘陵コース この先通行できません」との札が貼られています。
ハイキングさえも不可能な状態にまでなってしまったようです。




八幡社右側(東側)の土塁




八幡社背後の土塁  大分崩れています




主郭の下にはサマーランドが見えるとのことですが、ここ八幡社の脇から見える景色はどこなのでしょうか?




これ以上見て歩く場所もないので竹林の中の竪堀状の登城路を下って戻ります。掴まるものがないので登って来た時以上に慎
重に一歩一歩と下ります。

戸吹城跡についても皆さんのブログ等で写真を見せていただきましたが、それらの写真から何年も経過していることもあり崩
壊の状態がだいぶ進んでいました。この先何年かすると見学さえできない状態になってしまうのではないかと思えます。

攻城日:平成30年(2018)5月22日(火)