四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

歴史講座「武蔵の鎌倉御家人」第2回

2017年09月29日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催
平成29年度歴史講座「武蔵の鎌倉御家人」2  
    武蔵武士の拠点開発 ~文献・歴史地理から~
       講師:大井教寛氏(熊谷市立熊谷図書館)
日時:9月29日(金)13:45~15:30、
会場:国立女性教育会館 講堂

を受講してきました。
  
現在の熊谷市を本領として活躍した成田氏を中心とした武蔵武士について詳しくお話をして下さいました。
本年初頭、成田氏関係の史跡・神社仏閣を散策して歩いたばかりでしたので非常に興味深く拝聴させていただきました。

この歴史講座「武蔵の鎌倉御家人」は、あと2回開講されますのでこれらも受講予定でいます。 




今回の資料  A3サイズ5枚10ページにわたるものです

開講日:2017年(平成29年)9月29日(金)

松山陣屋跡(埼玉県東松山市)

2017年09月28日 | 100名城以外の城館跡


城 名:松山陣屋(まつやまじんや)
別 名:―
形 態:陣屋
指 定:市指定史跡 (昭和36年(1961)3月8日指定)
現 況:東松山市役所・松山第一小学校ほか
所在地:埼玉県東松山市松葉町1丁目1-58ほか

市役所敷地内にある地元の有志「松山陣屋研究会」が建てた「前橋藩 松山陣屋跡」石碑と案内板




上記案内板は、平成22年の撮影ですが、だいぶ年季が入っていて判読しづらい状態になっていますので、いろいろな
ところから拾ってきたものをまとめて簡記しておきます。

松平家長年の念願が叶い、幕末の1867年(慶応3年)に川越藩主の松平直克が前橋藩に移封されましたが、松山周辺の
比企地域約6万2000石余りが前橋藩の飛び地となってしまい、この地を統治するための陣屋がされました。これが松山
陣屋で、現在の東松山市役所がある付近一帯で、周囲を堀、土塁に囲まれた正方形の地面積8万7000㎡の国内でも最大
規模を誇り、陣屋というよりも前橋城の支城と言ったほうがよいくらいだったようです。
しかし、慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還、明治4年(1871)の廃藩置県により5年足らずで松山陣屋は
その役目を終えて破壊されました。そんなことから遺構はありません。

なお、今は新しい案内板に替えられているようですので折をみて行って来ましょう。




松山陣屋鉄砲城跡は、現在、八幡神社になっています。

写真は何れも平成22年(2010)4月3日(土)に撮ったものです。その後、市役所庁舎等も入れたものを撮ってきたので
すが、行方不明になってしまいました。案内板も新しくなったことでもありますので再度行ってみましょうか。

衣川城(岩手県奥州市)

2017年09月27日 | 100名城以外の城館跡


城 名:衣川城(ころもがわじょう)
別 名:衣川懐徳館
形 態:観光用模擬天守
築 城:昭和45年(1970)
所在地:岩手県奥州市衣川区日向(旧胆沢郡衣川村大字下衣川字日向)




平成24年(2012)5月、バスツアーによる東北旅行で、東北自動車道(多分?)を仙台駅に向けて走って
いるとき、車窓からいきなり丘の上に立つ天守が飛び込んできましたので慌ててコンデジのシャッターを
押して撮ったのがこの写真です。
それまでに城関係の雑誌等の写真で見た東北の城の中にこの天守を見た記憶はありませんでした。その時、
バスがどこを走っていたかも分りませんでしたから、何という城の天守かは全く見当が付きませんでした。
無論、現存天守や復元天守ではなく、模擬天守であることは分りましたが。
写真は撮ったものの何という城かを調べることなく今日まで至っていましたが、急きょ調べてみようと思い
つき(ブログネタが尽きていたからというのが本音です)、まずは写真のデータを探し出すために、いくつ
ものメディアをチェック。日付はわかっているのですが僅か2,3枚のため見過ごしてしまいます。
そして、探し出した上の写真と、ネットで探し出した東北地方の天守の写真を片っぱし比較してやっと辿り
着いたのがこの衣川城。
ここに衣川城なるものがかつて在ったわけではなく、同所の国民宿舎サンホテル衣川荘が昭和45年開催の岩
手国体を記念して建てた天守を模した資料館・展望台と判明した次第です。
ここから車で5分位のところに世界遺産である平泉の中尊寺があり、1189年(文治5年)の「衣川の戦い」で
藤原泰衡が源義経主従を自害させた「衣川館」が、西磐井郡平泉町ないしは奥州市衣川区(旧胆沢郡衣川村)
あたりにあったとされているようですが、この「衣川館」と観光用模擬天守「衣川城」とは無関係のようで
す。 
ただ、滋賀県大津市に同じ「衣川」と書いて「きぬがわ」と読む「衣川城」という城が鎌倉期から戦国期にか
けてあり、城跡には「衣川城跡」碑が建っているようです。

撮影日:2012年(平成24年)5月5日(土)               

大築城跡(埼玉県ときがわ町)

2017年09月26日 | 100名城以外の城館跡



城 名:大築城(おおつぐじょう)
別 名:大津久城
形 態:山城 標高466m・比高210m
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町大字西平字大築 

【大築城跡】
越生町との行政境に位置する戦国時代の山城です。この位置関係は、歴史的には慈光寺の領域と越生郷の境にあたり、
境目の城としての意味合いが強く、上田氏が慈光寺攻めに使用したとの伝承もあります。
城の構造は尾根に沿ってT字状に郭を配し、山頂の本郭から東西方向に直線的に郭を置く上位郡と一段下がって垂直
方向に伸びる尾根に置かれるモロドノ郭と呼ばれる下位群からなります。本郭を中心とする上位群は、大規模な堀と
折を伴う整理された導入路と虎口をを持つ技巧的な縄張りを特徴とします。いっぽう下位群は郭内の連絡ルートが判
然とせず全体に未整備な縄張りです。
近年、本郭東塁線の法面に石積み遺構が確認され、比企地方の石積みを持つ戦国期城郭に一例を加えました。石積み
の遺構の存在や縄張りから、青山城跡、腰越城跡、小倉城跡との類似性が指摘されています。
           (埼玉県立嵐山史跡の博物館発行  改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」から引用)




大築城跡縄張図    (同上 改訂 歩いて廻る「比企の中世・再発見」から引用)

大築城跡の存在や復元大木戸の存在。そして、大築城跡への登城口はときがわ町椚平からと越生町麦原からの二通り
があることも承知しています。
しかし、上記縄張り図にも見られるよう遺構も数多く攻城し甲斐のある山城跡ではあるものの、標高466m・比高
210mは自身にとっては厳しいものであることから未だに攻城に至っていません。
本来なら、攻城後に郭跡等の写真とともに投稿すべきなのかもしれませんが、この先、攻城はますます無理な状況に
なっていますので、攻城を待っての投稿となりますとその機会を失ってしまいそうです。
たまたま、別件の途中に復元大木戸の写真を撮っていましたので、この大木戸の写真で攻城記の代わりにしたいと思
います。




ときがわ町椚平玄関口に設けられた大木戸(復元)
本来は街道を封鎖する形で構えられていたのでしょうが、交通等を考慮してでしょうか道路上ではなく、川に向かって
道路端に復元されています




木戸の向こうにそびえるのが大築城のあった大築山(大津久山)でしょうか?




大木戸の由来
南方にそびえる大築山(大津久山)に戦国時代、松山城主上田朝直(案独斎)が出城を築いたといわれ、防備のための
空堀や郭跡などが今も残っている。
当時この街道を往来する者を監視するため、大木戸がおかれたと伝わっている。
                                            (現地説明板)




椚平郷土絵地図

撮影日:2015年(平成27年)9月14日(月)

新規の城館跡散策は無理な状態にありますので、中途半端に終えたものやお蔵入りになったものをひっぱり出してきて
投稿してきましたが、それすらも底をつきました。

常安寺館跡(埼玉県熊谷市)

2017年09月25日 | 100名城以外の城館跡


城 名:常安寺館(じょうあんじやかた)
別 名:―
形 態:館
遺 構:土塁
指 定:―
所在地:埼玉県熊谷市塩(旧大里郡江南町)

県道11号線(熊谷・小川・秩父線)を小川町方面から熊谷市街方面に進行、旧大里郡江南町に至って間もなく
県道右手に「常安寺」という天台宗のお寺があります。
かつてこの寺の境内に館があったと言われています。居住者や歴史についての資料はないそうですが、板碑に記
された年号から、鎌倉時代後期から南北朝時代、戦国時代にかけてのものと推測しているようです。
史跡等の指定はありませんし、寺院の石標があるだけで、案内板等もありません。遺構の土塁があるだけです。




境内の地蔵と本堂




本堂




本堂西側の土塁と竹林




本堂西側の土塁




竹林 右端に土北側塁の一部が




本堂北側(裏側)の土塁を西方から




本堂北側(裏側)の土塁を東方から
写真の右端を県道11号線が走っています

散策日:2017年(平成29年)1月28日(土)

『続日本100名城』群馬県編

2017年09月24日 | 城館雑記


この写真は、2010年(平成22年)7月に沼田城跡を訪ねた際に撮ってきた本丸跡にある西櫓台の石垣です。




そして、これは沼田城跡について書かれた今月20日の新聞記事です。

城 名:沼田城(ぬまたじょう)
別 名:蔵内城
形 態:崖端城
指 定:市指定史跡(昭和51年(1976)3月30日指定)
所在地:群馬県沼田市西倉内町

沼田城は、本年4月6日に制定された「続日本100名城」に、「名胡桃城」(115番)、「岩櫃城」(117番)と
ともに群馬県内3城のうちのひとつに選定されました(116番)
昨年のNHKの大河ドラマ「真田丸」の影響か知名度が上がってきているようです。また、沼田市は河岸段丘とし
ても有名で本年2月13日放送の「ブラタモリ」では「大河ドラマ真田丸スペシャル」で河岸段丘が組まれました。
これまでは、真田氏の城と言うと、長野県上田市の「上田城」というイメージが強く、上田城イコール真田氏
といった観があります。しかし、真田氏が上田城に拠点を置いたのは僅か39年間ですが、長野市の松代城の10代
250年に次ぎ沼田城には1681年(天和元年)の真田氏の改易・所領没収(このころは沼田藩として独立した)まで
の約90年間を居城していたわけです。その割には、最近まで一般には沼田城イコール真田氏という印象はなかった
ような気がしないでもありません。


【沼田城にまつわる小松姫の逸話】
2012年(平成24年)5月16日放送「ザ・今夜はヒストリー」の映像を何枚か写真に撮ってありましたので、それを
織り交ぜて話を進めます。なお、沼田城に見立てたのは茨城県にある某城跡の模擬二層櫓です。どこかは秘密!



関ヶ原の戦いの直前、真田父子三人は下野国犬伏のこのお堂の中でこれから先のことを話し合い、父昌幸と信繁は西軍、
信之は東軍につくことを決しました。昌幸・信繁は信之と別れ犬伏を発ちました。これが世にいう「犬伏の別れ」






昌幸は上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出し、そのまま沼田城を訪れました。




沼田城は城主信之に代わって妻の小松姫が守っていました。




孫(信之の子)に会いたいという昌幸に、小松姫は「たとえ舅であっても敵である」と、武装した姿で対応し城門を開
かず追い返しました。




その晩、昌幸たちは城下の正覚寺に宿をとりましたが、後に、小松姫は子供を連れて昌幸のもとを訪れ、一緒に連れて
きた配下の者を見張りに立たせ、子供を会わせて舅の願いを叶えました。このことについて、昌幸・信繁は大いに感心
したと言うことです。

一方で昌幸には沼田城に立ち寄りそのまま城を奪取する意図があったとも言われ、小松姫はそれを見越した上で穏便に
解決したとも言わています。

『続日本100名城』埼玉県編

2017年09月23日 | 城館雑記


昨日の「埼北よみうり」に、”歴史 想い 馳せる 埼北名城案内”と題して、本年4月6日に選定された『続日本100名城』のうち、
埼玉県内から選定された3城が紹介されていました。今更と思われる方もいるかとは思いますが紙面を紹介しておきます。




◇忍 城 〔続日本100名城 118〕 県指定旧跡
武蔵国成田郷(現・熊谷市上之)を400年にわたり本拠地としていた成田氏は、戦国初期、忍地方を支配していた
豪族忍氏を滅ぼして忍に移りました。
元の御三階櫓は三の丸に建てられていたようです。昭和63年(1988)に本丸跡に再建されましたが、本来の場所
や構造・大きさが異なりますので、復興・模擬御三階櫓に分類されます。




◇杉山城 〔続日本100名城 119〕 国指定史跡(比企城館跡群)
「中世城郭の教科書」と称されるれるくらいあらゆる城郭技術が盛り込まれた縄張りの山城です。縄張りの特徴から後北条氏の城と
推測されてきましたが、発掘調査で山内上杉の陣所から出土される特徴的なかわらけが出土されたことから、山内上杉の城との見解
となりました。
しかし、縄張り研究者は「山内上杉の城ではない。後北条の城だ!」と猛反対。これが城郭研究で有名な「杉山城問題」ですが、ま
だ決着はついていないようです。




◇菅谷館 〔続日本100名城 120〕 国指定史跡(比企城館跡群)
館のあった本郭の周囲に郭をめぐらして大きな館跡になったようです。昭和48年(1973)に「菅谷館跡」として国指定
史跡となり、平成20年(2008)に、同じ比企郡内にある「杉山城跡」、「松山城跡」、「小倉城跡」の3城と併せて
「国指定史跡比企城館跡群」として再指定されました。館跡と表示されてはいますが、その構造・規模等から城跡と称し
ても決しておかしくはないようです。

五覧田城址(群馬県みどり市)

2017年09月22日 | 100名城以外の城館跡


城 名:五覧田城(ごらんだじょう)
別 名:五乱田城
形 態:山城 標高593m・比高300m
指 定:市指定史跡(平成4年(1992)6月22日指定)
所在地:群馬県みどり市東町萩原(旧勢多郡東村)

【五覧田城址】
五覧田城は、沼田方面からの敵の侵入に備え築城された戦国時代の山城で、戦略的な要衡として、越後の上杉謙信、
新田金山城(太田市)の由良氏、深沢城(桐生市黒保根町)の阿久沢氏による争覇の舞台となりました。
天正2年(1574年)3月に、小田原北条氏について由良氏を攻めるため、沼田方面から進出した上杉謙信により
攻略されましたが、、同年9月には由良成繁により奪い返されています。また、天正12年に、成繁の子国繁が小田
原に軟禁されると、当地の支配を約された阿久沢氏により五覧田城は攻略されています。
その後も、渡良瀬川上流部の黒川谷の領有をめぐって、由良氏と阿久沢氏の抗争が続きましたが、小田原北条氏の裁
定により、最終的には阿久沢氏の領有となりました。
その後の五覧田城は、阿久沢氏が小田原北条氏方として豊臣秀吉の小田原攻めに対抗したため、天正18年(159
0年)に廃城となったと考えられます。
海抜5592.9m、史跡としての指定面積は面積23.4ha、現在は三の丸とされる場所が五覧田城址公園として季節
には、ツツジ、ソメイヨシノ、山桜や夏椿が咲き乱れ、遠くは富士山の望める景勝の地となっています。
                                       (みどり市HPより引用)

わたらせ渓谷鉄道とほぼ並行して走る国道122号線の道端に〈五覧田城址〉の名の入った、この案内標識を初めて
目にしたのは2009年(平成21年)8月末のことでした。「ここにも城跡があるんだ!」と興味を持ったものの
即、城攻めとはいきません。またここを通る機会があり、余裕があったら攻めてみようかと・・・
それから2年と2か月を経過した2011年(平成23年)10月末、日光市の某施設への往復でこの道路を使うこ
とになり、その帰り道に念願の五覧田城攻めを実行に移したのです。山城跡ではありますが、頂上近くまで車で行け
るという僅かな予備知識をこの時は持っていたからです。




案内標識に従って・・・




御影石の立派な標識です  道路はしっかりしているようです




更に進むと分岐点となり、左が「関守口」方向(写真では口しか入っていませんが) 右が「高橋口」方向
左に行くか右にするか(車で行けることは調べてあっても、どちらが良いのかまでは調べてありませんでした・・・甘い)
結局、よくわからないままに関守口」方向に進んでみました。




しばらく進むと「関守口登山口」の標識(思いっきりぶれた写真で失礼)




その傍らには先ほどの分岐点にあったものと同じ案内板があります
しかし、ここは徒歩での登山口ですので更に車を進めました。
林道程度の道が続きますが、一面に草が繁茂する道です。その草も車の窓下くらいまで伸びていました。
進むには進めそうなのですが、最近、車が通ったような痕跡がありません。不安がよぎって来ました。
すでに気持ちは城攻めどころではなくなり、車を回転できる適当な場所を探して、来た道を戻って来た次第です。

ということで、見事に城攻めは断念。つまり、失敗に終えました。何回かに1回はこんなことがあります。
きちんと下調べをしておかないからだと言われれば確かにその通りです。

五覧田城址の再攻城は今のところ全く考えておりません。できる状態でもありませんし・・・

攻城(失敗)日:2011年(平成23年)10月29日(土)

一乗谷の船着き場

2017年09月20日 | 城館雑記


本日の読売新聞の記事です。
一乗谷朝倉氏遺跡は、「一乗谷城」の名称で日本100名城に選定されています。一乗谷城は、戦国大名
朝倉氏の館だけでなく城下町と4つの山城を含む縄張りを指すとのことで、山城部分城下町部分からなり
広範囲な城跡のようです。そして、今回新たな発見。

自身、数年前にこの一乗谷城のある福井市を訪れましたが、旅行日程・時間の都合で一乗谷城を予定に組
み入れなかった残念な思いをしたと今でも悔いています・・・

難波田城跡(埼玉県富士見市)

2017年09月19日 | 100名城以外の城館跡


城 名:難波田城(なんばたじょう)  
別 名:-
形 態:平城
指 定:県指定旧跡(昭和36年(1961)9月1日指定・指定名称は難波田氏館跡)
所在地:埼玉県富士見市下南畑

難波田氏の歴史と難波田城
平安時代の終わり頃から、武蔵国には「武蔵七党」と呼ばれる武士団が活躍していました。その一つの村山党の中心に金子氏がいました。
金子小太郎高範は、鎌倉時代の承久の乱に参戦して討ち死にしました。その恩賞として幕府から、高範の子孫に難波田(南畑)の地が与えら
れ、その子孫が「難波田氏」を名乗るようになりました。
南北朝時代には、羽袮蔵合戦で高麗経澄の軍勢と戦って敗れましたが、戦国時代になると難波田弾正善銀が扇谷上杉氏の重臣として活躍し
ました。しかし、天文15年(1546)の河越夜戦で北条氏と戦い、敗れて討ち死にしました。その後、難波田氏一族は北条氏の家臣と
なり、難波田の土地は北条氏の家臣上田氏が支配しました。しかし、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたために難波田城は廃城となりました。
難波田城は江戸時代に作られた絵図などに描かれています。城は最初小さなものでしたが、戦国時代に難波田弾正善銀が活躍する頃に、大
規模に改造されたと考えられます。江戸時代には、城跡に修験寺院の十玉院が建てられました。         (現地案内板より)




難波田城は、中世に富士見市内を本拠として活躍した難波田氏の居城跡です。昭和36年に埼玉県旧跡に指定されました。荒川低地の一角
に築かれた平城で、規模は50,000㎡以上と推定されています。
難波田城公園は、この貴重な文化遺産を保存し、活用するために平成9年度から3カ年をかけて整備したものです。園内には、難波田城資
料館や城跡を復原した「城跡ゾーン」、市内の古民家を移築した「古民家ゾーン」があり、富士見市の歴史や文化を肌で感じることができ
ます。                                         (難波田城公園パンフレットより)




追手門(模擬)




冠木門の東門




本城橋と冠木門の本城門
本城門の先が「本城」(曲輪1)であり、往時は広かったようですが、現在は大半が住宅地となってしまい僅かに残る程度です




本城跡に建てられている「難波田氏館趾」碑




難波田氏館趾碑と並んである「難波田直治郎の墓」
一緒に撮れなかったので別々に撮りました




土塁と水堀 位置は失念(以下同じ)




土塁と水堀




土塁と水堀  横矢をかけられる構造の土塁




復原木橋




復原木橋と水堀




食い違い小口

この難波田城公園を訪ねたのはやはり8年前のことで、その時の写真です。古民家の写真も何枚か撮るには撮ったのですが、城跡部分のみの掲載
としました。実はこれ以前にも訪ねたことがあったのですが、着いたときは開園時間を過ぎていて見学には至りませんでした。一応、入り口の写
真だけを撮ってきた記憶がありますが、今となってはいつのことかわかりません。また、これ以降にも訪ねていますが、感動はありませんでした。
古地図に基づいて復原されたようではありますが、あまりにも公園化されており、所謂、城跡の雰囲気が感じられませんでした(私的感想です)

攻城日:2009年(平成21年)11月22日(日)