四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

国指定史跡保渡田古墳群 保渡田薬師塚古墳

2024年06月29日 | 古墳

群馬県高崎市保渡田町・井出町に所在し、三基の古墳で構成する国指定史跡保渡田古墳群の中で最も北に
位置し、築造年代が一番新しいのが薬師塚古墳です。
元々は大型の前方後円墳でしたが、保存・整備が行き届かなかったようですし、、後円部東側は墓地にな
っていたり、前方部南側には西光寺が建っており、かなり変形しています。

上の写真は古墳北側の模様で、左側が後円部、右側が前方部ですが、この道路自体が墳丘の一部で
あった場所です。

名 称:薬師塚古墳(やくしづかこふん)
別 称:保渡田薬師塚古墳・上郊村1号古墳
墳 形:前方後円墳 墳丘部が三段築成
規 模:墳丘長約105m、後円部径約66m、高さ6m・前方部幅72m、高さ7m。
    二重周溝、河原石による葺石が施されている
築 造:5世紀後半
出土品:小型の国産鏡・装身具の各種玉類・馬具類など
指 定:国指定史跡(名称:保渡田古墳群・薬師塚古墳 昭和60年〔1985〕9月3日指定)
所在地:群馬県高崎市井出町字薬師前1872(旧・群馬郡群馬町)



西側の模様  ここも前方部の一部が消滅しています


西光寺本堂 この裏手に前方部が展開しているようです


『保渡田薬師塚古墳』説明板と『上野国保渡田薬師塚古墳出土品』標柱


『保渡田薬師塚古墳』説明板
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国指定史跡
 保渡田薬師塚古墳
          指定年月日 昭和60年9月3日
国指定重要文化財
 上野国保渡田薬師塚古墳出土品
          指定年月日 昭和14年9月8日
 この古墳は前方後円墳でかなり変形を受けているが、発掘調査の結果では三段に築かれ、斜面には石垣
をふき平坦部には円筒埴輪を巡らすことが判明した。全長 165 m、高さ 6 mで、周囲は二重に堀を巡らし、
堀を含めた全長は 165 mを測る。 保渡田古墳群の中で最後に造られ、5 世紀末~6 世紀初頭の年代が推定
される。後円部頂上には凝灰岩をくりぬいた舟形石棺があり、出土品は江戸時代にこの中から発見された
伝承がある。出土品には小型の国産鏡・装身具の各種玉類・儀式の際に馬を飾る馬具類があり、中でも馬
具は二例を除き鋳造品で、国内に類例のない特殊なものといえる。
  平成15年3月30日
                              群馬町教育委員会

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薬師堂・舟形石棺がある後円部への石段を上がって


薬師堂 薬師堂の右前に舟形石棺を保管(保護)している覆屋があります


舟形石棺 前か後ろかは不明です 中央あたりに縄掛突起があります


側面  やはり側面にも縄掛突起が二カ所あります


薬師堂の左方の草むらが前方部のようですが、削り取られたりでだいぶ変形しているようです。
今回はここを見て終わりとしました。


散策日:令和6年(2024)6月24日(月)

国指定史跡保渡田古墳群 井出二子山古墳

2024年06月27日 | 古墳

群馬県高崎市保渡田町・井出町(旧・群馬郡群馬町)に所在する国指定史跡保渡田古墳群を訪ねてきま
した。
保渡田古墳群は、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の3基からなります。このうちの一つである
  二子山古墳(別称:井出二子山古墳)
は、5世紀後半に築造された大きな前方後円墳で、これら3基の中で一番古いものです。
なお、この古墳群一帯は「上毛野はにわの里公園」となっており、園内には「かみつけの里博物館」が
あり、この日も一般客のほかにも小学生が観光バスで訪れていました。


名 称:二子山古墳(ふたごやまこふん)
別 称:井出二子山古墳・愛宕塚古墳
墳 形:前方後円墳 墳丘部が三段築成
規 模:墳丘長108m、後円部径74m、高さ10m・前方部幅71m、高さ7m。
    周溝は馬蹄形で二重に造られ中島を4基配置。墳丘・中島・中低部とも河原石で葺石としている
    円筒埴輪列を巡らしている。埋葬施設:小竪穴式石室
築 造:5世紀第3四半期
出土品:円筒埴輪や象形埴輪
指 定:国指定史跡(名称:保渡田古墳群・二子山古墳 昭和60年〔1985〕9月3日指定)
所在地:群馬県高崎市井出町1403(旧・群馬郡群馬町)



二子山古墳を北東から後円部を


「二子山古墳」碑の裏側 外堤上に設置されている「史跡保渡田古墳群 二子山古墳」説明板


二子山古墳の模型(ジオラマ)


外堤北東から二子山古墳の後円部を


まずは後円部に上ります


後円部  石室・石棺の状況が陶板の書割で表現されています


『豪族の館ー舟形石棺』札明板


『石棺尾姿』説明板


『棺の中には何があったか?』説明板


実物大の石室・石棺陶板の書割り  この1m地中に実物の石棺が保存されている


後円部上から登ってきた道を振り返って


『中島』


後円部から前方部を


前方部


前方部から後円部を


くびれ部分にある階段を矢印のように降りてきました。
墳丘中段の平坦部◎印のあたりに、『埴輪列と埴輪の立て直し』説明板と倒れて壊れた埴輪のレプリカが
あったようですが、見ての通りの草ぼうぼうのうえ、膝をかばって階段を下りるのに精一杯であったため
見落としました。



『三段に築かれた墳丘』説明板


『中島』説明板


北西から墳丘を  左:後円部  右:前方部  中央左寄りに『中島』


外堤西方から墳丘を  左:後円部  右:前方部


南西から前方部を


南東から墳丘を  左:前方部  右:後円部 


南方から後円部を
季節柄墳丘も内堀・外堀も草が繁茂していて、三段の墳丘もその境目がはっきりしませんでした。内堀・
外堀はコスモス畑になっていて秋にはたくさんのコスモスが咲くようです。



『二子山古墳西側の墓域と極小石槨墓』説明板

散策日:令和6年(2024)6月24日(月)

国指定史跡保渡田古墳群 保渡田八幡塚古墳

2024年06月25日 | 古墳

群馬県高崎市保渡田町・井出町(旧・群馬郡群馬町)に所在する国指定史跡保渡田古墳群を訪ねてきまし
た。
保渡田古墳群は、二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の3基の古墳からなります。このうちの一つである
  八幡塚古墳(別称:保渡田八幡塚古墳・上郊村2号古墳  所在地:保渡田町2000-1)
は、5世紀後半に築造された大きな前方後円墳で、これら3基の中では2番目に古いものです。
発掘調査の結果に基づいて、造営された当時の形に復元されたものですが、墳丘全体を覆う葺石と6000基
におよぶ埴輪の列は圧巻です。
詳細は下記の『史跡史跡保渡田古墳群 八幡塚古』説明版を参考にして下さい。
なお、この古墳群一帯は「上毛野はにわの里公園」となっており、園内には「かみつけの里博物館」があ
り、この日も一般客のほかにも小学生が観光バスで訪れていました。



南東から八幡塚古墳墳丘を


『史跡史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳』説明板
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  史跡保渡田古墳群 八幡塚古墳  

 八幡塚古墳は、国指定史跡保渡田古墳群(二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳)の一つで、1500年前
(5世紀後半)に築かれた前方後円墳である。墳丘は全長96mで、周囲には二重の堀(内掘・外堀)と墓
域の境を示す溝(外周溝)が巡り、墓域の長さは約190mに及ぶ。
 内提の2ヶ所(A区・B区)からは、かつて、大量の人物・動物埴輪が発見され、埴輪研究史上よく知
られた古墳である。墳頂部には、豪族の遺体を収めた舟形石棺が存在する。
 当時、群馬県地域(上野毛)は国内でも有力な地域であった。榛名山東南麓一帯を治めたこの古墳の被
葬者は、5世紀後半頃上毛野各地に勢力を持った豪族達の中でも、代表的な人物であったと考えられる。
 本古墳は、史跡公園計画のもと5カ年にわたる発掘調査を行い、その成果を基に大きく破壊された古墳上
に保存用の土を厚く盛って、造られた時の姿に復元された。
 なお、この古墳に関する情報・遺物は南側300mにある「かみつけの里博物館」に展示されている。

昭和60年9月3日指定                       文部省
平成12年2月27日設置                      群馬県教育委員会
                                群馬町教育委員会

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※図のように八幡塚古墳は後円部は北北西を向いていますが、便宜上、後円部を北側、前方部を南側とし
て説明させていただきます。



南東から墳丘全体を


外周溝(南側)


外周溝と外堤(東側)


外堤と盾持ち人埴輪


内堤の上の『人物・動物埴輪群像』


上掲『人物・動物埴輪群像』(A区形象埴輪配列区) 説明板


内堀(南側)


『墳丘と葺石』説明板


前方部(東側)


前方部三段築成(東側)2段目の埴輪列


内堀(東側)にある『中島』 後円部を囲むようにある4つの中島の内のひとつ


後円部


前方部から後円部


後円部から前方部


後円部墳頂
八幡塚古墳石棺展示室見学用の階段があります 左が入り口 右が出口



階段を下りて石棺展示室へ


舟形石棺


東側から後円部を


『中島』説明板
この古墳の内堀の中には4カ所の中島が造られた。内堀を掘った時に島の部分だけを残し、若干の盛土をして2段に整え
られた。回りには円筒埴輪が巡らされ、埦などの土器が多数出土した。
中島の性格は、①古墳における祭祀の場
       ②近親者や従者の埋葬施設(陪塚)
などが考えられるが、いまだ明らかになっていない。



後円部北側から


円筒埴輪列と中島


内堀西側の中島


北西から墳丘全体を 手前:後円部  奥:前方部


『人物・動物埴輪群像』(B区形象埴輪配列区)  墳丘の西側にあたります


南西から


南西から見た墳丘と南側内堤の円筒埴輪列

取りあえず猛暑のもとで八幡塚古墳を一周しましたが、まだ帰れません・・・


散策日:令和6年(2024)6月24日(月)


三ヶ尻古墳群・やねや塚古墳

2024年06月24日 | 古墳

熊谷市三ヶ尻にあるの観音山の南西に移築復元されている「やねや塚古墳」を見学してきました。
三ヶ尻古墳群は、三ヶ尻地区の櫛挽台地上に所在する古墳時代後期の古墳群で、古墳は、観音山の北側の
台地内側を中心に分布し、前方後円墳の2基以外は全て円墳です。かつては100基以上の古墳が所在したと
考えられようですが、削平を受けた古墳や、消滅してしまった古墳も多く現在は50数基が残るのみのよう
です。
「やねや塚古墳」という名称は、三ヶ尻林遺跡4号墳の別称とのことですが、この「やねや塚」の由来は
不明です。
やねや塚古墳は、直径23m、高さ3m、全長5.85mの横穴式石室をもつ円墳ですが、上越新幹線建設工事
に先立つて発掘調査し、その後。現在の場所に移築復元されたものです。



河原石で囲まれた円墳の裾部分
墳丘周囲をコンクリート柱と鎖で囲っていますが、だいぶ倒れかけています。
元の墳丘の高さは3mあったようですが、移築復元では石室の高さくらいまでしか復元されておりません。



南側から


北側から墳丘と石室を


石室上に板石が1枚だけ置かれていますが、石室の天井板を想定したものでしょう


南方の国道14号(彩甲斐街道)バイパスの歩道からやねや塚古墳(移築)を見る。
中央の窪んだ部分に移築されている。右側が三ヶ尻観音山。
ガードレール内側の右端に山積みになっている河原石は移築に使われなかった葺石の残りか?


散策日:令和6年(2024)6月23日(日)

中宿歴史公園の原始蓮

2024年06月23日 | 花・鳥・風景

深谷市岡地内にある「道の駅おかべ」の道向かいの「中宿歴史公園」『原始蓮』を見てきました。
「道の駅おかべ」・「中宿歴史公園」へは何度も行っており、原始蓮の蓮池については知っているところ
でしたが、咲いているを見たのは初めてでした。
この中宿歴史公園には、奈良時代~平安時代の榛澤郡の正倉に使われた大規模な倉庫群跡(中宿遺跡)が
あり、「中宿古代倉庫群跡」として埼玉県指定史跡に指定されています(指定年月日:平成3年12月6日)



『原始蓮』説明板
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  原 始 蓮
原始蓮は千四百年から三千年くらい前のハスの一種とされている。大阪府下に自生していた地バス系統のもので
稲田清吉氏らが東大阪市菩提寺七軒家に保存していた本種に、植物学者の故大賀一郎博士が原始的な蓮として、
その名前がつけられました。大阪府の天然記念物に指定されている。
原始蓮は日本の文献に初めてハスのことが書かれたのは七一二年の古事記。『古事記』の赤猪子の悲恋物語に登
場するハスを原始蓮の本種とみる説があります。
この貴重な蓮を、中宿歴史公園に植栽することによって公園の存在感を大きくする。
中宿遺跡は奈良時代を中心とする大規模建造物群・倉庫群跡が発見され正倉と考えられる。古代倉庫群のうち、
最も規模の大きい校倉造りと板倉造りの復元を一九九六年に完成しました。
これに合わせ後年内の池に原始蓮を植栽したことにより、古代の歴史を想像してげんだいに再現して太古の彩り
に想いはせる。

                                        深谷市
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左:板倉造りの復元建物  右:校倉造りの復元建物

散策日:令和6年(2024)6月23日(日)

飯能市立博物館「令和6年度 埋蔵文化財最新出土品展」

2024年06月17日 | 企画展・見学会

飯能市立博物館(飯能市飯能258‐1)で開催中の
令和6年度 埋蔵文化財最新出土品展
 期間:令和6年5月26日(日曜日)から令和6年6月23日(日曜日)まで
 場所:飯能市立博物館特別展示室
 主催:飯能市教育委員会生涯学習課

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令和4年度・5年度に飯能市内で発掘調査を実施した遺跡、発掘調査報告書を刊行した遺跡からの出土品を展示
します。
縄文土器や石器、奈良・平安時代の住居跡から出土した、焼けて炭化した木製の部材などに加え、市民の方より
ご寄贈いただいた、貴重な資料を紹介します。
飯能市内における最新の調査成果や出土品をぜひご覧ください。

                   《令和6年度 埋蔵文化財最新出土品出土品展ポスターから引用》
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を観覧してきました。


【特別展示室】
展示資料は次の遺跡等からの出土品
◆寄贈資料の紹介
◆令和4・5年度 発掘調査の成果
 ・三ヶ谷戸遺跡
 ・堂前遺跡
 ・中堂遺跡
 ・加能里遺跡
◆令和4・5年度 室内調査の成果
 ・飯能焼原窯跡
◆令和5年度 報告書の成果
 ・張摩久保遺跡
 ・芳ヶ谷遺跡
これらの中から特異な出土品を中心に何点か紹介させていただきます。



会場に入ってすぐの左側に寄贈資料  右側の壁面には各遺跡発掘調査時の写真と説明文


『寄贈資料の紹介』
民家に祀られていた謎の石
 大字岩沢地内にあった民家の社で祀られていたものです。いつ頃から祀られていたのかは不明ですが、
少なくとも明治時代にはこのような形で存在していたようです。(以下略)
石棒ってなに?
 石棒は、縄文時代の石器です。その形状は男性器を模していると考えられており、女性をかたちどった
土偶などと同じように、子孫の繁栄や豊かな実りを祈ったり、祭礼儀式に使用されたりしたのではないか
と言われています。(以下略)



寄贈資料 【大形石棒】 大字岩沢の民家の社に祀られていた縄文時代の大形石棒。全長140㎝


寄贈資料 【大型石棒片・石剣類】


寄贈資料 【磨石】 【磨製石斧】(右下)


『加能里遺跡』 ※以下の遺跡においてもこのような遺跡説明パネルがありますが省略します


加能里遺跡出土
【石棒】縄文時代(中期末~後期初頭)緑泥片岩製  【凹み石】縄文時代(中期末~後期初頭) 



加能里遺跡出土
【磨り石・叩き石】縄文時代(後期後半~晩期)  【石皿】縄文時代(後期後半~晩期)  
【凹み石】縄文時代(後期後半)  【石錘】縄文時代(後期後半~晩期) 



加能里遺跡出土  【土偶(頭部破片)】


『三ヶ谷戸遺跡』出土品の展示コーナー(ケース)


三ヶ谷戸遺跡出土  左から【凹み石】 【磨石】 【スタンプ形石器】


『中堂遺跡』(左) ・ 『堂前遺跡』(右)  出土品の展示コーナー(ケース)


堂前遺跡出土  【人面形把手付土器】 【石棒形ミニチュア土製品】 【耳栓】


中堂遺跡出土  【石鏃】【石鏃】縄文時代(中期後半) 【黒曜石・チャート】縄文時代(中期後半) 


中堂遺跡出土 
【凹石】縄文時代(中期後半)【磨り石・叩き石】縄文時代(中期後半)【石皿】縄文時代(中期後半)



展示室の模様(一部)


『飯能焼原窯跡』出土品の展示コーナー(ケース)


『張摩久保遺跡』出土品の展示コーナー(ケース)の一部
張摩久保遺跡出土  【炉体土器】縄文時代(中期初頭)



張摩久保遺跡出土  【土製耳飾り】縄文時代(中期初頭) 【土器片】縄文時代(中期初頭)
【粘土焼成塊】縄文時代(中期初頭) 【結晶片岩】縄文時代(中期初頭)



『張摩久保遺跡』出土品の展示コーナー(ケース) ※ケース右半分  須恵器 土師器
ケース左半分の炭化材は『芳ヶ谷遺跡』分?



『芳ヶ谷遺跡』炭化材


左側の芳ヶ谷遺跡出土【須恵器甕】9世紀前半)が最終展示品

観覧日:令和6年(2024)6月16日(日)

今年が最後の「ときがわ花菖蒲まつり」

2024年06月15日 | 花・鳥・風景

今年の第22回が最後となる比企郡ときがわ町の「ときがわ花菖蒲まつり」に行ってきました。
メインは2日間 そのうちの15日を選んででした。6月3日には下見に行きましたが。
玉川町役場(当時)の西側にある約7千平方メートルの遊休農地を活用しようと、25年ほど前の平成12年
(2000)から、地元玉川村の有志でつくる「花菖蒲を育てる会」が花菖蒲の植え付けを始めたもので、木
製の遊歩道(木道)も設けられて、すぐ隣を流れる都幾川の風景と相まって玉川村の新しい名所(ハナシ
ョウブの名所)となりました。その後、都幾川村との合併により「ときがわ町」となったことから「たま
がわ花菖蒲園」・「たまがわ花菖蒲まつり」から「ときがわ花菖蒲園」・「ときがわ花菖蒲まつり」と改
称され今日まで続いてきましたが、育てる会の会員減少や高齢化で今年をもって「藩菖蒲まつり」は終え
るとのことですが、これからはいろいろな花を植え育てていく予定とのことです。
長い間楽しませていただきありがとうございました。



入園料(協力金100円以上)は右側のテントで






ときがわ花菖蒲園の西側を流れる都幾川


























怪獣が2頭が津軽三味線演奏と和太鼓演奏の応援に来ていました 怪獣は園内に全部で5頭いました


秩父郡長瀞町を拠点に活動している「津軽三味線勇弦会」の皆さんの演奏


地元ときがわ町の和太鼓チームの演奏


今年が最後の「ときがわ花菖蒲まつり」を伝える地域情報紙【埼北よみうり】


平成20年(2008)の「花菖蒲まつり」に訪れた際の写真(6月8日撮影)です。
玉川村と都幾川村が合併して「ときがわ町」になったのは平成18年(2006)2月1日で、この時から2年が
経過していましたが、まだ「たまがわ花菖蒲園」・「たまがわ花菖蒲まつり」の名称でした。ときがわ町
となったとはいえ、元玉川村の方たちが始めた事業ですからおいそれと改称するわけにはいかなかったの
かと勝手に解釈していました。



上の写真と同じ日の撮影です。木製遊歩道(木道)と沢山の花菖蒲です。見物客も凄い数でした。


平成22年(2010)の「花菖蒲まつり」に訪れた際の写真(6月6日撮影)です。
この年から「ときがわ花菖蒲園」・「ときがわ花菖蒲まつり」となり看板もパンフレットも新しく「とき
がわ花菖蒲園」となりました。(パンフレットはここ数年配布しておりません)

この後の令和元年(2019)10月の台風19号の影響で木製遊歩道(木道)が流失してしまいましたが、費用
等の関係から再建は叶わずにいました。
翌令和2年(2020)と令和3年(2021)の2年はコロナ禍のため「ときがわ花菖蒲まつり」は中止ななりま
した。


散策日:令和6年(2024)6月15日(土)

別府沼公園の花菖蒲

2024年06月12日 | 花・鳥・風景

「別府沼公園」(熊谷市西別府)の『花菖蒲まつり』に行ってきました。
花菖蒲まつりと言っても特別なイベントがあったわけではなく、幟が立っているだけでしたが・・・
あまりの天気のよさに花はだいぶ萎れていました。
以前も書いた事がありますが、別府沼公園のすぐそばに、熊谷市戸深谷市にまたがる国指定史跡「幡羅官
衙遺跡群」があります。また、映画「のぼうの城」で有名になった忍城(行田市)の城主成田氏の家祖で
ある成田助隆の次男行隆がここ別府に住み別府氏を名乗りました。息子の代に東別府氏と西別府氏に分か
れましたが、そんな別府氏関連の城館跡や寺院がこの別府地域あることから付近には何度も訪れました。
















散策日:令和6年(2024)6月11日(火)

あじさい寺「能護寺」

2024年06月11日 | 花・鳥・風景

あじさい寺として知られる熊谷市永井太田の「能護寺」に今年も行ってきました。
しっとりと雨に濡れたあじさいをと思うも汗をかく暑さでしたが各地から見物客が訪れていました。
開花期間は有料となり、今年は6月5日(水)から有料になったようです。
なぜか今年は花の量が少なく、彩りも若干少なく感じました。何度も行っていて見慣れてしまったためで
しょうか?



能護寺は高野山真言宗の寺院で山号を能満山と号します。
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   能護寺の歴史
能護寺は天平15年(743)、行基により開基。のちに空海により再興されたと伝えられている。現存する本堂は文化11年
(1814)の再建、今に至る。内陣には金剛界大日如来を安置。内陣格天井の十六羅漢は金井烏。外陣に岩崎榮益、樋口春
翠、田島益山、樋口春翆、栄春らによる花鳥獣画が描かれています。
虚空蔵堂には御本尊に虚空蔵菩薩が安置され、丑、寅年の守り本尊、十三詣りの仏様として信仰を集めています。
また、鐘楼堂は明治35年に再建。梵鐘は元禄14年(1701)に鋳造されたものです。また、令和元年~令和2年に屋根瓦の
葺き替え等の修復を行いました。                           《入山券裏面から》

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散策日:令和6年(2024)6月11日(火)

岡部とうもろこし祭り2024

2024年06月09日 | まつり・イベント

「道の駅おかべ」(深谷市岡・旧岡部町)で6月8日(土)・9日(日)の2日間
  岡部とうもろこし祭り2024 『袋と炭を支度して収穫しろ!』
を開催とのことから二日目の本日行ってきました。
「道の駅おかべ」に向かう途中の畑はとうもろこし畑だらけ。駐車場も臨時駐車場が設けられるほどで、
普段にも増した沢山の方が訪れていました。
深谷市(主に旧岡部町)名産の『味来』の焼きとうもろこし、袋入り(11本入り)の販売があり、袋入り
については道の駅に着いたときは山盛りになってあったのですが午前10時少し前には完売してしまいまし
た。
※焼きとうもろこし 1本 350円(3本1000円)  袋入り 1袋 2000円(税込み)で昨年よりだいぶ値
上がりしていました



焼とうもろこしを求める人の長い列 この後ろに更に続いています


焼いても焼いても追いつきません


家族でテーブルに座ってた食べている姿も
赤いパイロンのあるところが袋入りの並び場所ですが、すでに完売



やっとゲットした焼とうもろこし・・・


「道の駅おかべ」に行く度に食べてくる「深谷 ねぎフライ」   これを食べたくなって行くことも


深谷 ねぎフライ

この他「冷凍コーンスープ」(¥350)を飲みたくて列に並んでいたのですが、並んでいる途中で売り切
れになり 残念!


散策日:令和6年(2024)6月9日(日)