四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

鉢形城 ②(埼玉県寄居町)

2018年05月29日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 鉢形城跡



鉢形城外曲輪東小口から本曲輪門跡と推定される場所までのルートを「日常の大手筋」と考えられるということを本年3月に
開催された講演会「謎解き鉢形城」でお聞きしました。また、梅沢多久夫氏著「埼玉の城127城の歴史と縄張」の中の鉢形
城跡の項でも詳しく解説されています。今回そのそのルートを歩いてみました。




説明の補足のため、鉢形城歴史館構内に設置の「鉢形城跡曲輪配置図」(抜粋)に記号・名称を加筆してみました。




木持地区地点Aから外曲輪東小口への道筋を




喰い違い小口で、土塁が喰い違いに置かれている  地点B
向って左側の土塁ははっきりしているが右側の土塁は削平されたのか見当たらなかった配置図にはあるので見落とし?




小口郭跡と堀切




小口郭脇を深沢川方向に下ります  地点C




深沢川への道も喰い違いになっています




下りてきた道を振り返って見ています




深沢川に架かる橋  地点D




民家が建っている平場が「兵糧蔵跡」(伝承)  橋を渡ると今度は緩い上り坂となります




2番目の小口  地点E




土塁①と腰郭の間の掘り割り状の小口  兵糧蔵跡にある民家への自動車進入路となっていることから小口を削って幅を広げ
た可能性もあります。
小口側面高さ約1mに石積跡が見られます  この石積は鉢形城の他の場所で見られる石積跡と同様なもののようです




石積跡 腰郭側




石積跡 土塁①側




小口内側 左側の腰郭が地点Fの腰郭




小口内側から兵糧蔵跡方向を




更に広範囲に見ています




地点Fの腰郭は広大な内桝形郭となっています




内桝形郭を逆方向から




小口内側全体を




この道を登り切った所が本曲輪門跡と推定されているようです




ここが本曲輪門跡と推定される場所
上の道を左に行くと大手へ 右に行くと本曲輪跡を経て笹曲輪、搦手口方向へ




土塁①に咲いていた野アザミ  そう、カタクリが群生するあの土塁です

以上はあくまでも「考えられる」ということであり、断定しているわけではありません。

散策日:平成30年(2018)5月8日(火)

鉢形城 ①(埼玉県寄居町)

2018年05月27日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 鉢形城跡



国指定史跡にして日本100名城のひとつである鉢形城は、その城域が広く曲輪を一通り見て歩くだけでも相当の時間を要し
ます。そんなことから、各曲輪を細かく見て歩くことはほとんどありませんでした。
今回は、特定の場所について少し詳しく見て歩いてみました。その対象としたのは『伝御殿曲輪』跡です。
伝御殿曲輪は、道路で分断された本曲輪の西側部分で、道路東側部分は「伝御殿下曲輪」となっており、現在はシルバー人材
センターとなっていることから城跡探訪として歩くことはありません。
本曲輪は、北条氏邦が入城する前、つまり、長尾景春、或いはその後の上杉顕定のころの曲輪とされています(入城後の氏邦
が手を加えて改修しているかもしれませんが)
伝御殿曲輪は4区画になっており、南から北に向かって順次傾斜しています。梅沢太久夫氏(元埼玉県立歴史資料館長)は同
氏の著書【埼玉の城127城の歴史と縄張】で、これを1区・2区・3区・4区と仮称していますので、この仮称を使わせて
いただきます。




鉢形城歴史館構内に設置の「鉢形城跡曲輪配置図」の一部を抜粋、当該部分に加筆してみました




『伝御殿曲輪』跡 北側から撮影しましたが全体を入れるのは無理でした




『伝御殿曲輪』跡 南端部




伝御殿曲輪1区の南側の土塁上から  西南隅の一番高い部分は櫓台跡 高さは4mほど  
手前の窪地が井戸跡と考えられています




井戸跡と考えられる窪地は径5m程の円形




土塁上から見てみました




下から見るとこんな感じです  右側の高い所が櫓台跡




1区から2区を見ています  1区と2区の段差がよくわかります




写真中央部が低地になっていますが池跡ではと考えられる場所です




丁度、田山花袋碑の裏側に当ります




2区の西半分程が低地になっています  段差の向こうが1区




東方から見ています




伝御殿曲輪で一番広い3区です  石積が帯状に延びて繋がっています
この遺構は最近、浅野晴樹氏(埼玉県立嵐山史跡の博物館学芸員)が気付いた遺構で、同氏はここに園地空間が築かれていた
可能性が高いと指摘しています。
実はこの話については本年2月に開催された同氏の講座「中世遺蹟を地名からみる」でもお話しされていました。また3月に
開催された講演会「謎解き鉢形城」において、梅沢太久夫氏が浅野晴樹氏のこの発見についても話されていますし、著書【埼
玉の城127城の歴史と縄張】にも紹介されています。
そんなことからこれらを含めて伝御殿曲輪を見て歩きたいと考えた次第です。




同じく石積の一部です




同上




鉢形城本丸址標柱の背後から帯状の石積を見ています  切り株に沿って見えるのが帯状の石積




伝御殿曲輪跡は何度か歩いていますが、ただ歩いたというだけで石積にも1区の井戸跡と思われる窪地 2区の池跡ではと考
えられるという低地を気に留めるということはありませんでした。いや気付いてさえもいなかったかもしれません。




3区北端から南方の2区・1区方向を見ています




土塁の上から荒川と玉淀河原を望みます  玉淀河原では「寄居北條まつり」の設営が始まっていました
※寄居北條まつりは、この散策日から5日後の13日(日)に行われました




桝形小口を挟んで北側にある4区




桝形小口




桝形小口脇の切岸  

この記事を書くために3月以降3度伝御殿曲輪跡を訪ねました。しかし、時間帯が遅く写真がよく撮れなかったり、肝心の箇
所を撮ってなかったとかで3度目にしてどうにか使える写真を撮れましたので・・・

散策日:平成30年(2018)5月8日(火)

歴史学者 小和田哲男氏 講演会

2018年05月25日 | 講演会・講座


埼玉県文化財保護協会60周年記念事業として
  平成30年5月24日(木)13:30~15:15
  埼玉会館 小ホール (さいたま市浦和区)
で開催された
  歴史学者 小和田哲男氏 講演会
  テーマ「混沌とした時代の生き方を戦国武将から学ぶ」
を聴講してきました。




会場の埼玉会館




入口には「埼玉県文化財保護協会60周年記念事業」の看板が立てられていました。




受付  参加票を提出しての入場です。
申込者が定員を超えたため、抽選により参加者が決定されました。小和田氏と云えば歴史・城郭好きの方で知らない方はいな
いでしょう。また、大河ドラマの時代考証とうもされておりますから、一般の方でもその名を知る方は多いようです。そんな
ことから抽選になるだろうことは想定内でしたから、参加決定の通知を頂くまでは気が気ではありませんでした。




受付開始は開会の1時間前12時30分でしたが、数分で既にこの状態です。開会少し前にはほぼ満席になっていました。




13時30分からの開会式  埼玉県文化財保護協会会長・埼玉県教育委員会教育長のあいさつ




オープニング  秩父屋台囃子




文化財マップ公開



講演
小和田哲男氏(静岡大学名誉教授・文学博士)
「混沌とした時代の生き方を戦国武将から学ぶ」

1. 埋もれた才能の掘り起こし
      秀吉が信長に抜擢されたのはどうしてか
      適材適所の人事配置

2. ほめる効用
      ほめ上手の武将たち
      論功行賞の厳密性
      多様な評価基準

3. 能力本位の人材抜擢
      譜代門閥からの転換
      行きすぎた競争原理の失敗

4. 諫言が活かされる組織を
      志道広良(毛利元就・隆元家臣)の言葉
      武田信玄の言葉
      黒田長政の釈迦の間の異見会

等について分りやすく講演して下さいました。
講演の写真撮影・録音等は禁止されていましたので講演中の写真はありませんが、すでに知っているお顔ですし、
チラシもありますので。

聴講日:平成30年5月24日(木)

堀越館(埼玉県羽生市)

2018年05月23日 | 100名城以外の城館跡


城 名:堀越館(ほりこしやかた)
別 名:堀越屋敷
形 態:館
時 期:不明
築城主:不明
城 主:不明
遺 構:土塁・空堀
指 定:市指定史跡(伝堀越館跡 平成13年〔2001〕9月26日指定)
現 状:宅地
所在地:埼玉県羽生市藤井上組字本田

堀越館についての記録は存在しない。堀越の家の祖先が代々居住していたことからこの名称が付けられたとのこと。
今は、東側、南側の土塁・堀跡は消滅していますが、元は二重に堀を廻らした方形館であったと推定されています。築城者等
については不明ですが、羽生城に近い位置にあることから、羽生城に関係する人物が候補として名が挙がるが根拠はありませ
ん。
堀越館跡は、だいぶ前に所有者から史跡を保存してほしいとのことで、羽生市に寄付されましたが荒れたままの状態にありま
す。




南方の道路上から堀越館跡のある森を見ています




更に進んでみました




竹藪の前を竹垣で囲っていますが、ここが南側に当ります。




更にその右側(東方)です  車が止まっているあたりに屋敷入口があるようです




囲いの竹垣は朽ちて荒れた状態のままです




ネットが張られた道路(公道)右側の所までが元の所有者(堀越家)の所有地であったようです
道路は外堀跡のようです(不確か)




上記道路入口の左側の藪の中に見える土塁




鋼管やネット等で侵入防止の措置がされ、「許可なく立ち入りを禁止します  羽生市役所 羽生市教育委員会」とある札が
所々に数枚取り付けてあります




柵の上から館跡内を覗いてみましたが、土塁・堀の形を確認するまでに至りません




陽当たりの加減でいくらかは起伏の様子が見えます  右奥の方に家屋の一部が見えますが現在は無住のようです




館跡北西端あたりから道路を南方に見ています  侵入防止対策の柵はよくできていますが・・・




北西角の柵の間から道路と並行に走る(南北に走る)土塁・堀跡を見ていますが、はっきりとは見えません




同じく北西角の柵の間から東西に走る土塁・堀跡を見ていますがほとんどわかりません




北西角から北側の外堀(?)跡を見ていますが、だいぶ浅くなっています




北西角から若干東方に行ったところの北側外堀の状態




道路西側(柵がない側)の北端の土塁




上掲土塁の西側   堀が浅く残っています




館跡の北側にある道路から ①




館跡の北側にある道路から ②




館跡の北側にある道路から ③  館跡の北東隅あたりと思われます

北方ないしは東方、西方から全体を遠景として撮りたかったのですが、残念ながら住宅地化が進んでいて撮れませんでした。

かなりの広さを持つ館跡で中に入れれば土塁や堀跡等の遺構、更には五輪塔(市指定史跡)を見ることができるのでしょうが、
上述の通り入れませんので、道路から見える範囲で見てきただけでした。
所有者より寄付を受けたこの館跡は史跡公園化の予定のようですが全く手付かずの状態です。隣接する某市でもここと同じよ
うに有効利用してくださいと寄贈された城跡を何年も荒れたままにしていますが・・・

散策日:平成30年(2018)4月26日(木)

羽生城(埼玉県羽生市)

2018年05月22日 | 100名城以外の城館跡


城 名:羽生城(はにゅうじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:天文年間初中期 1540年代
築城主:広田直繁・木戸忠朝
城 主:広田直繁、木戸忠朝、中条出羽守、成田長親、大久保忠隣
遺 構:―
指 定:市指定史跡(昭和46年〔1969〕12月5日指定)
現 状:古城天満宮
所在地:埼玉県羽生市東5丁目

「羽生」といえば数年前までは「はぶ」と読む人が多かったようです。でも最近は「はにゅう」と誰も読めるようになったよ
うです。なんと言ってもあのフィバー振りは凄いですからね。無論「はぶ」さんの方も何とか賞を貰ったりして、「羽生」も
「羽生」も大人気。
そんな羽生の城跡に行ってきました。こちらは「はにゅう」です。




羽生城跡の遺構はありませんが、代わりと言っては何ですが古城天満宮境内の道路沿いには説明板や城址碑が並んでいます。
ここには入り切れませんでしたが、幟立ての左側にも一つあります。




風が強く幟が説明板を覆ってしまいますので一瞬のチャンスを狙って




城址碑野右側にあるのは、羽生城の簡単な年表と羽生古城之図の説明板




年表「羽生城のうつりかわり」部分です (これで説明が省けて助かります)




羽生古城之図  
こうした縄張図を見るとここに城があったことが確かに思えるのですが、正直、どこがどこなのか全くわかりません。




天満宮に関わる指定文化財の説明板です。羽生城跡についても簡単ながら城暦が書かれています。
三方を沼地で囲まれた天然の要害であったようですが、現在、周りは住宅街ですので中なk想像が難しいです。




「城橋」と刻まれている石柱  
羽生の町中に「城橋」という名の橋が架かっているそうです。穴が開いているところからすると、これは「城橋」の親柱だっ
たのではないでしょうか。説明がないので何とも言えませんが・・・




幟立ての左方に設置の古城天満宮縁起
ここにも羽生城に関係する記述がみられます。
それにしても平将門の名があちらこちらで登場してきますね。




古城天満宮




同上

散策日:平成30年(2018)4月26日(木)

皿尾城(埼玉県行田市)

2018年05月20日 | 100名城以外の城館跡


城 名:皿尾城(さらおじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:永禄4年(1561)戦国時代
築城主:上杉謙信
城 主:木戸監物入道玄斎忠朝
遺 構:土塁・堀
指 定:―
現 状:久伊豆神社大雷神社合殿
所在地:埼玉県行田市皿尾(旧・行田市)

上杉謙信が忍城の向城として築き、家臣の木戸監物入道玄斎を入れて成田氏を監視させた城とする説、成田氏により忍城の支
城(出城)として築かれたと推定する説、その成田氏の支城を謙信が攻略して再築城し木戸氏を置いた説等もある歴史が今ひ
とつはっきりとしないそんな皿尾城跡を訪ねてみました。




フェンス前に「皿尾城跡」の石碑が建つ農村センターの東側にある久伊豆神社大雷神社のある場所が皿尾城の城域でしょうか?




久伊豆神社大雷神社合殿
皿尾を拠点としていた成田五郎長景が伊豆国三嶋社を勧請して文治4年(1188)に久伊豆社として創建したと伝えられます。
その後大雷神社が合祀された陽ですが、時期は不詳。境内社として生駒神社、神明社など6社があります。




久伊豆神社大雷神社合殿社殿




「久伊豆神社大雷神社」扁額




神社東側にある民家との境に窪みが遺っていまますが堀(水堀)跡ではないかと考えます




社殿の北東角から南方にかけても少し土塁が遺っているのが分ります




社殿背後にある土塁を東方から西方に見ています  
ほとんど痕跡がありませんが、かつては土塁外側(北側)を水堀が流れ、神社東側にある民家との境にある堀に続いていたの
ではないかと考えます。




土塁上を東方から西方に見ています




土塁を西方から東方に見ています




土塁を境内側から見ています




社殿に正対する鳥居とは向きが90度違いますが、この道が参道で、この鳥居が一の鳥居ででしょう。
鳥居前を南北に水路が走っています。




今はU字溝の水路になっていますが、かつては水堀であったと考えます。
右(西方)に向きをを変えた水路は農業用水路に流れ込んでいます。




農民センター東側の水堀  水堀の面影が消えてしまっています
最近、U字溝の水路に変えたようですね。フェンスも新しくなっていますし、コンクリートも打って間もないという感じです。
U字溝のカーブした辺りから西方にかけても堀があった(南側の堀)と推定されていますが、現状は痕跡もありません。




農民センター「ふるさと館」 建て替えたばかりのようですから、これに併せてフェンスや空堀も工事したようです。




参道鳥居前の水路の水も、農民センター「ふるさと館」東側の水路もここに流れ込んでいますが、この水路は堀跡ではなく農
業用水路として設けられたものでしょう。




石碑の裏面に説明文がありました。しかし、この通りフェンスとの間が僅かです。全体を撮ろうとしても網が邪魔します。網
の目の隙間からでは近すぎて一部分しか入りません。仕方なしに上からフラッシュを焚いて撮ってみました。




その結果がこれですがこれ以上のアングルは望めません。、読みづらいうえに判読できない部分が数か所ありましが、下記の
ように記されています。解読に誤りががあるかもしれません。

永禄4年(1561年)上杉謙信輝虎は再参忍を攻め皿尾の地に築城し 木戸監物入道玄斉に守らせたが 成田氏と通じた為 
謙信は怒って城を焼き払うと『北越軍記』等にあるが 今は外張りの地名を残すのみ ここから忍城は谷※沼地たつ
 昭和54年3月            建立 行田ライオンズクラブ  協賛 新井福次




北方からの遠景




北方からの遠景をズームしてみました  神社社殿背後(北側)にある土塁がはっきりと見えます




南方からの遠景  田んぼに水が張られれば水に浮かぶ島といった感じになるでしょうね

散策日:平成30年(2018)4月26日(木)

内藤氏陣屋(埼玉県久喜市)

2018年05月19日 | 100名城以外の城館跡


埼玉県久喜市菖蒲町下栢間(旧菖蒲町)にある「内藤氏陣屋跡」を訪ねて来ました。「栢間」=「かやま」地名の読みは難解
陣屋跡と言っても遺構はなく説明板が建っているだけです。内藤氏陣屋の跡地がこの栢間小学校の敷地になっています。
陣屋の歴史等についてはいつもの手抜きで説明板の写真アップで・・・
この小学校の校庭は広いですね。郊外にあるということもあるのでしょうが、以前、中学校もここにあったそうですから、そ
の分広いようです(先生から聞いた話しです)




内藤氏は、徳川家にとっては三河以来の旧臣で、徳川幕府の創建に大きく貢献した武将の一人であるのにこの石高は少ないの
ではないかと考える方が多いようです。
しかし、家康の伊賀越えに同行した酒井重勝や森川氏俊の2000石に比べれば伊賀越えに同行していない内藤氏は破格の扱いで
す。なお、同行者の中のひとりに内藤新五郎という名が見えますので、これが孫の内藤新五郎忠俊を指すのであれば孫が同行
していたことにはなりますが。




予定にはなかったのですが、説明板の中に内藤氏累代の墓石があると記されていた善宗寺に寄ってみました。




山門を入るとこの光景  まさに絵になっています




山門を入ってすぐの右手にある六地蔵尊




善宗寺の嘉永三年銘宝篋印塔及び宝塔記碑
最初これを目にしたとき、これが内藤氏累代の墓かと思ってしまいましたが、何か違うと思ったらやはり違いました。




何なのかはこの説明板にあります




ここにも六地蔵尊  実は最初に気付いたのはこちらで、山門を入ってすぐの所にあったのは後から気付いたのです




本堂




山号の扁額の文字は「國豊山」とあります

星紋のひとつである「九曜紋」ですが、調べてみたら内藤氏の家紋は「下り藤紋」ですし、善宗寺の宗派は浄土宗で宗紋は、
「 月影杏葉紋 」という紋のようですから、この九曜紋は当寺の寺紋でしょうか。




内藤家歴代の墓所  説明板




22基の宝篋印塔全部が入った写真を撮るのは難しい、かと言って1基づつ撮ってもしようがないので両側からと




反対側から




帰り際に本堂前から山門方向に撮ってみました




菖蒲城趾(菖蒲城趾あやめ園)に移築されている内藤氏陣屋の裏門(伝)

実は内藤氏陣屋跡を訪ねる11日前にたまたまこの前を通り、ちょっとだけ寄ってみたのですが工事中でした。
以前あった萩の垣根もなくなっており、見た目もだいぶ劣化していました。




裏門の移築の経緯が書かれた説明板  読める状態ではありませんね




そこで2009年6月に撮った写真を探し出してみました。これなら読めますね。

内容は陣屋跡の栢間小学校脇に建てられた説明板の内容と同じですが、移築の経緯について次のように記されています。

明治以降、陣屋は廃止解体されましたが、この門は当時名主であった三須家に移築され、今に伝わりました。
このほど三須昭氏のご厚意により、この門が町に寄贈されたことにより、城跡あやめ園に移築したものです。  
  平成十年三月     菖蒲町(久喜市)

散策日:平成30年(2018)4月26日(木) ※菖蒲城址については4月15日(日)

日本一広いポピー畑2018

2018年05月18日 | 花・鳥・風景


「日本で一番広いポピー畑」こと鴻巣市の荒川河川敷の馬室地区にある『ポピー・ハッピースクエア』に4年ぶり
に行ってきました。
5月12日(土)から20日(日)まで、第8回こうのす花まつりを開催中ですが、最終の19日(土)・20日
(日)がポピーまつりとなっています。
訪ねたのはポピーまつりの日程日ではありませんでしたから、イベントはありませんでしたが、沢山の方がポピー
見物に訪れていました。
初めにポピー、次にカリフォルニアポピー(和名・花菱草)・アグロスマンテ(和名・麦なでしこ)。再びポピー
を。最後に、日本一の川幅を誇る県道27号線が通る付近の川幅が、国内最大となる約2537mもある広さ。御
成橋の袂には川幅日本一の標柱が立てられています。この御成橋の上から撮ったポピー畑を載せておきます。












































































































散策日:平成30年(2018)5月17日(木)

大河原氏館(埼玉県坂戸市)

2018年05月16日 | 100名城以外の城館跡


埼玉県坂戸市北峰に所在する「大河原氏館跡」を訪ねてみました。
大河原氏館は、武蔵七党のひとつ児玉党の流れをくむ浅羽城主・浅羽氏の一族で、源朝臣の奥州平定に随陣した
浅羽五郎行長の子大河原行家の居館とされるようです。
ただ、浅羽氏の子がこの地に移り住み在名を氏として名乗ったのであれば、通例からして現在の大字である「北
峰」名乗るの筋と考えられます。このことから、すでに大河原氏を名乗っていた者がこの地に移り住み、その場
所が小字名として「大河原」になったのではと推理することもできると考えている方もあるようです。
大河原氏と云うと私的にはどうしても現在の東秩父村御堂に移住し、在名の大河原郷を氏とした丹党大河原氏が
思い浮かんでしまいます。
その他にも大河原氏を称したものが県内外に存在するようですが、それらの関わりについては分りません。




この木が立ち並ぶところが館跡のようです。
道路の両側が微高地になっていますが、この道路(農道)は堀跡? どこまでが館域だったのでしょうか?




右側の土塁に囲まれた方形部分を館跡と捉えているようです




土塁



逆方向から見ています




館跡は小笹で覆われていますし、外から見るだけでしたので郭内の状況はよくわかりませんでした




櫓台跡のような高まりが見えます

道路(農道)以外の三方は住宅が建ち並ぶという状況に変っていましたので全体の形を把握するには至りません
でした。館跡と言われれば確かにそんな感じはしますが、それ以上の感想はありません。

散策日:平成30年(2018)4月12日(木)

武城(埼玉県桶川市)

2018年05月15日 | 100名城以外の城館跡


城 名:武城(たけじょう)
別 名:―
形 態:館
時 期:不詳
城 主:不詳
遺 構:土塁・空堀
指 定:―
現 状:宅地・山林
所在地:埼玉県桶川市川田谷5819

武城跡は、築城年代・築城者等一切不明であり、字名の武城から命名されたもので、北から南の低地に向かう斜面部に築かれて
いた城館です。城跡の北側の雑木林に土塁が一部残るとのことで訪ねてみました。

武城跡には、市立桶川西中学校の北側300m程の場所にあり、城跡とその東側にある「竹内美容室」との間の細い道(公道)を
入って行けばすぐです。




「竹内美容室」脇の道を北に向かって歩いてきました。
右側(東側)の歩いてきた道路は堀跡のようです。左側(西側)の微高地は郭跡ですが私有地のため道路から見るだけ。




左側の道が竹内美容室の脇からの道で、90度屈折した右側の道が城跡北側に当ります。この道も堀跡?




上掲写真で「空堀」と記した場所にある空堀  東方に延びていますがこのような藪状態ですので先の方は見えません




北東隅から郭内(屋敷林内)を西方に見ています  北側道路よりも高さがあるのが分ります




北側の状況  東方から西方へ




北側の状況  西方から東方へ




郭内(屋敷林内)にある土塁  外からしか見ることができませんのでこれが精一杯です

散策日:平成30年(2018)4月14日(土)