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四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

太平記絵巻 女沼古戦場跡(埼玉県熊谷市)

2022年01月24日 | 古戦場・陣所


『女沼古戦場跡』(めぬまこせんじょうあと) 埼玉県熊谷市大字妻沼字一本木(旧・大里郡妻沼町)
を訪ねてみました。

延元2年/建武4年(1337)12月13日 西上する南朝新田義貞勢の北畠顕家の奥州軍と北朝足利義詮・上杉
憲顕らの鎌倉軍は利根川を隔てて対陣した。新田方に与した北畠顕家配下の斎藤実永・実季兄弟が先陣
を競って、増水した川に馬を乗り入れたが、激流に飲まれて溺死した。この果敢な行動に元気づけれた
奥州軍は一時に利根川を渡り、不意を突かれた鎌倉軍を敗走させ、『女沼の合戦』に勝利したと言いま
す。
斎藤実永・実季兄弟とは、駒王丸(のちの木曽義仲)を助けた斎藤別当実盛の6世孫にあたるそうです。
斎藤別当実盛が加賀国の篠原の戦いで義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られたのが寿永2年(1183)
の事ですから、実に150余年が過ぎてのことです。
この間に、鎌倉幕府の成立と滅亡がありました。鎌倉幕府討幕にともに戦った新田氏と足利氏は鎌倉幕
府滅亡後は敵対する関係になり、この女沼の合戦もそのひとつでしょう。





古戦場跡ですから遺構があるわけではありません。
ただ『太平記絵巻 女沼古戦場跡 斎藤実永 実季利根川の先陣』と書かれた標柱が建つのみです。
民家の後方を利根川が流れています。
さて、それでは先陣はどんな状況だったのでしょうか? ということで絵図を見に・・・




歓喜院(妻沼聖天山)の某建物の壁に掲げてある『利根川の先陣絵図』の複製
現物の『太平記絵巻』は、埼玉県立歴史と民族の博物館に所蔵されているようです。
歓喜院は、斉藤別当実盛が守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守
としたのが始まりとされ、その後の建久8年(1197)、斎藤別当実盛の次男である実長が聖天宮の
別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立したもの。




正月3元日は過ぎましたが、初詣ということで・・・




歓喜院に来たら斎藤別当実盛公に会わずに帰るわけにはいきません。
兜と足の間には注連縄が・・・お正月ですから

散策日:令和4年(2022)1月5日(水)

「いざ鎌倉」の道 笛吹峠(埼玉県鳩山町)

2021年12月19日 | 古戦場・陣所


2022年NHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」には、埼玉県比企地域にゆかりのある比企能員、畠山重忠、源
範頼、木曽義仲、比企尼、丹後局などの武将・人物なども描かれる予定のようです。
比企地域9市町村(東松山市、滑川町、嵐山町、小川町、川島町、鳩山町、吉見町、ときがわ町、東秩父
村)では、この放映を契機として地域の活性化につなげようと、令和2年(2020年)12月に『大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』
を立ち上げ、さまざまな取り組みをしています。
12月に入ってから、【比企一族と武蔵武士 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地】の幟旗やポスター
が立ったり貼られたりするよになり、また、リーフレット「鎌倉殿を支えた 武士の故郷 比企の史跡マ
ップ」
も配布されています。
リーフレットにはアクセスマップ、比企地域の源氏・比企一族関連史跡の写真と説明文が掲載されていま
す(各町村一つの史跡、東松山市のみ二つの史跡)

 ① 小川町  仙覚律師遺跡(県指定・旧跡) ② 嵐山町  菅谷館跡           
 ③ 吉見町  岩殿山安楽寺(吉見観音)   ④ ときがわ町  慈光寺          
 ⑤ 鳩山町  笛吹峠(鎌倉街道上道)    ⑥ 川島町  金剛寺            
 ⑦ 東秩父村 浄蓮寺            ⑧ 滑川町  三門館跡           
 ⑨ 東松山市 扇谷山宗悟寺   巖殿山正法寺         

今回は、このうちの 《⑤鳩山町 笛吹峠(鎌倉街道上道)》を訪ねてみました。  
リーフレットにある説明は次の通りです。
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鳩山町須江と嵐山町将軍澤との間にある峠で、鎌倉街道上道の難所の1つです。鎌倉から上野(群馬県)
に通じる鎌倉街道の要衝にあたり、多くの武士団が行き来しました。鎌倉武士にとってこの道はまさに
「いざ鎌倉」の道だったようです。「史跡笛吹峠」の碑に面した、鎌倉街道と推定される道の東にある山
道は、直線的で掘割状の形状であることから、この道が上道であるとの説もあります。

豆知識:笛吹峠という名前は、正平7年(1352)に新田義貞の子義宗が南朝の宗良親王を奉じて、足利尊氏と戦った武蔵
野合戦に由来します。この戦いに敗れた宗良親王が月明りに誘われて笛を吹いたことが名前の由来と伝えられています。 
 
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笛吹峠の頂上部に建立されている『笛吹峠』の標識版と説明板
この場所は「嵐山町」内です




『笛吹峠』説明板
リーフレットの説明文と同じような内容ですが参考までに転記しておきます。
だいぶ古いものですから、鳩山村になっています。
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    笛 吹 峠
 笛吹峠は、嵐山町と鳩山村の境にある峠である。峠を起点として、坂東十番の岩殿観音から同九番の慈光寺観
音へ続く東西の道は、巡礼街道と呼ばれ、この峠を南北に貫く道が旧鎌倉街道で、かつて、数多くの武士団等が
往き来した所であった。
 正平7年(1352年)閏2月、新田義貞の三男、義宗等が宗良親王を奉じて武蔵野の小手指が原で足利尊氏と戦
ったが、最終的に結末がついたのがこの峠の地であった。新田義宗等は越後に落ちて行き、足利尊氏はこれ以後
関東を完全に制圧していった。
 「笛吹峠」の名称については、この敗退の陣営で、折からの月明りに宗良親王が笛を吹かれたことから命名さ
れたという伝承がある。
 なお、この付近は、遠く奈良時代に窯業の中心として栄え、武蔵国分寺瓦の大部分がこの付近で焼かれ、その
古窯跡が虫草山をはじめ須江・大橋・泉井などの山間部に多く見られる。
 笛吹峠から、はるか北方に上州の山々、西方に秩父連山、南方に広い関東平野が遠望され、風光明媚な歴史の
地である。
                                     埼玉県

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道路に継ぎ目が見えると思いますが、継ぎ目の左側が「嵐山町」、右側が「鳩山町」です。




石碑『史蹟 笛吹峠 埼玉縣』 鳩山町側に建立されています
昭和10年1月 笛吹峠保存會 の建立
史跡とありますが、埼玉県指定史跡ではありません。広い意味での史跡ということでしょう。
なお、嵐山町指定史跡(名称:笛吹峠 昭和37年〔1962〕9月1日指定)となっていますが、当然、
嵐山町分だけです。




かつての鎌倉街道上道のこの峠道の鳩山町側は「笛吹通り」と名付けられています




こちらは嵐山町側は「林道将軍沢線」で、町境が終点です
右側の建物は四阿と御手洗い、道路反対側には駐車場が整備されています
笛吹峠=鳩山町のタイトルに反し、ほぼ嵐山町ですが・・・




御手洗いのここにも【大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地】の幟旗が立っています




嵐山町側にある鎌倉街道上道の古道跡と思われる掘割状の場所
左上の部分が現在の峠道(林道将軍沢線)

『笛吹峠古戦場』 ← 過去記事

散策日:令和3年(2021)12月9日(木)

笛吹峠古戦場(埼玉県嵐山町・鳩山町)

2018年10月30日 | 古戦場・陣所


名 称:笛吹峠古戦場
概 要:正平7年(1352)、新田義宗(新田義貞の三男)と足利尊氏の最終的な決着がついた「笛吹峠の戦い」が行われた場所
指 定:嵐山町指定史跡(名称:笛吹峠 昭和37年〔1962〕9月1日指定)
遺 構:―
所在地:埼玉県比企郡嵐山町・鳩山町

鎌倉街道上道の嵐山町と鳩山町の境にある笛吹峠を訪ねてみました。
何度も行ったり通っている峠ではありますが、今回は、「笛吹峠の戦い」が行われた場所という観点から。




嵐山町側から見る笛吹峠
町境が「林道将軍沢線」の終点




嵐山町側を振り返って
アスファルト舗装で整備されていますが狭い道です。ひっきりなしに車の往来があります。
道路工事をした際に人骨が大量に出土したそうですが、激戦が行われたことを裏付けているようです。




鳩山町側から見る笛吹峠




「史蹟 笛吹峠」石碑




笛吹峠の大きな標識板と説明板




標識板




  笛吹峠
笛吹峠は、嵐山町と鳩山村の境にある峠である。峠を起点として、坂東10番の岩殿観音から同9番の慈光寺観音へ続く東西の
道は、巡礼街道と呼ばれ、この峠を南北に貫く道が旧鎌倉街道で、かつて、数多くの武士団等が往き来した所であった。
正平7年(1352年)閏2月、新田義貞の三男、義宗等が宗良親王を奉じて武蔵野の小手指が原で足利尊氏と戦ったが、最終
的に結末がついたのがこの峠の地であった。新田義宗等は越後に落ちて行き、足利尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった。
「笛吹峠」の名称については、この敗退の陣営で、折からの月明りに宗良親王が笛を吹かれたことから命名されたという伝承が
ある。
なお、この付近は、遠く奈良時代に窯業の中心として栄え、武蔵国分寺瓦の大部分がこの付近で焼かれ、その古窯跡が虫草山を
はじめ須江・大橋・泉井などの山間部に多く見られる。
笛吹峠から、はるか北方に上州の山々、西方に秩父連山、南方に広い関東平野が遠望され、風光明媚な歴史の地である。
                                       埼玉県

関東を舞台とした足利対新田の戦いであるいわゆる「武蔵野合戦」の最終的な合戦が、ここ笛吹峠で行われたとのことす。
説明板にある上州の山々、秩父連山、関東平野は残念ながらちょっと望めない環境になって居ますが・・・




ハイキングコースでもあり、四阿、トイレも整備されています。




鎌倉街道と巡礼街道の交差状況です
南北に走るのが鎌倉街道 東西に走るのが巡礼街道




見る位置を変えて  岩殿観音方向入口から




岩殿観音方向への林道




慈光寺観音方向への林道  今も慈光寺まで続いているのかは確認していませんが




鳩山町側は「笛吹通り」と名付けられています




笛吹通りを下って行くと「至笛吹峠」の標識




「羽黒堂」(はぐれどう)  鳩山町奥田地内で笛吹峠入口に当たる場所あります
昔、お歯黒をつけた大将の首を埋めたとか、また家来とはぐれたために矢で射られた大将の首を埋めたとか色々な伝承があるようで
すが、笛吹峠の合戦とは関係なさそうです。




大橋交差点の少し手前に設置されている「鎌倉街道(上道)のみちすじ}の案内板




〇印した⑧の所が笛吹峠  右下にはイラストも

散策日:平成30年(2018)9月12日(月)

入間川御所(埼玉県狭山市)

2018年10月23日 | 古戦場・陣所


名 称:入間川御所
別 名:入間川御陣、入間川陣城
形 態:陣所
時 期:正平8年/文和2年(1353)
築城主:足利基氏
城 主:足利基氏
遺 構:―
指 定:―
現 状:徳林寺ほか
所在地:埼玉県狭山市入間川2丁目付近

入間川御所とは、正平8年/文和2年(1353)に鎌倉公方足利基氏が武蔵国入間郡入間川に設置した宿営地で、観応の擾乱後に
上杉氏勢力に対抗するため、9年間(12歳頃~18歳頃まで)にわたって鎌倉府がこの地に移されました(薩埵山体制)。
入間川御所が設けられることになった詳細については省略しますが 入間川御陣の正確な所在地は不明のようで、現在の埼玉県
狭山市入間川にある徳林寺付近から狭山八幡神社付近など数箇所が候補に挙げられているようです。
そんな入間川御所の候補地とされる徳林寺・八幡神社を訪ねてきましたが、場所の確認はできたものの遺構があるわけではあ
りませんので、いつものように社寺めぐりの形になってしまいました。




霞野交差点から狭山市駅寄りの最初の路地にある徳林寺入口の看板




徳林寺裏門




筋塀に沿って行くと




山門(楼門)の前にでます  お約束の六地蔵尊も入れておきました




山門  山号「福聚山」の扁額がかかっています




本堂




寺号「徳林寺」の扁額
大香炉と本堂入口のガラス戸に「五三の桐紋」 徳林寺は曹洞宗のお寺ですので、曹洞宗の宗紋(総持寺の桐紋)かと思いま
したが曹洞宗の宗紋は「五七の桐紋」ですからちょっと違いますね。ということは徳林寺の寺紋?




社務所・客殿・庫裡




地蔵六角堂




鐘楼




徳林寺の文化財案内板




薬師堂




徳林寺不動尊と観音堂への階段
徳林寺墓地裏の高所にあります。徳林寺の看板の所を本堂方向に来ず、その坂道を登ったところにあります。




参道ふたつ目の石段




徳林寺不動尊(福徳院)




観音堂と大観世音菩薩像  大観世音菩薩像の背後に市立図書館があります




同上




徳林寺の中興開基綿貫家の墓所。綿貫家は江戸時代に栄えた豪商




徳林寺不動尊境内から徳林寺本堂を見下ろす

河岸段丘の要害地形のこの場所は、今は高い建物が建っていますので街道や入間川は見えませんが、往時は良く見渡せたこと
でしょうから陣所として適していたでしょう
徳林寺不動尊境内から徳林寺本堂方向を見下ろしています




徳林寺とともに入間川御陣の候補地とされる(狭山)八幡神社
八幡神社社殿  境内には八幡神社の他にも数社が祀られています
ここも高台に位置しますのでやはり陣所に向いているかもしれません




史蹟 新田義貞駒繋ぎの松  (愛馬を繋いでおいた松)
足利基氏が入間川御陣を構える以前の元弘3年の元弘の乱のとき、新田義貞がここ入間川を陣所にしていたようで、鎌倉幕府
軍との小手指ガ原の戦いで決着がつかず一旦入間川に退陣したといわれています。
義貞が八幡神社を参拝の折に駒を繋いだようです。

神社を見て回ることが主目的ではなく、陣所跡推定地の確認ですので神社の縁起や他のの神社は載せていません(手抜きです)

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)・29日(水)

女影ヶ原古戦場 (埼玉県日高市)

2018年10月21日 | 古戦場・陣所


名 称:女影ヶ原古戦場(おなかげがはらこせんじょう)
概 要:建武2年(1335)北条家の再起をはかり北条時行が信濃で挙兵、鎌倉へ進軍。これを食い止めんと渋川義季ら足利方
    の軍勢が女影ヶ原で時行軍と対陣しますが大敗して渋川義季らは自害したという。「 中先代の乱」と言われる一連の
    戦いの中のひとつとなった古戦場
指 定:県指定旧跡(女影原古戦場の名称で 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
遺 構:―
所在地:埼玉県日高市女影 霞野神社周辺

■鎌倉時代 
 鎌倉時代になると鎌倉幕府は兵員馬匹を鎌倉に集めるために街道の整備を行ないました。この街道は鎌倉から関東諸国・信
濃・越後・陸奥方面に向かっており、上道(かみつみ))・中道(なかつみち)・下道(しもつみち)・秩父道などと呼ばれ
ていました。日高市内を通っているのは上道で、大谷沢から女影を通り駒寺野新田へ通じています。中世を通じて鎌倉街道沿
いは数多くの合戦の舞台となりました。
 南北朝時代の建武2年(1335)7月、鎌倉幕府の復興を願う鎌倉十五代執権北条高時(ほうじょうたかとき)の遺子時
行(ときゆき)は、信濃で諏訪頼重(すわよりしげ)らに擁立され挙兵、建武の新政に不満を持つ武士と合流しながら鎌倉街
道を南下鎌倉を目指しました。そして7月22日、それを阻止しようとする足利直義(あしかがただよし)軍と初めて合戦に
及んだのが女影原でした。
 この戦で時行軍は直義軍に勝ち、その後も小手指原・府中などでも直義軍を破り7月25日に鎌倉を占領しました。この一
連の戦乱を「中先代の乱(なかせんだいのらん)」といいますが、僅か20日程度で足利尊氏に攻められ、時行は鎌倉から敗走
しました。
                                 【日高市ホームページ「日高の歴史」から】

この女影原の合戦の場となったのが、現在の霞野神社周辺と言われております。そんな古戦場跡とされる霞野神社周囲と鎌倉
街道上道を散策してきました。




県道川越日高線(埼玉県道15号線)の「女影」交差点から霞野神社(女影ヶ原古戦場跡)方向へ向かいます




鎌倉街道上道の緩い坂道を行くと、下小畔川に架かる「諏訪橋」です。
霞野神社の旧称が諏訪神社であったことに由来する名でしょう。




諏訪橋の傍に、諏訪橋改築記念碑(左)と享保18年(1733)の日本廻国供養塔(右)が建っています。




霞野神社の森です




霞野神社鳥居の前は五差路になっています(この写真では1本は隠れてしまいましたが)
鎌倉街道上道はこのまま真っ直ぐに進みます




霞野神社参道前

霞野神社は元は諏訪神社といい女影の村社でしたが、明治39年(1910)10月、埼玉県指令により旧女影村一帯の神社を合
祀して新たに建てられた神社です。この合祀記念碑が拝殿前に建立されています(後述)

このような村の周辺の社を合祀した例としては、やはり鎌倉街道沿いにある比企郡小川町奈良梨の八和田神社(奈良梨陣屋跡)
も元諏訪神社で、八か村が合併して八和田村となったことから八和田神社に改称しています。




霞野神社の社号標  旧社格の村社の部分セメント?で埋めて消してありますが逆に目立っています




神額「霞野神社」




参道から社殿を




手水舎と霞野神社社務所
手水鉢は、安政4年(1857)3月と安政6年(1859)3月に奉納されたものふたつが並んでます。




拝殿 




扁額{霞野神社」




社殿の斜め後方に神社東側の道路に向って建てられている石標




「史蹟 女影原古戦場趾 埼玉縣」と刻まれているの石標
刻まれた文字が浅くなって読み辛くなっています。




拝殿石垣前に設置されている説明板




女影ヶ原古戦場跡 と 鎌倉街道  の説明文のアップ
 



説明板にある 「霞野神社の本殿 付 剣道の懸額」
社殿の右側面にある2枚の懸額のうち左側のものが、文久元年(1861)4月穀日に、甲源一刀流の比留間和十郎源信治の門弟
が奉納したもの。




境内末社




宝物殿




女影ヶ原一ノ宮 霞野神社合祀記念碑




霞野神社合祀記念碑の裏面

合祀誌 女影ヶ原一ノ宮 旧名 諏訪明神
明治43年10月5日埼玉県指令により旧入間郡高萩村大字女影字諏訪山444番地鎮座諏訪神社同443番地琴平神社同字宿
西八幡神社三柱神社八雲神社同字小河原天神社稲荷神社同字北竹ノ内825番地白髭神社同字山神社同村大字中沢栁久保221
番地白髭神社同字宿方愛宕神社同西腰金山神社同字森ノ腰白山神社同山下滝神社の各社をもって明治43年10月17日大字女
影諏訪山444諏訪神社に合祀社號を霞野神社と改称した
    昭和50年4月15日   霞野神社氏子中




拝殿前から鳥居方向を見ています
この境内を含む一帯が女影ヶ原の戦いの場となったのでしょう




霞野神社鳥居前の鎌倉街道上道と、右に分かれる道との間のごみ収集所の脇に道標を兼ねた「大乗妙典碑」があります。




判読が困難な状態になっていますが、「左 入間川 所沢みち  右 あうぎ町谷 八王子道」と刻まれているようです。

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)・9月3日(月)

分倍河原古戦場(東京都府中市)

2018年10月09日 | 古戦場・陣所


名 称:分倍河原古戦場
概 要:鎌倉時代末期、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で繰り広げられた合戦場跡
    この戦は新田義貞が北条氏を破り鎌倉幕府滅亡のきっかけとなる
指 定:都指定旧跡(大正8年〔1919〕10月1日指定)
遺 構:―
所在地:東京都府中市分梅町2丁目59番地の4(分倍河原古戦場碑の所在地)

元弘3年(1333)5月8日、上野国新田荘(群馬県太田市)生品神社で挙兵した新田義貞は、鎌倉に向けて進軍。義貞の南下を
阻止しようと差し向けられた幕府側との小手指ヶ原の合戦(埼玉県所沢市)で、長崎高重・桜田貞国を打ち破りました。続く久
米川の合戦(東京都東村山市)でも勝ち、ついで分倍河原の合戦に移りました。
幕府側は北条泰家を大将として向かわせ、新田軍は一度は敗れ後退しますが、義貞勢は援軍を受けて反撃し、幕府軍を大破、そ
のまま鎌倉に攻め込み、22日鎌倉幕府は滅亡しました。

そんな鎌倉幕府滅亡のきっかけ分倍川河原古戦場跡を訪ねてみました。古戦場跡は、現在、新田川分倍公園となっており、歴史
的な合戦の舞台となったとは思えない静かで穏やかな場所です。




「分倍河原古戦場碑」の標識が見えました




分倍河原古戦場碑がある新田川分梅公園入口
北条氏と新田氏が戦った場所ですので、「にったがわ」とよみたいところですが「しんでんがわ」と読みます。




「緑道・遊歩道案内図」
府中市には沢山の緑道・遊歩道が整備されているようです




入口から少し行ったところに目的のものが見えてきました




分倍河原古戦場碑と説明板




「分倍河原古戦場碑」
昭和10年、新田氏の子孫で、元男爵の新田義美氏の筆によるもの




「分倍河原古戦場」説明板




「武蔵府中郷土かるためぐり」標柱
 ほ 北条と新田の分倍古戦場




「新田川緑道」(しんでんがわりょくどう)
農業用の府中用水の流路である新田川にふたをして緑道して整備されたものだそうです




JR南武線・京王線の分倍河原駅の駅前ロータリーに、昭和63年(1988)、府中市によって建てられた「新田義貞公之像」
 所在地:府中市片町3丁目29番地の2




題字は、当時の府中市長吉野和男氏、像の製作は文化勲章受章者の富永直樹氏によるものだそうです。
その顔は、鎌倉の方向を見つめています。




折角ですから後ろ姿も




台座裏側に嵌め揉まれている説明板




「新田義貞公之像」を裏側から

ここまで来たら次は鎌倉か? まあ、その途中に「関戸古戦場」(東京都多摩市)・「極楽寺切通し」(神奈川県鎌倉市)・
「須崎古戦場」(鎌倉市)・「稲村ケ崎}(鎌倉市)でも戦いがあったようですから、これらまで回るのは厳しいです。
いっそ遡って挙兵の場所・群馬県太田市の生品神社か? 暫くは無理でしょう

散策日:平成30年(2018)9月5日(水)

久米川古戦場 ③(東京都東村山市)

2018年10月06日 | 古戦場・陣所


名 称:久米川合戦の新田義貞後詰の地
概 要:元弘年間久米川の合戦の時新田義貞後詰を置いた所
指 定:―
遺 構:―
所在地:東京都東村山市久米川町5丁目 熊野神社

後詰を置いた所ということですので一時的な陣所であったのでしょう。いわば神社見学のようになってしまいますが、場所だ
けでも確認できればと訪ねてみました。なお、上記の名称は適当に付けただけですので。




「熊野神社」です。久米川村(町)の鎮守であることから久米川熊野神社と呼ばれるようです。




社号標と熊野神社由緒書 社号標の正面は道路ではなく参道を向いています。




熊野神社の由緒書(説明板) 由緒の中に《本社は、新田義貞が後詰を置いたとされる》と後詰に関する記述もあります。




狛犬、手水舎 その先に拝殿




「熊野宮」の扁額




参道を本堂側から




本殿  玉垣の朱色が陽に当たって映えています




拝殿と本殿




境内社




久米川神社崇教会集会所




久米川の富士塚
富士塚信仰が盛んになったのは江戸時代以降のようで、この富士塚は明治21年に築かれたようですから、この場所に新田義
貞が後詰を置いた頃には、この富士塚は未だなかったことになります。




富士塚ですが、もっと離れたところから全体を撮ればよかったと後悔しています。




塚の頂です  祠があったようですが見当たりませんでした。




熊野神社の北側「熊野公園」になっていますが、神社寄りにある池です。




「熊野公園」の一部
この熊野公園も熊野神社境内の一部のようです。これだけ広い境内でしたら、相当数の後詰の兵を置くことができたでしょう。

散策日:平成30年(2018)8月30日(木)

久米川古戦場 ②(埼玉県所沢市)

2018年10月03日 | 古戦場・陣所


名 称:新田義貞兜掛けの松・鎧稲荷
指 定:―
所在地:埼玉県所沢市久米2429 鳩峯八幡神社境内

元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府討幕のため挙兵した新田義貞は、武蔵国で幕府軍と衝突しました。この際、八国山に陣を
布いた義貞は、鳩峯八幡神社の社前の松に兜を掛け、境内に鎧を置いて戦勝祈願を行ったとの記録が残るそうです。
久米川古戦場跡散策の一環として、この参拝の時の兜をかけた「兜掛けの松」、鎧を置いた所に祀った「鎧稲荷」などの見学の
ため、埼玉県所沢市久米に鎮座する「鳩峯八幡神社」を参詣してきました。

なお、久米川古戦場跡は、現在の東京都東村山市諏訪町付近とされておりますが、鳩峯八幡神社は上記のとおり埼玉県所沢市に
所在していますので、本稿タイトルは「久米川古戦場②(埼玉県所沢市)」としました。埼玉県所沢市も東京都東村山市も元は
同じ武蔵国の中にありましたので地名を気にすることもないのでしょうが。




案内板「鎌倉街道(上道)のみちすじ」の中から当該部分を切り取り加筆しました。
〇で印した所に鳩峯八幡神社は鎮座しています。上のイラストが活きます。
埼玉県部分のみの鎌倉街道(上道)案内板のため久米川古戦場跡は入っていませんので文字は書き加えました。




鳩峯八幡神社の鳥居と社号標
旧社格は郷社  なお正式名称は「八幡神社」




「鳩峯八幡宮」の神額




参道を少し行くと鐘楼があります
神社になぜ鐘楼が。往時、鳩峯八幡神寺の別当はすぐ近くにある「仏眼寺」が当たっていましたが、神仏分離で分れました。
この洪鐘はその名残りのようで、洪鐘には仏眼寺及び当社由来が刻まれているそうです。




参集殿  




長い参道の先に社殿が見えてきました




宝物殿




この石段を上ると境内




手水舎  普通の水栓柱と蛇口が使われています




拝殿




拝殿




拝殿と本殿




扁額「鳩峯八幡宮」




神楽殿




鳩峯八幡神社案内板  所沢市観光協会設置

【由緒】の中に次の記述があります
《元弘3年(1333)5月、新田義貞公鎌倉討伐の折、八國山の将軍塚に陣し、当社に参拝して戦勝を祈願したと伝える。境
内には参拝の時兜をかけた「兜掛けの松」、鎧を置いた所に祀った「鎧稲荷」の祠の旧蹟がある。》




鳩峯八幡神社の文化財説明板   所沢市教育委員会設置




「兜掛けの松」と「新田義貞兜掛松 史蹟」碑

当時の松は枯れてしまい、その切り株に新たに植えられて数世代が経ったものが現在の松のようです。




「新田義貞兜掛松 史蹟」碑




石碑裏面

護良親王の令旨を受けた新田義貞は元弘3年5月8日、群馬県新田郡生品村生品明神の社前で、北条高時討伐の兵を挙げた時か
ら、5月22日鎌倉幕府が滅びるまでの経過がこと細かく書かれています。更に、義貞が戦勝を祈願し、その折、兜を脱いで神
前の松に架けた都の記録が当神社の記録に残されており、由来「兜掛けの松」として広く名を知られている。ここに由緒を石に
刻み、永く後世に伝えようとするものである。

とあります。「兜掛けの松」は単なる伝承ではなく記録があるということのようです。




社殿の斜め後ろにある「鎧稲荷」
この場所に祈願の際に脱いだ鎧を置いたということのようです。覆屋を見ても他の末社より手厚い扱いを受けている感じです。




八幡神社奥社




境内末社




摂社「八坂神社」




境内の一部




境内南側にある石段を下りると 摂社「久米水天宮」の境内




久米水天宮は独立の境内を持つ鳩峰八幡神社の摂社です
境内が独立していることから一見別々の神社のように思えます




久米水天宮拝殿
正式名称は「水天宮」のようですが、久米の地に鎮座することから久米水天宮と称されているようです




扁額「水天宮」




水天宮拝殿前にある休憩所(?)内の額




「久米水天宮」参道  右側の少し高くなったところが鳩峯八幡神社




「仏眼寺」

鳩峯八幡神社の南方50mくらいの所にありますが、鳩峯八幡神社の鐘楼の所で仏眼寺について触れましたのでスルーするわ
けにもいかず参考までに・・・




王禅山釋迦院と号す真言宗豊山派の寺院です。
例の石灯篭この寺にも2基ありました。所沢市内のお寺ですから・・・

散策日・平成30年(2018)8月29日(水)・30日(木)

久米川古戦場 ①(東京都東村山市)

2018年10月02日 | 古戦場・陣所


名 称:久米川古戦場
概 要:武蔵国久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)において、桜田貞国率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で
    行われた合戦の地
指 定:都指定旧跡(久米川古戦場の名称で 大正8年〔1919〕10月指定)
遺 構:将軍塚(埼玉県所沢市)
所在地:東京都東村山市諏訪町2丁目付近

小手指ヶ原の合戦に続いて行われた久米川合戦の古戦場跡及び関係場所を訪ねて来ました。




西宿公園  ここを目標にしたらよいかと思います
この公園の北側に更に小さな公園(西宿公園の一部)があり、そこに久米川古戦場跡」碑 「久米川古戦場」説明板があります。




久米川古戦場跡」碑  「久米川古戦場」説明板




東京都指定旧跡   
   久米川古戦場
                      所在地 東村山市諏訪町2丁目付近
                      指 定 大正8年10月

 北川と前川の合流するこの地域の低地と狭山丘陵東端の八国山の麓一帯を鎌倉時代には久米川宿といっていた。文永8年(12
71年)の日蓮の書状に「武蔵国久目河に付き……」とあって、上野国(群馬県)と鎌倉を結ぶ政治的にも経済的にも重要な交通路
であった鎌倉街道上の道の主要な宿駅であった。
 『太平記』によれば、元弘3年(1333)5月8日、群馬県新田町の生品神社(新田義貞挙兵伝説地)から鎌倉幕府倒幕のた
め挙兵した新田義貞の軍勢は、11日初戦の小手指河原合戦(所沢市)で鎌倉軍を破り、翌12日に南下した新田義貞と鎌倉幕府軍
との第二戦が行われたのがこの周辺一帯であるといわれている。『江戸名所図会巻四』によると、久米川合戦に勝った新田義貞が
塚を築き旗をたてたといわれる将軍塚(所沢市)が八国山にある。標高約190メートルの八国山は、駿河(富士)、伊豆(天城
山)、相模(箱根・大山)、甲斐(多波山)、信濃(浅間)、上野(吾嬬)、下野(日光)、常陸(筑波)、の八か国の山が眺め
られるのでこの名がついたといわれている。
 久米川宿を中心とする久米川一帯は、その後も建武2年(1335)の中先代の乱や応永23年(1416)と同24年(141
7)の上杉禅秀の乱などたびたび合戦の戦場となったが、近年は宅地化が進み当時の景観は偲ぶべきもない。
 国の重要文化財『元弘の板碑』は八国山山麓にあったものを文化年間(1804~18)に、臨済宗福寿山徳蔵寺(東村山市諏
訪町1の26)に移したものである。

 平成10年3月 建設
                      東京都教育委員会




都立 八国山緑地の東端麓にあるハイキングコース入口と案内板 




下部が草で見えませんが 「都立 八国山緑地」案内板の全体を




久米川古戦場跡の文字が見えます  このあたり一帯で戦いがあったようです




所沢市久米地内を流れる柳瀬川(旧久米川)に架かる「勢揃橋(せいぞろいばし)」
新田義貞公がここに全軍を勢揃いさせたことからついたこの名がついた橋だそうです。当然、、全軍が橋の上にというわけには
いきませんが・・・




当時は家もなかったでしょうし、橋には欄干もなかったでしょう




八国山緑地には埼玉県所沢市松ヶ丘地内から登りましたが、例の如くすんなりとはいかずに入口が分らずに行ったり来たり。




尾根沿いの所沢市側にも立派な案内板が設置されています




「勢揃橋」の所が丁度写真で隠れてしまっていますので、◎勢揃橋 と加筆しておきました(右上)
0.1kmでは目指すというほどの距離ではありませんが、将軍塚を目指して




綺麗に整備された緑地です  この時も清掃中の作業員の方にお会いしました




将軍塚のある場所に着きました




「元弘青石塔婆所在跡」碑
「元弘の板碑」と呼ばれるこの板碑には久米川の合戦を裏付ける記述と、この戦いで亡くなった3名のなが刻まれており、実
物は現在、「徳蔵寺」にあります。




「将軍塚」説明板




塚と言ってもこんもりした程度でそれほどの高さはありません




将軍塚碑




将軍塚碑の裏面
「元弘三年 新田義貞公鎌倉討伐ノ際 白旗ヲ建テラレタル遺蹟」と記されています。




「勝陣場橋(かつじんばばし)」  北川に架かる橋で東村山市と所沢市に跨っています
戦いに勝利した新田軍が通ったとも陣を置いた場所とも言われます。
道が狭いうえに交通量が多くてこれ1枚を撮るのも苦労しました(笑)




「将陣場橋(しょうじんばばし)」  北川に架かる橋で東村山市須和町2丁目地内にあります
内容は上記と同様です




「徳蔵寺」
山号を「福寿山」と号する臨済宗大徳寺派に属するお寺で、東村山市諏訪町1丁目26-3に所在します
「徳蔵寺 板碑保存館」に保管されている「元弘の板碑」を拝観目的に訪れましたが、折角ですので本堂等の写真も何枚か




山門から本堂方向に  扉にある紋は「左三つ巴」




六地蔵尊等の石仏




本堂前から山門方向  例の(増上寺→西武鉄道→寄進先)大きな石灯籠がこの徳蔵寺にも4基ありました




本堂




山道脇の掲示板に貼ってある「江戸名所図絵」




庭園




庭園  左側の建物は「虚心庵」(茶室)




ここで板碑保存館拝観の申し込みをします  拝観料(おとな(高校生以上)200円




「徳蔵寺 板碑保存館」




「元弘の碑」




板碑保存館は昭和43年(2003)に完成した2階建ての建物で、1階には、石器・土器・国分寺瓦・古銭等 2階には、元弘
の碑を中心に、板碑・宝篋印塔・五輪塔・道標等が展示されています。
保存館ができる以前は数多くの板碑を本堂に所蔵していたことから、「ちらかし寺」とも呼ばれていたようです
とにかく沢山の板碑等が展示されており、よくここまで収集したかと感心します。
これから拝観に行く方の楽しみを奪ってはいけませんので、展示物の写真はこれだけにしておきます。




「元弘の碑」の実物の写真を先に載せましたが、ガラスに反射してよくわかりませんので、拝観時に頂いたリーフレットの中の
写真を載せておきます。




上掲「元弘の碑」の写真にある説明文




徳蔵寺の西側を流れる「前川」 下流で「北川」に合流

散策日:平成30年(2018)8月29日(水)・30日(木)

小手指ヶ原古戦場(埼玉県所沢市)

2018年10月01日 | 古戦場・陣所


名 称:小手指ヶ原古戦場
概 要:越後上州方面から鎌倉への交通路にあたり、新田、足利の対立をはじめとする幾多の戦場として知られる
指 定:県指定旧跡(小手指原古戦場の名称で 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
遺 構:白旗塚(伝承)
所在地:埼玉県所沢市北野二丁目12番地の4(石碑の所在地)

所沢市内の鎌倉街道上道(かみつみち)沿いにある小手指ヶ原古戦場跡を訪ねてみました。
詳細については現地説明板の内容を下記に転記しますのでそちらを参考にしてください。




まずは小手指ヶ原古戦場がどの辺にあったのか地図で説明しておきます。
この案内板は、埼玉県を通る鎌倉街道(上道)にある城館跡・古戦場等の史跡が表示されているもので、県内の鎌倉街道(上道)の
要所要所に設置されているようです。何か所に設置されているかまでは把握しておりませんが、私は4か所で目にしております。
設置から相当数の年数が経過しているようで、どれも汚れが酷かったり傷がついたりしております。
前置きが長くなりましたが、赤い線が鎌倉街道(上道)で、支道があったりしますので何筋にもなっています。
左下の黄色の〇印をしたところが小手指ヶ原古戦場跡です。




上の写真は案内板全体のため広範囲で見にくいとは思いますが、位置関係を知る上での参考にと載せました。これは小手指ヶ
原古戦場跡近辺を切り出してみました。
これなら文字もどうにか読めるかと思います。




小手指ヶ原古戦場跡の一画で鎌倉街道沿いに建立されている石碑と説明板




小手指原古戦場石碑




埼玉県指定文化財(旧跡)
小手指ヶ原古戦場

 小手指ヶ原は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の野原で、北方は入曾
(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位
置していたため、古来戦場となることが多かったのです。
 特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘3年(1333)上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉
攻めがあります。同年5月8日義貞は、北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を
一路南下した新田軍は11日に、ここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは150騎ほどであった一行は、進むにつ
れ沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。
 新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で30余回も打ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍
は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引きました。翌12日新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍
は分倍河原(東京都府中市)まで退きます。その後、幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂へ
の新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
 なお、背後にある小高い塚は白旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞が、ここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立て
たという伝承があります。

   平成22年3月
                                     所沢市教育委員会




小手指原古戦場石碑之道向かいにある保育園前の道標




白旗塚への道  石碑から約60m程の所に白旗塚はあります  かつてこの辺りでも合戦が繰り広げられたのでしょう 




白旗塚  登り口左側に「白旗塚土盛修復記念碑」  右側に「古戦場碑」




《古戦場碑》

古武将の御魂祭れりこの塚を  護り通せと先祖より受
 此の塚を壊せし者は忽ちに  霊魔を受けて  死するやもあり
  武蔵野の小手指ヶ原古戦場  月の光は変らざりけ里




白旗塚土盛修復記念碑




白旗塚土盛修復記念碑  標柱の両側面いっぱいに白旗塚土盛修復の経緯が次のように書かれています。

この白旗塚は太平記縁の古戦場の一画にあり一説には古墳とも云い伝えられてきが 慶応4年村民の手により浅間神社(富士仙
元)の石祠を建てて浅間信仰の塚となった
以降百140年余に亘り風雨に晒され表土の流出が続き 白旗塚碑石祠共土台が露出転倒する事態となった 
さて 白旗塚隣地に農園をもつ北野中学校では 郷土の文化財を守ることは教育上の意義があると平成19年9月修理工事に着
手 盛土の土は地元の岩田清氏が提供 教員生徒全員が一丸となってバケツに土を入れ山頂と周辺部に運び上げ5ヶ年の歳月を
かけて修復し砂防に※※を植え平成24年1月31日をもって本事業を完了した盛土の総量約50立方米 生徒数(白旗塚自治
会の協力を含む)350名 この間文化財ぼ法師活動に尽力された北野中学校
   平成24年3月吉日 建立 

こうしたことによって今も白旗塚が守られているかと思うと感慨深いものがあります。




白旗塚土盛修復記念碑のある場所の上り口から上がって行きました




白旗塚の頂部に建立されている石祠と石碑




石碑「白旗塚・浅間神社」 をアップで




こちらは南側の上り口です





白旗束の南西方向の景色  ここでも合戦が繰り広げられたのでしょう




この鎌倉街道上道(何本かあるうちの支道のひとつ?)沿いの台地の長閑な田園風景があるこの付近一帯が古戦場跡ですが、
だいぶ宅地化が進んでいるようです。




国道463号線(所沢入間バイパス)「誓詞橋交差点」

誓詞橋(せいしがはし)は、砂川堀という小さな流れにかけられた橋で、新田義貞が所属した軍兵に忠誠を誓わせたところと
伝えられています。橋は交差点内部を斜めに横切っています。橋は小さく、欄干の一部(無論、後世の橋ですが)が残ってい
ます。注視しないと見落とします。国道の信号は5差路になっていて、小手指原から下りて来た角に誓詞橋の石碑があります。

※橋、交差点は「せいしがはし」と橋は濁らず バス停は「せいしがばし」と濁るようです




「誓詞ヶ橋」の銘板




欄干は進軍する馬に跨った兵の装飾になっています




橋と国道を挟んだ反対側(小手指古戦場跡寄り)に建立されている
左:誓詞橋の石碑   右:西国・坂東・秩父百番供養塔




誓詞橋の石碑 

今回も1度の散策では用が済まずに2度足を運ぶ。それでもまだ見落としに気付き3日目。これ以上細かなことまで気をかけ
たらあと何回行く羽目になるかも知れませんので取敢えずはこの程度で妥協しておきましょう。

散策日:平成30年(2018)8月19日(日)・29日(水)・30日(木)