四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

丸墓山古墳(埼玉県行田市)

2016年11月30日 | 古墳


1ヶ月前の10月28日(金)放映の、BS-TBS『高島礼子・日本の古都~その絶景に歴史あり』は、「のぼうの城の真実」ということで高島礼子さんが忍城や石田三成が
忍城水攻めの際に陣をはったと言われる丸墓山古墳などを歩きました。この放映を観て、高島さんの登ったあの階段を登ってみたいと心密かに考えてていました。

と言うのも確かな理由でもあるのですが、石田堤を見たなら当然丸墓山古墳にも行かねばならないということになりますので行ってきました。

ここを古墳と言うことで捉えるなら「国指定史跡 埼玉(さきたま)古墳群」であり、公園としてなら「さきたま古墳公園」となりますが、そんな面倒な使い分けはしないことにしましょう。
何せ、今回の目的は古代史の範疇としての古墳を訪ねるのではなく、戦国時代のひとつの痕跡を訪ねるためのものでした。故に、数ある古墳の中で訪ねたのは、丸墓山古墳ただひとつ。
時間の関係で他の古墳を見たり、さきたま史跡の博物館に寄れなかったことの言い訳でもありますが。




この看板の中にある稲荷山古墳と言えば「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が発見されたことで一躍有名になり、埼玉古墳群の名を広めた要因となりました。
さきたま史跡の博物館の文字の右のものがそれですね。

今回は、さきたま史跡の博物館に寄る時間的余裕がなかったことは上で書きましたが、過去には2度訪館しています。と言っても・・・




まだ「埼玉県立さきたま資料館」の名称の時代のことで、40年前、34年前も昔のことですから行ったうちには入らないでしょうが。
昭和51年の訪館時は、鉄剣(金錯銘鉄剣)自体は発見(昭和43年)になっていましたが、金文字は発見になっておらず、まだ話題にもなっていない時でした。
昭和57年の訪館時は、金文字を発見(昭和53年9月)した後で、金錯銘鉄剣も展示されておりましたが、確かレプリカでした。

横道に逸れてしまいましたので本題に戻しましょう。




先の看板から歩いて3~400m  前方の東屋の左の丘状のものが丸墓山古墳




さきたま古墳公園案内図  ただ見るだけで各古墳等の位置関係や何があるかも全く頭に入れず  これでいつも失敗しているにもかかわらず




「史蹟 埼玉村古墳群」の石柱  え! 埼玉村
ここはかつて北足立郡埼玉(さきたま)村であったが、昭和29年(1954)に行田市に編入  埼玉県の地名の発祥地




年季の入った案内板ですね  公園として整備された時の名称が「さきたま風土記の丘」




ここにも石田堤が




ここにも「史蹟 埼玉村古墳群」の石柱  この石柱右側の道路が石田堤跡




見えてきました 丸墓山古墳の上に登る階段が




階段上り口脇の丸墓山古墳の説明板
埼玉古墳群の9基ある阿縣古墳の中で唯一の円墳で日本最大のの円墳 直径105m 高さ約19m 
古墳群の中では一番の高さを誇り、石田三成が陣をはるのに選んだのも当然か




いよいよ上がります 高島礼子さんもここを上がって行ったんですね・・・ (また言ってると言わないで下さい 独り言ですから)




階段の途中から見下ろしてみました  




やはり階段途中から




登り切りました




こう見ると結構高いです




上はこんな具合ですが この古墳が出来たころはこれほど広くはなかったと思いますが
陣を作るのに削って平らに(削平)しませんでしたか? 治部殿




ここから忍城が見えるようです




例の如く説明板を  これなら読めるでしょう




中央あたりに御三階櫓が見えると思いますが
これほどの家がなかったころにはもっとよく見えたでしょうね




稲荷山古墳




将軍山古墳




登ったところと反対側にも階段がありましたのでこちらから降りてみましたが、階段の段数がこちらの方が多いような




こちら側にも丸墓山古墳の説明板が設置されていました  内容は同じですが、場所に合わせて古墳の図面が登って来た時のものとは逆です 
陽があたり影が出来ていない分 こちらの方が見やすいかと重複を覚悟で掲載しました




時計回りに古墳の周囲を半周してみました 丁度横側です (どこが正面か知りませんが)




こう見ると階段は緩やかのように見えますが然に非ず




下(平場)から見た稲荷山古墳




やはり下(平場)から見た将軍山古墳




めざせ世界遺産  大分前から運動をやっているようですが、今のところ国の候補からも外れていたと思います。成れるといいですね。

と、以上、古墳群に行ったにもかかわらず他の古墳は見ずに終えてしまいました。石田堤 石田三成の忍城水攻めの陣跡ときたら次は忍城と言うことになりますが
残念ながらその時間がなく、次の機会にと帰陣の途に・・・

散策日:2016(平成28)年11月28日(月)

石田堤史跡公園と石田堤(埼玉県行田市)

2016年11月29日 | 史跡・遺跡・文化財


豊臣秀吉による小田原攻めで、石田三成が忍城を水攻めにするにために築いた通称石田堤跡を散策してきました。

先ずは、鴻巣市(旧吹上町区域)にある「石田堤史跡公園」を目指しましたが、方向音痴を特技とすることから例の如く
おいそれとは行きつきませんでした。漸く行きついたと思ったら駐車場が見当たりません。確か大きな駐車場とトイレが
あるはずなのですが、付近を探しても見つからず、仕方なく他の通行に支障を来さないスペースに駐車していざ散策に。




上の看板はすぐ目に付いたのですが、この石碑は帰り間際に気付きました。笹の中に隠れるようにあるものですから。




公園です。高く土盛りがされているところがありますが堤跡ではないようです。周囲は馬防柵を模したコンクリートの囲いになっており、
戦国時代の雰囲気を出しています。




東屋もあります  東屋の不幸に見えるのは上越新幹線の線路




東屋内に貼られたパネル  文字が小さくて読めないと思いますので、訪れた際に確認してください。
本来なら内容をここに転記すべきなのでしょうが、長くなってしまいますのでご勘弁を 以下の看板等についても同様で




上越新幹線の高架下にあるモニュメント




矢盾が並んでいます 敵方の小田原北条の三鱗が 丸に二つ引紋は誰?




榊原康政の書状




豊臣秀吉の朱印状 ①




豊臣秀吉の朱印状 ②




豊臣秀吉の朱印状 ③




米俵を土嚢にしたようです (このレプリカはコンクリート製)




豊臣秀吉による包囲作戦の年表




高松城水攻めのさいの賃金




忍城水攻めの際の人夫の賃金




水攻めのイラスト ①  表面のアクリル板(?)がだいぶ汚れと劣化しているようでちょっと見づらいですね




水攻めのイラスト ②




水攻めのイラスト ③




この櫓の下に入り特定の場所に立つと解説の音声が流れます




石田堤史跡公園の見取図  右上の広い緑がいわゆる公園部分 左下の細長い緑の帯部分が堤跡  説明文は省略




石田堤跡




壁面の線はいたずら書きではありません  堤の地質の断層を表しています  アクリル板の中は実際の堤の断層ですがアクリル板が傷んでいてよく見えません




断層見学施設の説明板  これも現地で確認してください




堤の上に上がれますが見るだけです 柵があり歩けませんから




堤に沿って歩きますとこんな感じです




だいぶ抉れていますがここも堤跡?




ここに駐車場が  高架下の向こう側ばかり探していてここにはここまでは来なかった・・・いつもこんなドジをしています

ここから引き返し次に行田市分にある石田堤を目指します




石田堤史跡公園から忍川に架かる堀切橋を渡ってすぐの所にあるにもかかわらず、なぜかグル~と遠回りをしていました
ここは2回目なので見覚えのある風景です ここは行田市堤根 (初回は、2012年5月27日)




県指定史跡 石田堤 の説明板  すみませんこれも内容は転記しませんので




裏には忍城攻め年表が




堤に沿って歩きます




振り返る格好で




石田堤碑まで来ました




石田堤碑の裏側が公園になっていました どうやら「石田堤歴史の広場」と言うようです
空堀ようのものもあり パネル板が3枚ほど いづれも平成27年3月とありますから1年半前の出来たようです
隣には駐車場も整備されていました




「石田堤と忍城水攻め」についての説明




「埼玉県指定史跡 石田堤」についての説明




「行田市指定文化財 石田堤の並木」の説明




相変わらずのドジ続きでしたが、どうにか目標は達成 次に向かいます

散策日:2016(平成28年11月28日(月)

班渓寺 -木曽義仲公誕生之地-(埼玉県嵐山町)

2016年11月28日 | 神社仏閣


嵐山町鎌形地内に所在する曹洞宗の寺院 威徳山斑渓寺 を訪ねてきました。

木曽(源)義仲は、幼名を駒王丸と言い、源頼朝・義経とは従兄弟の関係にあり、朝日将軍(旭将軍とも)と呼ばれますが、その生涯については
色々なところに書かれてるところです。

斑渓寺について、埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の「比企の中世・再発見」では下記の説明がされておりますので転載引用させていただきます。

曹洞宗の寺で、鎌倉時代に山吹姫の創建と伝えられます。山吹姫は木曽義仲の側室で、長男義高の母と言われています。
源平合戦では巴御前らとともに義仲に従軍しましたが、義仲の討たれた後は、この地に寺を開き、悲運に倒れた夫や息子の菩提を弔ったと伝えられています。
境内には、山吹姫の墓と伝えられる寄せ集めの小さな五輪塔があります。また、木曽義仲生誕の地を顕彰する碑が地元の人々によって建立されています。




斑渓寺 ①




斑渓寺 ②




山門右手に建つ「木曽義仲公誕生之地」と刻まれた石碑




山門には「威徳山」 本堂には「斑渓寺」の扁額




本 堂




本堂大棟には源氏の紋である「笹竜胆」紋が




山門(四脚門)を入ったすぐ左側には「斑渓寺」の説明板




主として義仲について書かれています




鐘 楼  梵鐘には次の文字が記されているようです
木曾義仲 長男 清水冠者源義高為 阿母 威徳院殿班渓寺妙虎大姉 創建スル所也




本堂左側面




鎮守堂と木曽義仲公顕彰碑




鎮守堂




木曽義仲公顕彰碑




山吹姫の墓(左)と山吹姫の墓の石碑(右)




同上 山吹姫の墓の石碑には  當寺開基 威徳院殿斑渓妙虎大姉  建久元(一一九〇)年十一月二十二日寂  とあり




山吹姫の墓と伝えられる寄せ集めの小さな五輪塔




班渓寺の南側を流れる都幾川に架かる班渓寺橋


班渓寺の近くに鎌形八幡神社があり、同社境内の清水が「木曽義仲産湯の清水」の伝説で有名ですが、班渓寺にもやはり産湯に使った清水があるとの記述も目にしていました。
上記の写真を撮らせていただいているとき、同寺の方(袈裟姿から住職さんのご子息(副住職?)と思しき方)の姿をお見かけしましたので清水の件についてお伺いしたところ、
「ちょろちょろと出ている清水がありますが、今は入れない状態になっていますので見ることはできません」旨のことで、実際に産湯に使われたかどうかはともかく清水があることは確かなことのようです。

散策日:2016(平成28)年11月23日(水)

金剛寺 -比企氏墓所-(埼玉県川島町)

2016年11月27日 | 神社仏閣


金剛寺と比企氏

山号を清月山元光院、新義真言宗の寺で、川島町中山にあり比企氏の館跡と伝えられている地にあります。
金剛寺と比企氏との関係は、当地の開発領主であり、比企能員の娘婿であった中山為重まで遡ります。
比企氏の乱(建仁2年1203)で、北条方に敗れた比企一族がことごとく滅ぼされるなかで、能員の子円顕(当時2歳・俗名能本)と
時員(能員の子)の子員茂はまだ母のお腹の中にいたことから生き長らえることとなります。円顕はのち父能員(法名長興)、母(法名妙本)の
菩提を弔うため、鎌倉に日蓮宗の本山「長興妙本寺」を開基した人物です。員茂は出生後、岩殿山観音堂別当に養育され、のち北面の武士(院の
御所の北面に詰め、院中の警護にあたった武士)となり、承久の乱(承久3年1221)では、敗れた順徳院に従って佐渡に渡り、寺泊兵衛尉と
改名しています。
員茂の子員長は、頼家の娘竹御所と従兄弟関係にあり、比企・吉見・高麗郡等を所有していたことから、その縁で密かに越後より比企郡中山に移り、
のち子孫代々がこの地に居住したといわれています。こうした背景から比企能員の子孫と言われる比企政員(1525~1575)、
子の則員(1557~1616)が金剛寺を中興開基しています。この地が比企氏館跡といわれるゆえんです。政員の法名は清月、則員の法名は元光です。

(埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 「比企の中世・再発見」から ■金剛寺と比企氏 の項を引用転載)

※ 能員・・よしかず  能本・・よしもと  時員・・ときかず  員茂・・かずしげ  兵衛尉・・ひょうえのじょう


そんな金剛寺に比企氏の墓所があるということで訪ねてみましたが、比企氏の館跡という観点からもみるべきであったにもかかわらず、墓所のみに気をとられて、ここでも見落としを・・・




表入口と山門




本 堂   数年前に建て替えられたようです
本堂左手に一般の墓所 右手方向に比企氏の墓所があります




本堂に掲げられている「金剛寺」の扁額




この説明板は一応撮ってきただけです




鐘 楼   梵鐘は最近の作のようです




大日堂  比企一族の位牌堂  左の道が墓所へ




大日堂 




比企氏と歴代墓地の説明板




比企氏墓所
左側の墓は近世のもので左端に比企家現在の墓がありますが撮影は控えめにさせていただきました




比企氏代々の墓




比企久員の墓




比企稚久の墓




比企重員の墓




比企義久の墓




比企則員の墓








結局は墓所のみを見て来ただけで、館があったころの遺構と思われる空堀跡を見ることなく帰って来てしまいました。
正直のところは空堀跡のことは帰宅後知ったわけでして・・・

訪問日:2016(平成28)年11月16日(水)

歴史講座「小田原北条氏支配の武蔵」第4回

2016年11月26日 | 講演会・講座


この歴史講座が始まったとき(第1回)は青々としていた国立女性教育会館講堂前の木の葉も紅葉して散りつくしたようです。
そんな同館講堂を会場として、埼玉県立嵐山史跡の博物館主催による

  歴史講座「「小田原北条氏支配の武蔵」 第4回(最終回)「戦国武将と起請文」 講師:月井 剛氏(栃木県立文書館)

が、昨11月25日(金)開講されましたので聴講してきました。
 
 講座内容は、起請文(きしょうもん)とは? 起請文の料紙に使われた牛玉宝印(ごおうほういん)についての解説でした。
今回に限らず私的には初めて聞く用語等知らないことだらけでしたので大変勉強になった講座でした。また、このような歴史講座の
機会があれば聴講してみたいと考えています(但し、聴講者枠に入れればの話しですが)        




昨日降った雪がまだあちらこちらに残っています。会場の講堂周囲にも。




講座資料のなかの1ページ  起請文の一例です




女性教育会館敷地内(庭園)の紅葉と雪




同 上

聴講日:平成28年(2016)11月25日(金)

初雪

2016年11月25日 | 花・鳥・風景


昨日の降雪、都心では11月の積雪は54年振りとのことですが、この辺りであ何年振りなのでしょうか。
お陰でどこにも出かけられず、記録にと庭先でこの写真を撮っただけ。今朝は日が出ていますから雪も融けてくれるでしょう。
午後から出かけなければならない用事がありまして・・

養竹院 -太田道灌陣屋跡-(埼玉県川島町)

2016年11月24日 | 100名城以外の城館跡


比企郡川島町表に養竹院という寺院があり、同寺院は太田道灌の陣屋跡であるとのことから訪ねてみました。

養竹院 (太田道灌陣屋跡)

臨済宗の寺で、もとは太田道灌の陣屋があったと言われているところです。道灌の養子資家が父道灌の菩提を弔うため、鎌倉円覚寺の禅僧叔悦和尚を
開山として建立したものです。道灌は、室町時代から戦国時代にかけての扇谷上杉氏の重臣で、父資清(道真)とともに、江戸城、川越城、岩付(岩槻)城等の
築城にかかわった名将として知られ、また「享徳の乱」と「長尾景春の乱」を平定するなど知将としても著名です。道灌の名声が高まるにつれ、逆に君主の
猜疑心を生じさせることとなり、山内上杉氏の策略もあって主君扇谷上杉定正に誅殺されるという悲運の武将です。養竹院には資家の祖父太田資清(道真)、
父太田資長(道灌)、開基資家以下9代の位牌が安置されています。資家の子資頼以降の系統が岩付太田氏となります。

(埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 「比企の中世・再発見」から ■養竹院 (太田道灌陣屋跡) の項を引用転裁)

養竹院は、臨済宗円覚寺派の寺院で、山号を常楽山と言い、薬師如来を本尊とする。上記解説のように、太田資家が養父太田道灌の菩提を弔って建立したという説に対し、
資家の法名が養竹院義芳道永と号することから、資家の菩提を弔って建立されたものではないかとの説もあるようです。なお、禅僧叔悦和尚は道灌の実弟。


陣屋跡とは言え、もとより遺構等は期待していませんでしたが、それにしても・・・




寺入口の設けられた「太田道灌の陣屋跡」碑




文化財名が入った標柱
しかし 公開はされていないような記述もありました




山 門   「常楽山」の扁額(寺額)




山門前の板碑  転倒防止よはいえ金棒で押さえられては・・・




山門横の文化財案内板




本 堂
住職の自宅(?)と板張りの渡りで繋がっているようです




鐘楼と山門




六地蔵




千手観音堂

訪問日:2016(平成28)年11月16日(水)

廣徳寺 -大御堂-(埼玉県川島町)

2016年11月23日 | 神社仏閣


広徳寺の大御堂は13世紀の初め、尼将軍北条政子が美尾屋十郎広徳の菩提を弔うため、美尾屋氏の館跡に建立したものと伝えられています。
「大御堂」とは、浄土信仰の盛んな平安末期から鎌倉期にかけて建立された阿弥陀堂をさしています。現在の大御堂は室町末期に再建されたものですが、
方三間の建て方や簡素な組物などに建築当初の様式をみることができます。美尾屋十郎広徳については、水尾谷郷(川島町表)にいた御家人で、
屋島の戦いや源義経邸襲撃事件、奥州合戦等にその名が登場しています。

(埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 「比企の中世・再発見」から ■広徳寺大御堂(重文) の項を引用転載)


廣徳寺(広徳寺)は、大御山西福院と号し真言宗豊山派に属する寺院。古くは三河国誕生院の末寺であったが、元禄時代に江戸大塚の護持院の末寺となり、
更に護国寺の末寺となった。寺伝をよると、正保・享保両度の火災で大御堂、仁王門を除き、本堂や坊舎は焼失しました。

そんな北条政子ゆかりの廣徳寺を天候に恵まれた11月16日(水)に初めて訪ねてみました。主たる目的は、国指定重要文化財である「大御堂」を見ること。




廣徳寺入口   立派な山門(仁王門)がいきなり目に入ります




入ってすぐ右手にある廣徳寺古図・美尾屋十郎廣徳館跡の看板




山門(仁王門)




仁王像 ①




仁王像 ②




山門(仁王門)を裏側から   右の白い建物は「農民具憩処」




参 道




参道沿いにある廣徳寺・大御堂等の説明や由来が書かれた案内板




「廣徳寺 並 大御堂」の部分を拡大で




表 門   閉門されていましたので更にに進むと




通用門でしょうか? 開門されていましたのでここから境内に




立派な本堂があります  最近の建築でしょう




本堂を正面から




「金堂」の扁額(寺額)




御影堂 ①




御影堂 ②




燃えるような紅葉を・・・




主たる目的の「大御堂」




六地蔵




国指定重要文化財 廣徳寺大御堂 の説明石碑




美尾屋十郎廣徳乃碑




大御堂を正面から




ぐるっとまわり ①




ぐるっとまわり ②




ぐるっとまわり ③




ぐるっとまわり ④




大御堂と本堂境内の間に空堀跡を見つけました




ちょっとだけ遠景で




仁王門と大御堂


大御堂裏にある墓所に古墳があることを帰宅後知りました  いつもこんな調子で失敗しています。

散策日:2016年(平成28年)11月16日(金)

江戸城跡を歩いて(東京都千代田区)

2016年11月22日 | 日本100名城
■ 国指定特別史跡 江戸城跡



内部が公開になった富士見多聞を見に行ってきましたが、富士見多聞だけではなく皇居東御苑や皇居前広場付近を歩いて来ました。
ありきたりのしかも拙い写真ばかりですが、散策のメモリアルとして投稿しておきます。まあ、自己満足でしかありませんが・・・




大手門から東御苑に向かいました




同心番所




百人番所




大番所




千両の実  黄色の実は初めて見ました




ツワブキ




小鳥がわかりますか   大砲と言われるレンズは持っていませんので




「ショウガツザクラ」のようです




サザンカ




道いっぱいに落ち葉が  秋も終わりに近づいてきたのでしょうか




天守台  天守を復興させようと運動している方たちもいるようですが




天守から本丸広場を


i

二重橋  でもほんとは違うのですがすっかり二重橋として親しまれていますから否定はよしましょう  (正門石橋)




この橋が皇居の顔ですから




正 門  (西の丸大手門)




これが二重橋  (皇居正門鉄橋)
今ではこの鉄橋と石橋を合わせて二重橋と呼ぶようですが




巽櫓(桜田二重櫓)




桜田門  おっと違いましたね 警視庁本部ですが 桜田門の前にあることから警視庁のことを隠語で桜田門と呼んでいます




こちらがほんとの桜田門




元の名は 外桜田門 現在の桔梗門が内桜田門




桜田門(高麗門)  門を入ると




更に門が 桜田門(渡櫓門)  桝形になっています




桜田門(渡櫓門)




桜田門(渡櫓門)




皇居前広場とビル群




皇居前広場・松林とビル群




濠を泳ぐ白鳥




楠木正成公の銅像  こちら側は裏側ですが顔はこちらを向いています 皇居に背を向けるわけには行かないと・・・




和田倉噴水公園  巽櫓がよく見えます




同じく和田倉噴水公園




行幸通りの銀杏が綺麗です




正面には東京駅が見えます




あまりにも銀杏が綺麗なもので何枚も・・・




同 上




沢山の人が銀杏を楽しんでいるようです




同 上




同 上




他にも江戸城跡の門や橋が沢山あるのですが今回は(今回も)その半分も回れませんでした

散策日:2016(平成28)年11月20日(日)

皇居(旧江戸城) 富士見多聞・富士見櫓(東京都千代田区)

2016年11月21日 | 日本100名城
■ 国指定特別史跡 江戸城跡



今月15日から皇居(旧江戸城)の富士見多聞の内部が一般公開されるとともに、富士見櫓が以前より近くから見られるようになりましたので、
早速、(6日も経っているので早速でもないか)昨20日行ってきました。




中之門跡の石垣前に置かれた標識 
江戸城跡には何度か行っていますので富士見多聞、富士見櫓の場所は一応知っていますが、初めての方も多いようです。




普段は見ることが出来ない皇居・乾通りから見た富士見多聞  (2014年12月3日乾通り公開の際に撮影)
石垣の下は「蓮池濠」となっています

富士見多聞は1606年(慶長11年)に造られたが、1657年(明暦3年)の大火により焼失 1659年(万治2年)に再建




これが普段でも東御苑から見ることのできる富士見多聞の姿




日曜日ということで心配していた入場制限にはかかりませんでしたが、次から次と見学が訪れて列をなしていました。




外国人観光客の増加を目指し政府が進める国の施設の一般公開の一環ですが、目論見通り?外国の方の姿が多く見られます。




富士見多聞内の様子 パネル展示もあったようですが、格子窓から外を観ようという気持ちが先立ちパネル展示はスルー(気付かなかった)




幾つかある格子窓のうち、窓際まで行けるのは2ヵ所だけ
次々とくる見学者がいるため長居はできずに流れるように出口方向に




多聞内のほんの一部ですが・・・




格子の隙間は15センチくらいでしょうか? メートル法に依らない時代のことですので、4寸もしくは5寸くらいと言った方がよいのかも知れません。




どうにか窓際に近づいてもこの程度




更に近づき格子の間から  瓦屋根の建物は「門長屋」で、その昔は江戸城の施設の修理整備をする人たちが詰めていたとも、家臣の居所であったとも




ずーと下に向けて蓮池濠を




富士見櫓は、富士見多聞同様に明暦の大火(1657年)により天守も焼失したが、天守は再建されなかったことから天守の代わりとして使われた。
現在の富士見櫓は1659年(万治2年)に再建にされたもの




普段は見ることが出来ない皇居・乾通りから見た富士見櫓  (2004年(平成16年)1月2日 一般参賀の際に撮影)




以前はここまでしか近付けませんでした  2014年(平成26年)12月3日撮影
このころは、ここまでくる方は少なかったようで、何度か行きましたが人とかち会うことはなかった記憶があります




フェンスの位置が25メートル後退し、12メートルのところまで近づけます。また、フェンス前も整備されて広場もできていますので、複数の方が訪れても余裕です。




だいぶアップで写真が撮れるようになりました




ここにも大勢の方が。外国の方も沢山いました。かつてこんな光景はありませんでした




小さな扱いですが11月9日の新聞記事です

散策日:2016年(平成28年)11月20日(日)