荒川を見下ろす小高い山の上に建っていた「天神山城」は、天文年間(1540年ころ)、この地方の土豪で、山内上杉氏の重臣であった
藤田重利が築城したと伝えられています。関東地方に勢力を拡大してきた後北條氏の天文15年(1546年の河越夜戦以降に
北武蔵に勢力を伸ばしてきた北條氏康に重利は天文18年(1549)年7月従属しました。
氏康は、三男の乙千代(北條氏邦)を重利の養子に入れ秩父地方の統一を図ることにしたとのことです。乙千代(北條氏邦)は、
この天神山城に入り拠点としていたが、氏邦が鉢形城に移ってからは、鉢形城の支城的な存在となったようです。
そんな天神山城も、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に鉢形城と共に落城しました。
それから380年の時を過ぎた昭和45年(1970年)、長瀞町の山に白壁の城が建ちました。この城は、国道140号線からよく見えました。
私はこの城の名を「白鳥城」と聞いた覚えがあります。しかし、この頃の私は、城郭・城跡に特段の感心を持っていたわけではありませんでしたから、
この城は観光目的で建てられたものであることは理解できたものの、かつてそこに天神山城なる戦国時代の城があったところなどとは知る由もありませんでした。
そんな城もいつしか目に入らなくなりましたが、ただ漠然と、訪れる客もいなくなり取り壊したのかと思う程度で気に留めることもありませんでした。
ところが、ここ最近になって城跡に興味をもつようになり、いくつかの城跡を訪ね歩いたり歴史を調べたりしているうちに、天神山城(別名:白鳥城)
のことを知ったわけです。そして、実際の天神山城には、あのような天守(二層櫓)はなかったようですし、この擬似天守を建てるに際し、遺構がだいぶ
壊されたということも知りました。気にも留めることがなかった擬似天守は廃墟となって残っているとのことでしたので、確かこのあたりだったと探して
みたところ、木々の間にかすかに天守を捉えることができましたので撮ったのがこの写真なのです。本当なら、登城してからその状況をと思ったのですが、
まだ、登城の予定が起ちませんので取りあえずは、遠景での天神山城をと・・・
投稿日:2011年(平成23年)2月27日(日)