四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

碓氷三号橋梁=めがね橋(群馬県安中市)

2011年02月28日 | 史跡・遺跡・文化財












群馬県安中市(旧碓氷郡松井田町)にある「国指定重要文化財碓氷峠鉄道施設 碓氷三号橋梁(めがね橋)」を見に行ってきました。
鉄ちゃん(鉄道ファン)ならずとも1度は見てみたいと思うのが、このレンガによる鉄道橋ではないだろうか。
本当ならば、横川駅から廃線後のアプトの道を歩いて、複数のトンネルを抜けながら碓氷三号橋梁(めがね橋)まで行くのが良いのかもしれな。
しかし、急遽訪ねることにしたことから、その準備も余裕もなかったので、直接、「めがね橋」まで行ったのであるが・・・

この「めがね橋」を見ると、鉄道橋と水路という違いはあれ、ついつい京都・南禅寺にある「水路閣」とが重なってくる。

散策日:2011年(平成23年)2月27日(日)          

碓氷関所跡(群馬県安中市)

2011年02月28日 | 史跡・遺跡・文化財








昨日、秋間梅林での観梅のあと某所に向かいましたが、その途中、この「碓氷関所跡」に出会いましたので、
昼食を摂った横川駅前の「峠の釜めし おぎのや」から徒歩にて散策に行ってみました。
詳細は案内板を見て下さい。  

散策日:2011年(平成23年)2月27日(日)           

秋間梅林(群馬県安中市)

2011年02月27日 | 花・鳥・風景










あちらこちらの梅林で梅祭りが始まっている。しかし、未だ開花は僅かなようである。どこの梅林に行こうか? 近隣の森林公園、越生梅林、
そして、東京都青梅市の吉野梅郷には昨年行っている。同じところに行くよりも行ったことのないところに行ってみたい。かと言って一度は
行ってみたいと思っている水戸の偕楽園もまだ開花には早いようだし、自宅から片道4時間はきつすぎる。

群馬県安中市の『秋間梅園』では、本日27日「開花祭」が催されるとのことであった。この秋間梅園にも行ったことがなかったのでここにしようと・・・
開花祭の日とはいえ、全体では2~3分の開花程度。でも観梅客はそれなりに居りました。
観梅にはいくらも時間を費やしませんでしたのでが、予定外で次なるところに・・・   

散策日:2011年(平成23年)2月27日(日)         

天神山城 その歴史(埼玉県長瀞町)

2011年02月27日 | 城館雑記


荒川を見下ろす小高い山の上に建っていた「天神山城」は、天文年間(1540年ころ)、この地方の土豪で、山内上杉氏の重臣であった
藤田重利が築城したと伝えられています。関東地方に勢力を拡大してきた後北條氏の天文15年(1546年の河越夜戦以降に
北武蔵に勢力を伸ばしてきた北條氏康に重利は天文18年(1549)年7月従属しました。
氏康は、三男の乙千代(北條氏邦)を重利の養子に入れ秩父地方の統一を図ることにしたとのことです。乙千代(北條氏邦)は、
この天神山城に入り拠点としていたが、氏邦が鉢形城に移ってからは、鉢形城の支城的な存在となったようです。
そんな天神山城も、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に鉢形城と共に落城しました。

それから380年の時を過ぎた昭和45年(1970年)、長瀞町の山に白壁の城が建ちました。この城は、国道140号線からよく見えました。
私はこの城の名を「白鳥城」と聞いた覚えがあります。しかし、この頃の私は、城郭・城跡に特段の感心を持っていたわけではありませんでしたから、
この城は観光目的で建てられたものであることは理解できたものの、かつてそこに天神山城なる戦国時代の城があったところなどとは知る由もありませんでした。
そんな城もいつしか目に入らなくなりましたが、ただ漠然と、訪れる客もいなくなり取り壊したのかと思う程度で気に留めることもありませんでした。

ところが、ここ最近になって城跡に興味をもつようになり、いくつかの城跡を訪ね歩いたり歴史を調べたりしているうちに、天神山城(別名:白鳥城)
のことを知ったわけです。そして、実際の天神山城には、あのような天守(二層櫓)はなかったようですし、この擬似天守を建てるに際し、遺構がだいぶ
壊されたということも知りました。気にも留めることがなかった擬似天守は廃墟となって残っているとのことでしたので、確かこのあたりだったと探して
みたところ、木々の間にかすかに天守を捉えることができましたので撮ったのがこの写真なのです。本当なら、登城してからその状況をと思ったのですが、
まだ、登城の予定が起ちませんので取りあえずは、遠景での天神山城をと・・・ 

投稿日:2011年(平成23年)2月27日(日)          

織田宗家七代の墓(群馬県甘楽町)

2011年02月14日 | 史跡・遺跡・文化財


群馬県甘楽郡甘楽町小幡の崇福寺(そうふくじ)旧境内にある「織田宗家七代の墓」を訪ねてみました。
「織田宗家七代の墓」は、織田氏七代の墓の名称で甘楽町指定史跡(昭和38年(1963)11月1日指定)になっています。 








一番大きなこの墓が小幡藩初代藩主織田信雄の墓です




織田氏七代の墓説明板
以下は案内板に書かれた冒頭の部分です

織田氏七代の墓
織田信長の二男信雄(のぶかつ)が、元和元(1615)年、大和松山と上野小幡等で5万石の領主となった。これが、小幡織田氏の始めである。
のち、三代信昌(のぶまさ)は祖父信雄の遺命により、松山3万石を叔父織田高長(たかなが)に譲り、小幡2万石のみの領主となった。
その後、明和4(1767)年、家老吉田玄蕃(げんば)が山形大弐(やまがただいに)と
親交があったという理由で、出羽高畠2万石に移封されるまで、八代152年間の小幡藩主であった。




最近再興された小幡織田氏の菩提寺・崇福寺(そうふくじ)本堂と位牌堂。
この位牌堂の奥に、小幡藩主であった織田家十代の位牌が安置されています。

散策日: 2011年(平成23年)2月13日(日)