四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

畠山重忠が勧請した『菅谷神社』(埼玉県嵐山町)

2020年10月30日 | 神社仏閣


社 号:菅谷神社(すがや じんじゃ)
旧 称:日吉山王大権現、日枝神社
御祭神:・大山咋神(おほやまくひのかみ)
    ・保食命(うけもちのみこと)
    ・菅原道真公(すがわらのみちざね)
    ・素戔嗚尊(すさのおのみこと)
    ・畠山重忠命(はたけやま しげただ) 
創 建:建久元年(1190年)
社 格:旧村社
例 祭:10月17日
指 定:ー
鎮座地:埼玉県比企郡嵐山町菅谷608

菅谷神社は、畠山重忠の居館があったとされる『菅谷館跡』のおおむね北方約600mに所に鎮座し
ます。
この菅谷神社は、畠山重忠公が、武運長久の守護神として近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を
請願して建久元年(1190)に、近江国の日吉山王大権現として奉還勧請したのが始まりです。
明治4年(1871)に【村社】の列せられ『日枝神社』、さらに、『菅谷神社』と改称されたのです。
境内ははスギ林で、まさに鎮守の杜といった雰囲気で、遊具等も設置されており、人々の憩いの場
として親しまれています。
また、毎年11月初頭に開催される「嵐山時代まつり」の催しのひとつ【武者行列】では、ここ菅谷
神社で出陣式が行われ、まつり会場である菅谷館跡・国立女性教育会館まで向かいます。




参道入口




『社号標 菅谷神社』  裏面に「明治四拾五年壹月」とあり  明治45年 ⇔ 1912年




『菅谷神社一級社昇格 日吉大社特別参拝 記念碑』
この「一級社」とはどういう意味なのかよくわかりませんが、神社そのものの格付けではなく、当
該神社の神職の格付けによるものかと思います。
神職には「階位」「職位」があり、それに基づき特級から四級までの身分区分があって、菅谷神社
の神職が一級に昇格した。つまり、一級の神職が務める神社であることから「一級社」ということ
ではないかと解釈しました(正確なところは分りません)

※後日再度いろいろと調べたところ 神職の級とは別に、特級~9級くらいまでの現在の社格みた
 いなものがあるようです。詳細は更に調べてみないとわかりそうにありません。




参道沿いに設置されている「菅谷神社由緒」説明板

 由 緒
祭神  大山咋命 保食命 菅原朝臣道真公命 須佐之男命 畠山重忠命
由緒  本社大山咋命は元日枝神社なり是は畠山重忠年十七才にして治承四年十月武蔵国長井の渡
しの頼朝の御陣所に参し頼朝公に属して先鋒の将となり各地の戦争に大に軍功あって此の菅谷の地
を賜り依て此に新城を築き居住となし武運長久の守護神として近江国日吉山に鎮座なす(現今滋賀
県滋賀郡坂本村官幣大社日吉神社此の御分霊は日本国中即ち三府弐拾県の内に五百社之あり其の一
社の内の御分社)日吉山王権現の御分霊を畠山重忠請願に依建久元年九月十九日に奉遷勧請す故に
日吉山王大権現と称せしを明治四年神社取調の節村社に列せられ社号を日枝神社と改称す是より本
社境内に須賀神社及秩父神社の二社ありしを以て左に列記す須佐之男命は須賀神社と称して創立不
詳なれども本村成立と同時に勧請せしものと伝ふ
  菅谷神社祭日
 歳旦祭  一月三日     例大祭  十月十七日
 祈年祭  四月十五日    境内社手長男神社秋祭  十二月三日
 境内社手長男神社春祭 七月十三・十四日  新嘗祭(秋祭) 十一月二十三日
 境内社津島神社夏祭  四月三日  大 祓 十二月三十一日




参道と鳥居




鳥居の神額『菅谷神社』




参道 正面に菅谷神社社殿




社殿に向って参道の左側にある『山王宮菅谷神社 勧請八百年記念碑』




参道の右側にある『菅谷神社社務所』 裏側には『菅谷中央集会所』の看板あり




『手水舎』




『菅谷神社拝殿』
屋根は「流造(ながれづくり)」




『狛犬』  昭和20年(1945)建立




拝殿正面 向拝の頭貫には大きな社名札『菅谷神社』




棟紋  中央に【二葉葵】 左右に当社の神紋【右三つ巴】
何故【二葉葵】が!  由緒にあるよう畠山重忠が近江国の日吉神社の御分霊を請願し、勧請した
菅谷神社の当初の社名は日枝神社。
日吉神社(東本宮)の祭神は「大山咋神」であり、神紋が「二葉葵」です。菅谷神社の本社である
日吉神社の神紋は切っても切れないものでしょう。と、これまた勝手に推測してみました。

※八幡神社でよく見かける神紋は【左三つ巴】です(【右三つ巴】を神紋にしている社もあります)




拝殿入口の上に掲げられている扁額『菅谷神社』と揮毫




拝殿内




拝殿内に掲げられている扁額 当社の主祭神『大山咋神』と揮毫




社殿を斜めから




『本殿』を背後から




『菅谷神社改修記念碑』           「碑陰」
【碑陰 碑文】
菅谷神社は畠山重忠公の請願にに依り建久元年九月拾九日近江国日吉山に鎮座する日吉山王権現の
御分霊を奉還勧請し以来約八百年の歳月地域住民の守護神として厚く奉祀(?)されてきた・・・ 




『神楽殿』




境内社『稲荷神社』




境内社『津島神社』




左:稲荷神社の左斜め後方に鎮座する末社 社名は不詳
右:本殿裏手に鎮座する末社 「天神社かも」かという方も




『御神輿殿』




境内社『天手長男神社(あめのたながおじんじゃ)』




社殿前から鳥居方向を




境外末社『厳島神社』




『厳島神社』は菅谷神社と道路を挟んだ反対側にあり、かつてはここも境内の一部であったという
ような話も。現在は「菅谷公園』となっており、池の中に厳島神社は鎮座します。
朱色の橋は「辨天橋」ですが、渡れないように鎖で閉鎖されています。

参詣日:令和2年(2020)9月6日(日)


《参考写真》


「嵐山時代まつり」の【武者行列】における出陣式は菅谷神社で行われますが、出陣に先立って行
われる『三献の儀』の様子




参道で行われる『火縄銃演武』(川越藩火縄銃鉄砲隊)

畠山重忠の菅谷館の鬼門除けの『鬼鎮神社』(埼玉県嵐山町)

2020年10月29日 | 神社仏閣


社 号:鬼鎮神社(きぢん じんじゃ)
旧 称:鬼神社・鬼神明神社・川島神社
御祭神:・衝立船戸神(つきたつふなとしかみ)
    ・八衢比古命(やちまたひこのみこと)
    ・八衢比売命(やちまたひめのみこと) 
創 建:寿永元年(1182年)
社 格:旧村社
例 祭:2月3日 節分祭 他
指 定:ー
鎮座地:埼玉県比企郡嵐山町川島1898

鬼鎮神社の創建は寿永元年(1182年)で、畠山重忠が「菅谷館」築造の際に鬼門除けとして建立さ
れたのが始めとされるようです。
地図で測ったところ菅谷館跡から鬼鎮神社までは約1.7㎞であり、正に鬼門の方角である「艮(うし
とら
)」=「北東」に位置しています。
鬼鎮神社を参拝したのは3年前の節分祭以来ですが、今回は畠山重忠公に関係する神社という観点
から訪ねた次第です。




参道入口に建つ『鳥居』




鳥居の『扁額』には【鬼鎮大神社】とあります  




鳥居の右手に建つ『社号標』には【鬼鎮神社】と刻まれています




参道には『赤灯籠』が並びます





『手水舎』




「鬼神神社御由緒」

   鬼 鎮 神 社 御 由 緒
 埼玉県比企郡嵐山町に、畠山重忠公が御造営された菅谷館(菅谷城)があった。 当神社は、その鬼門
除けの守護神として、鎌倉街道に沿って建立され、節分祭、勝負の神 として有名である。
 約八百年前、安徳天皇の御代、寿永元年に創建され、御祭神は衝立船戸神、八衢比古命、 八衢比売命
で、主神の、衝立船戸神は、伊邪那岐命が黄泉の国を訪れた後、筑紫日向の橋 小門の阿波岐原で、禊祓
いをして持っていた杖を投げ出た時、杖より生まれた神である。 それが幅広く解釈されて、悪魔払いの
神、家内安全商売繁昌の神、受験の神と、人生の指 針を示し、強い力を授ける神として崇められている。
 節分祭は、鬼鎮神社において一番大きな祭りで、この日は何千何万の人々が「福は内、鬼 は内、悪魔
外」と連呼する、日本でここだけの鬼の祭りであり、境内は大変な賑わいを見 せる。
 遠く千年の昔から、勇名を馳せた坂東武者、明治以降の出征兵士の崇敬篤く、戦後は、受 験必勝の神
様として参拝者は後を絶たず、社頭を賑わしている。
 このようなことから「鬼に金棒」と昔から云われている金棒のお守り、祈願成就赤鬼青鬼の 絵馬を授
与される方が、非常に多い。




『赤鬼 青鬼』
この前に立つともう一人(匹)の鬼が現れます。  何だ!自分の姿ではないか
ですから正面からは写真を撮れません 鏡面ですから




『社殿』  『狛犬』  社殿の左側は『社務所』




『狛犬』  石の狛犬ではなく金属製のようですが青銅ではないようです




社殿屋根の『入母屋破風』 『向拝』の『唐破風』の鬼(鬼飾り)は『鬼瓦』
元々、瓦屋根の端には鬼瓦が飾られることが多く(鬼の面をしていなくても鬼瓦と呼ばれますが)
鬼鎮神社に限ったことではないわけですが、鬼鎮神社だから「鬼」という印象が強くなってしまう
のかもしれません




『入母屋破風』と『唐破風』の鬼(鬼飾り)




『向拝』
虹梁の上に【鬼鎮神社】と入った赤鬼青鬼の奉納額 その後ろの社殿上り口の上には【鬼鎮社】と揮毫
された扁額
『幔幕』には 鬼鎮神社の神紋〈五三の桐紋〉 畠山重忠の家紋を神紋にしています
賽銭箱にも〈五三の桐紋〉




上の奉納額と扁額




社殿(拝殿)内




『鬼の金棒』
遠い昔の記憶ではもっと沢山の金棒が大きなもの小さなもの取り混ぜて社殿の外壁並んでいました。
今にして思えば小さかったから小さな金棒も大きく見え数も多く感じたのかも知れないと。
否、記憶に間違いはなったようです。近年、その多くが処分されてしまったようなのです。




『神楽殿』

参詣日:令和2年(2020)9月15日(火)

♪ おねぎだよ おねぎだよ

2020年10月28日 | エトセトラ


JR高崎線「深谷駅」の電車発車メロディーは、
  ♪おねぎだよ おねぎだよ 白くてながーいあんよにさ・・・
で始まる「おねぎのマーチ」という曲のメロディーだそうです。
 無論この歌詞付の曲が流れるわけではなくメロディーだけですが。
正しくは「深谷の踊り おねぎのマーチ」のようです。
ネギの産地としてPR事業のために1998年に制作した曲で、2006年4月1日から深谷駅の電車発車
メロディーとして使われているとのこと。
深谷駅はこの曲ができる以前の何十年も前に利用したことがあるだけですから、聴いたこともなけ
れば、「おねぎのマーチ」を知ったのも最近のことです。
 作詞:星野哲郎 作曲:平尾昌晃 歌:島津亜矢  凄い! 凄すぎる組み合わせです




具は「ねぎ」だけの 『ねぎ焼きフライ』
これが食べたくて深谷市の某道の駅まで行ってきました。




こんなものも見つけました 『深谷ねぎだんご』 深谷ねぎ料理選手権グランプリ
やきとりにねぎが挟まれているのは当たり前ですが、まさかねぎだんごとは おいしかったです




深谷産ねぎを使った『ねぎみそせんべい』  これも道の駅で購入
作っているのが深谷市の業者ではなく、県内某市の食品会社というのがちょっと残念

隣りのは『ねぎ鉛筆』 いつどこで入手したのかは忘れてしまいましたが・・・

以上 深谷ねぎづくし

鐘楼のある『腰越氷川神社』(埼玉県小川町)

2020年10月27日 | 神社仏閣


社 号:氷川神社(ひかわじんじゃ)
通 称:腰越氷川神社、氷川様
御祭神:・素盞鳴尊(スサノオノミコト)
    ・奇稲田比賣命 (クシナダヒメノミコト)
    ・大那牟遅命(オオナムチノミコト)
創 建:不詳
社 格:旧指定村社
例 祭:10月18日
指 定:ー
鎮座地:埼玉県比企郡小川町腰越1382

比企三山(笠山・堂平山・大霧山)のひとつである笠山の麓ともいえる集落の鎮守である「腰越氷
川神社」を参詣してみました。
知名度も全くない小さな神社ですが、面白いことに境内に「鐘楼」があるのです。かつて神仏習合
の時代が長く続いていましたからその名残りかとも思いました。
しかし、そうではないようです。下記に当氷川神社の説明板と鐘暦なるものを載せておきます。
なお、写真右上の紋は、腰越氷川神社の神紋「八雲紋」です。




県道熊谷・小川・秩父線(県道11号線)の小川町と東秩父村の境の近くに腰越城跡がありますが、
すぐそばを流れる槻川に架かる「切通橋」を渡ってすぐのY字路を笠山方向に進みます。
槻川沿いにある道路の端に「指定村社 氷川神社」の社号標が建っています。
氷川神社へは写真左側の道路を山方向に進みます。




社号標のある所から右折して約130m進むと氷川神社参道前に着きます




『狛犬』




『鳥居』  「氷川神社」とある扁額




『社務所』




社務所の前に建っている 氷川神社説明板
氷川神社のことが簡単に説明されているだけで、鐘楼に関することは記載がありません




『拝殿』




拝殿の扁額『氷川神社』と揮毫




『拝殿内』




本殿背後は天王山と呼ばれる岩山の切り立った崖




  社殿左側にある境内社 『産泰神社』     社殿右側にある境内社 『八坂神社』




      『日枝神社』・『稲荷神社』・『稲荷神社』・『疱瘡神社』




 『手水舎』             『鐘楼』




 鐘 暦
當神社の旧梵鐘は天保癸巳十二月祥日(一四五年前)関根八十八氏発願主となり氏子一同寄進した
ものである
爾来幾星霜の歳月久しき間荘厳なる音色を発し親しまれ続けたるも大東亜戦争に遭遇し国策に則り
昭和十八年二月応召供出したものである 
茲に 
天皇陛下御在位五十年を記念して氏子一同心を合せ梵鐘を再鋳発願し天下泰平国家安泰家内繁盛を
祈願し奉献するものである
昭和五十二年十月十八日 
  氷川神社宮司 馬場亀作  
  同    発 願 者 一 同

天保癸巳は天保4年(1833)ですから江戸時代の後期です。鐘暦の日付 十月十八日 は、祭礼の日
に合わせたようです
この「鐘暦」を読んでも、なぜここに鐘楼があるのかや、寺院があったともないとも一切書かれて
いませんが、氷川神社の氏子が梵鐘を寄進したことだけは分りました。
神仏習合の名残りならともかく、梵鐘(鐘楼)はお寺さんにあるもので神社にはないという考え(思
い込み)があったことから、神社に梵鐘があることが不思議だったのです。
知識教養がない故の疑問も当神社の氏子さんにお聞きすれば解決するのでしょうが・・・




『梵鐘』
 表面に 【天皇陛下御在位五十年記念】  撞座のある面に 【氷川神社寄進梵鐘】
 側面に 【宮司馬場亀作  腰越氏子講中  昭和五十二年十月十八日】
 反対側面には寄進者の氏子の名が入っています




社殿の左側にある岩山の割れ目の前に鳥居が立っています




中には石祠が数基あります  この岩山が信仰の対象だったのかもしれません
ここもこの氷川神社の特徴的な場所かもしれませんね。




崖上には「御嶽山大神、三笠山大神、八海山大神」と彫られた碑が建つということですが、ここま
で登ってやめました・・・

参詣日:令和2年(2020)9月13日(日)

マリーゴールドの丘公園(埼玉県本庄市)

2020年10月25日 | 花・鳥・風景


『マリーゴールドの丘公園』(本庄市早稲田の杜)でマリーゴールドを鑑賞してきました。
早稲田大学本庄キャンパスに「本庄早稲田の杜ミュージアム」での企画展を見ての帰りに寄ったも
ので、昨年12月に二度ほど別の用事でここを訪ねましたが、この時はマリーゴルドの時季ではあり
ませんでしので・・・












散策日:令和2年(2020)10月24日(土)

企画展『室町・戦国期の児玉・深谷地域』

2020年10月24日 | 企画展・見学会


本庄市と早稲田大学は連携して、地域の歴史と文化などを未来の世代に受け継いでいくため、新た
に早稲田大学本庄キャンパスに「本庄早稲田の杜ミュージアム」を設置し、今月15日に開館しま
した。
開館に併せて

 本庄早稲田の杜ミュージアム第1回企画展
 本庄早稲田の杜 地域連携展覧会
  『室町・戦国期の児玉・深谷地域』

が開催されていますので見学に行ってきました。
会場は早稲田リサーチパーク・コミュニケーションセンターで本庄早稲田の杜ミュージアムは1階 
企画展は2階情報資料室です




「本庄早稲田の杜ミュージアム」は、本庄市展示室と早稲田大学展示室に分かれ、本庄市展示室は
多種多様の埴輪を展示する埴輪エリアと、旧石器時代に始まる市の歴史が学べる通史エリア
早稲田大学エリアは同大学キャンパス収蔵の文化財の展示

企画展は、本庄市・美里町・神川町・上里町・深谷市の城館跡や遺跡からの出土品である陶器、瓦、
かわらけ等の展示
早稲田大学は、下戸塚遺跡の出土品を展示

見学日:令和2年(2020)10月24日(土)

北条氏邦が領内の鬼門鎮護として崇拝した『足高神社』(埼玉県深谷市)

2020年10月23日 | 神社仏閣


社 号:足高神社(あしたかじんじゃ)
別 称:ー
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
創 建:不詳
社 格:旧村社
例 祭:10月15日 秋季例祭
指 定:ー
鎮座地:埼玉県深谷市武蔵野3283(旧・大里郡花園町)

鉢形城を拠点とし、武蔵北部に勢力を持った戦国時代の武将北条氏邦が鬼門鎮護として崇敬された
旧花園町に鎮座する足高神社を訪ねてみました。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
御創建の年代は不詳ではありますが、室町時代末期鉢形城城主北条邦により領内の鬼門鎮護として
厚く崇拝されていたと伝わります。氏邦は毎年九月二十八日を恒例日と定め、家臣を率いて参拝し
幣帛及び神饌を奉り祭礼を執行したといわれています。その際、神饌を奉るのに使われた御膳が、
足高の膳であったことに由来し当神社を足髙神社と呼ぶようになったとも伝えています。
かつて御祭神については伝えがなく、長らく祭神不詳となっておりました。ところが大正年間、古
い版木に刻まれた神代文字を解読したところ「おほものぬしのかみ」(大物主神)と読めることが
判明し、大正十年に正式に届けられ認められました。 (後略)
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
                             《足高神社 「ご由緒」 より》




神社入口




『鳥居』




『社号標』【村社足高大神社】と刻まれている




『手水舎』
後ろに見えるのが『社務所』




『参道』  左側掲示板の横に下の「八坂神社」が鎮座




『八坂神社』




『狛犬』




『拝殿』




『扁額』 【足高明神】と揮毫されているようですが自信はありません




『拝殿内』 社額にも社号標同様に【足高大神社』とあります




社殿を斜めから  社殿の右側、背後には石に刻んだ神様や祠が幾つも並んでいます
全部は紹介できませんが幾つかを追って載せておきます




『本殿』




【足高大神】と入っている本殿大棟の鬼飾り




『塞神社』




『弎㠀(三島)大神』   『仙元大神』




『稲荷神社』




『天神社』




『天手長男神社』




石碑群

参拝日:令和2年(2020)9月27日(日)

鎌倉街道上道に面して鎮座する『武蔵野八幡神社』(埼玉県深谷市)

2020年10月21日 | 神社仏閣


社 号:八幡神社(はちまんじんじゃ)
通 称:武蔵野八幡神社
御祭神:誉田別命(ほんだわけのみこと)
創 建:不詳
社 格:旧村社
例 祭:不明
指 定:ー
鎮座地:埼玉県深谷市武蔵野3283(旧・大里郡花園町)

武蔵野の範囲について明確な定義はないそうですが、「埼玉県川越以南、東京都府中までの間に
拡がる地域」であり、また広義には「武蔵国全部」を指すこともあるとされるようです。
イメージ的には府中市近辺を想像し、大里郡市を武蔵野と呼ぶには違和感があります(私的には)
しかし、旧花園町には武蔵野という地名(武蔵野村)が昔からあり、そこに鎮座する八幡神社で
あることから武蔵野八幡神社と呼ばれるようです。
境内には、当神社の由緒等を示す説明板の類いはなく、神社の詳細は分りません。

武蔵野八幡神社 御由緒 
 当社の西側を通る県道小前田・児玉線は、建久三年(1192)源頼朝が鎌倉幕府を開いてから整備した
鎌倉街道であると伝えている。頼朝やそれに従った者たちの八幡信仰はよく知られている。
 当社も、この街道を通って、鎌倉に向かった当地の武将が信仰したものなのであろう。江戸期は、当
社の北東に位置する浄土宗常光寺が別当で、祭祀を司っていた。その後、明治に入り、政府から神仏分
離令、次いで神社合祀政策が打ち出された。当社も、明治四十一年には、字東宿地の無格社大荒神社、
字正法寺の無格社諏訪大神社を合祀し、社名を八幡大神社と改めた。更に、翌四十二年には、字宮地の
村社十二社大神社及びその境内社八幡大神社を合祀した。この折、字風原の村社足高大神社も合祀する
予定であったが、賛同が得られず中止となった。
 このため足高大神社は、合祀された十二社大神社の氏子への配慮から、社名を大正四年に武蔵野神社
に改めた。また、一旦合祀された十二社大神社は、昭和二十八年に地元の氏子の強い要望により、十二
社神社の社名で字濡僧の地に分祀され、当社も八幡神社の旧称に復した。
                             埼玉の神社、埼玉県神社庁より引用

                                       


旧鎌倉街道上道(埼玉県道175号・小前田児玉線)に面して鎮座する八幡神社
左側にあるのは『鎌倉街道(上道)のみちすじ』案内板




『社号標』【八幡神社】




鳥居の扁額【八幡神社】




参道  左側の建物が『社務所』




『八幡神社社殿』




『狛犬』




『扁額』(社号額)【八幡大神】と揮毫(明治の元勲正三位犬養毅の書)




社殿を斜めから




拝殿側面に掲げられている『日露戦役記念額』(陸軍元帥野津道貫の書)




『本殿』




本殿上部




本殿主棟の鬼飾りには「右三つ巴」紋が施されている




本殿正面を透塀の隙間から




本殿側面の彫刻




本殿背後の「末社殿」  【末社】と揮毫された額が付いた鳥居まで建っています
左から  秋葉神社・蚕影神社・琴平神社・稲荷神社・山神社・八坂神社・天手長男神社・伊奈利
神社・浅間神社・道祖神社・諏訪神社・古峰神社・大荒神社  のようです


<

『天神宮』(左側の石祠)と『辨財天』
 



『仙元大日神』




本殿裏側から拝殿方向

参拝日:令和2年(2020)9月27日(日)

伝木曽義仲産湯の清水のある『鎌形八幡神社』(埼玉県嵐山町)

2020年10月20日 | 神社仏閣


社 号:八幡神社(はちまん じんじゃ)
別 称:鎌形八幡神社
御祭神:・誉田別命(ほむだわけのみこと)
    ・比売大神(ひめのおおかみ)
    ・神功皇后(じんぐうこうごう)
創 祀:坂上田村麻呂 
創 建:延暦年間 (782~806年)
社 格:旧郷社
例 祭:不明
指 定:・町指定有形文化財(名称:貞和の懸仏 昭和36年〔1961〕8月31日指定)
    ・町指定記念物史跡(名称:伝木曽義仲産湯の清水 昭和37年〔1962〕9月1日指定)
    ・町指定有形文化財(名称:鎌形八幡神社本殿 昭和60年〔1985〕12月1日指定)
鎮座地:埼玉県比企郡嵐山町鎌形1993

鎌形八幡神社は、平安時代初期の延暦年間 に坂上田村麻呂が宇佐八幡宮の御霊を迎えて祀ったの
が始めだと言い伝えられています。その後は源氏の氏神として大切にされ、境内には『伝木曽義仲
産湯の清水」もあります。2年置き位で参詣・参詣しております。
この鎌形八幡神社については、過去に少しだけ触れたことがありますが、投稿し直そうと今回訪問
してきました。
当社に関してはまだまだ分からない事柄が多くありますがおいおい調べていきたいと思います。




鎌形八幡神社入口




境内  『一の鳥居』と『社号標』(【郷社 八幡神社】)
社号標の裏面には【昭和二年八月一日昇格】とあり




『参道』と『一の鳥居』




『鎌形八幡神社』説明板




一の鳥居の右横に設置されている「貞和の懸仏」説明板

町指定有形文化財 工芸品  貞 和 の 懸 仏(じょうわ の かけぼとけ)
   指 定  昭和三十六年八月三十一日
   所 在  大字鎌形  鎌形八幡神社
   時 代  貞和四年(一三四八)南北朝時代
   大きさ  直径約十七センチメートル
     本文略

ちょっと読めませんね。現物でも読むには苦労します




『二の鳥居』
撮ってきた写真を整理していたら、これまで何回か撮った境内の写真となんか違う
「なんだろ~」と思ったら境内に何本も立っている「木曽義仲公」と染め抜かれた幟がない
雨天続きであったから取り外したのかもしれないと・・・
皆さんの写真にも必ず写っている「木曽義仲公」の幟が立っていない鎌形八幡神社は鎌形八幡神社
ではないということで、過去の写真の中から使えそうな幟を見つけて切り取って貼り合わせてみま
した




二の鳥居の次は『石灯籠』




門と言えば門のようですが、何のための何という建物か調べてみましたが正直分りませんでした
『割拝殿』?




『扁額』 【八幡宮】と判読しましたが間違っているでしょうか?




遊び心で額縁風にしてみました




正面に『社殿』  石段の下右手に『手水舎』




『狛犬』  平成五年四月吉日 建立




『手水舎』  これが『伝木曽義仲産湯の清水』と称されるものである
鎌形には七カ所の湧水があって、古来より「鎌形の七清水」と呼ばれ、その一つがこの鎌形八幡神
社の清水であると言います。
そして、この七清水或いは一つの清水が木曽義仲(駒王丸)の産湯に使われたという伝えがあり、
ここ以外の六つの清水は枯れてしまっていると言います。実際にこの鎌形八幡神社の湧水が産湯に
使われたかを知る術はありませんが、使われてはいないと否定することもできません。
この「産湯の清水」と称するものは大正15年(1926)2月19日に、埼玉県指定の史跡になったとい
うことです(指定名称については不明ですが)。しかし戦後指定を解除されました。
村では村民の民情と要望に応え、村指定史跡にすることとしましたが、信憑性に欠け、伝説的なも
のであることから「伝」を付け『伝木曽義仲産湯の清水』としたというような話があります。なお、
この時はまだ「菅谷村」で町制施行で「嵐山町」になったのは昭和42年4月1日です。




清水を水盤に流し込む竹の筧を横から




清水が筧に落ち込む状況




『水盤』には 【享保十五年正月】(1730年)と刻まれています




『木曽義仲産湯の清水』碑
この石碑には由緒はおろか建立日、建立者名は刻まれていません。ただ、【木曽義仲産湯の清水】
と刻まれているだけです。
建立日や建立者名を入れなかった意図について深くは詮索しませんが、こうして石碑を建てたこと
により既製事実化させ、「伝」とは言え、「木曽義仲産湯の清水」として認知され、人々の知ると
ころとなった一因であることは確かでしょう。歴史とはロマンですから・・・




『社殿』を正面から
社殿の正面前は狭くて正面全体の写真は無理ですので石段の途中から




『社殿』全体  台地の隅ギリギリから撮ってやっとこの程度




『扁額』 【八幡神社】と揮毫




『向拝』の彫刻




嵐山町指定 建造物 鎌形八幡神社本殿
   指定  昭和三十六十年十二月一日
   所在  嵐山町大字鎌形八幡神社
   時代  江戸時代
〔本文概略〕
正面の建物は拝殿を兼ねた覆屋であり、本殿はその中に納められている。中の本殿が町指定文化
財で、簡素な一間社流し造り。本殿の建立は棟札から寛延2年(1749)である。 




社殿前から境内を見下ろしてみました




     『瀬戸神社』                『八坂神社』
社殿に向って左側に鎮座




    『山の神』          『天神宮』          「白和瀬神社』
社殿背後の右側に鎮座




『護国神社』 社殿に向って石段下左側に鎮座




『金比羅神社』  伝木曽義仲産湯の清水はこの神社の周りの池にも注がれています




都幾川に架かる『八幡橋』と鎌形八幡神社の杜

散策・参詣日:令和2年(2020)9月15日(火)

鎌倉幕府最後の将軍守邦親王が勧請したと伝わる『大塚八幡神社』(埼玉県小川町)

2020年10月18日 | 神社仏閣


社 号:八幡神社(はちまん じんじゃ)
別 称:大塚八幡神社
御祭神:・誉田別命(ほむだわけのみこと)
    ・保食命(うけもちのみこと)
    ・大山咋命(おおやまくいのみこと)
    ・天照大御神(あまてらすおおみかみ)
    ・豊受大神(とようけおおみかみ)
創 建:元弘3年(1333年)
社 格:旧郷社
例 祭:10月19日 例大祭
指 定:ー
鎮座地:埼玉県比企郡小川町大塚428

小川町大塚の八幡神社の境内には古くから神明社が祀られていたと言います、元弘の乱によって、
元弘3年(1333)5月22日に鎌倉幕府が滅ぶと第九代将軍であった守邦親王は将軍職を退任して出家
し、同年8月16日に33歳の若さで鎌倉で薨じている
そんな鎌倉で薨じたはずの守邦親王は、鎌倉幕府滅亡の際、この地に逃れて仮寓し、鎌倉の鶴岡
八幡宮を当地に勧請したのがこの大塚の八幡神社であるとの言い伝えがあります。
これはあくまで伝承であって信憑性はほとんどないものでしょうが、こうした伝承を生むにそれ
なりの背景があったのではないでしょうか。それと共になぜか鎌倉とは縁があるこの地方です。
そんな八幡神社は何度も訪れていますので、ここでこれまで撮って来た写真の中から、枚数の許
す範囲で紹介したいと思います。

八幡神社創建については別の説もあるようですが、そこにまで触れるとややこしくなってしまい
ますのであくまで守邦親王という伝承のもとに・・・

『八幡神社の例大祭』⇐ブログ記事リンク




『一の鳥居』(紀元二千六百年記念 昭和拾五年四月建 氏子中)と刻まれています
社号標『八幡神社参道』(紀元二千六百年四月 氏子中 昭和四十九年三月再建)と刻まれています
この『一の鳥居』は八幡神社の東方約350mに位置しています
一の鳥居から神社までの間に現在灯籠等はありませんが、かつては石灯籠が建っていたようでその
痕跡があります




参道を直進すると八幡神社の東側に突き当たります
二の鳥居、境内正面の参道は南側にあります
神社左側には当社別当の「梅皇山梅岑寺」(修験寺)がありましたが神仏分離・廃仏毀釈により廃
寺となっています




境内東側の玉垣の内側に設置されている「八幡神社」説明板
 
   八 幡 神 社
                          所在地 比企郡小川町大字大塚
 八幡神社は、元弘三年(1333)に、創建されたと伝えられている。
 鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王は、慈光寺山麓の古寺の里に亡命し土豪猿尾氏に
迎えられ、この梅香岡に仮寓したという言伝えがある。
 守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが、八幡神社のはじまりであるといわれている。
 慶安二年(1649)、三代将軍家光より社領十石二十斗を賜って以来歴代将軍から、御朱印を受けて
いたと伝えられている。
 守邦親王が生前、小字的場で馬術を練習した故事にならって境内でかつて流鏑馬や馬くらべが行
われていた。
 八幡神社の大けやきは、町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げ
るため、この地の井戸はどんな日照りでも水が枯れることがないと言われている。
 昭和五十九年三月
                            埼玉県・小川町




二の鳥居前を東西に走る道路
かつて「流鏑馬神事」が行われていたころ、ここを神馬が疾走しました
見物は両側の土塁に上がって・・・流鏑馬が行われていたころはアスファルト舗装はされていませ
んでしたし道幅はもっと狭かった また 玉垣もありませんでした




境内正面参道入り口
社号標『郷社 八幡神社』 (昭和九年九月)と刻まれています
旧社格の【郷社】の文字はコンクリートを埋めて一応消した形になっています




『二の鳥居』  (明治四十四年十二月建之)と刻まれています




扁額『八幡神社』と揮毫




参道沿いには四対の『石灯籠』が奉納されています
二の鳥居手前に一対 鳥居のすぐ後ろに一対 と この写真に写っている二対の計四対です




『手水舎』
水盤には 【天文四己未九月吉日己未(1739年) 八幡宮御中  梅岑寺勝房・信州高遠住福】
と刻まれている
 



左:『向拝・境内社・社務所新築記念碑』(昭和六十二年(1987)四月建立)
右:『社務所・競馬場建設碑』(昭和二年(1927)十月建立)




『神楽殿』




手前にある『石灯籠』の側面には
 【左の石灯籠】 安永六年 丁酉之春三月吉日(1777年)  【右の石灯籠】 梅岑寺勝清
と刻まれています
石灯籠の先には 『狛犬』 『狛鳩』 『狛犬(小型)』の三対が並んでいます




『狛犬』
   大正四年三月吉日建(1942年)      東京都日本橋室町壹丁目 納主 山本徳次郎 
と左右の狛犬の台座裏面に刻まれています
山本徳次郎さんは「株式会社山本海苔店」の社長さん 山本海苔店の当主は代々徳次郎の名を受け
継いでいますがこの納主の徳次郎さんは二代目あたりでしょうか




『拝殿』




『狛鳩』
鳩は八幡神の使いですから  でも珍しい




『狛犬』 明治廿二年一月(1889年)建立
右側の狛犬の顔は別のものを付けて繋げています




拝殿正面  これと言った彫刻は施されていません




拝殿扁額『八幡宮』と揮毫
横書きに扁額は珍しい 現在の社名「八幡神社」ではなく旧社名「八幡宮」を使っています




八幡神社の  御祭神 境内社 御祭事  が列記された額




『拝殿内』
拝殿は普段は戸締りされていて、のぞき窓もありませんから中を覗くことはほぼ困難です
中央にある扁額は縦書きで『八幡神社』 右にある縦書きの『八幡宮』の扁額の【八】の文字は鳩
が向き合った形です
この写真は令和27年(2015)の例大祭の時に撮ったものです




『社殿』を左斜めから




『本殿』




社殿と『社務所』




社務所玄関(左)と社殿裏にある『町営八幡台グラウンド』(右)
かつてこのグラウンドは『馬場』でした 
半世紀以上も前のことです、既に競馬を行われていませんでしたがトラックが残っていて、トラッ
クの内側は畑として使われていました




整然と並んだ境内社群
個々の社はこの覆屋の中に鎮座します
以下に覆屋を左から載せますが、中の社までは載せきれませんので省略します(それでは意味がな
いと言われそうです)
また、社名については社名札がなかったり不鮮明だったりしますので、必ずしも列記した通りでは
ないかもしれませんことを先に断っておきます




              『疱瘡神社』 ・ 『寅稲荷神社』




                   『天満宮』




    『秋葉神社』・『天手長男神社』・『琴平神社』    『産泰神社』




         『高良神社』・『高龗神社』・『新羅神社』・『稲荷神社』  『石祠』


 
                 『納札所』




『庚申塔』  文化14年(1817)5月
境内南東隅に建立されています




『八幡神社の大ケヤキ』
小川町指定天然記念物 昭和53年(1978)3月17日指定




『芭蕉句碑』
【者流もやゝ氣色とゝ乃ふ月登梅】(春もやや気色ととのふ月と梅)
天保2年(1831) 梅皇山梅岑寺の修験者・勝道 建立




八幡神社南側  広い境内ですので全部は納まりきれません

参詣・散策日:数え切れません