天神山城跡 (埼玉県長瀞町岩田) 別名:白鳥城 根古屋城 標高:226m 比高:100m 山城 埼玉県選定重要遺跡
平安時代からこの地を治めていた藤田氏の城。藤田氏は室町期には関東管領上杉氏の重臣となり、
天神山城は天文年間(1532~1555)に藤田重利(のち康邦)が築いたと伝えられる。
1546(天文15)年の河越夜戦以降に北関東に勢力を伸ばしてきた北條氏康に、1549(天文18)年7月、重利は従属し、
氏康の四男氏邦を娘婿に迎える1560(永禄3)年に上杉謙信が関東侵攻を開始すると藤田氏は上杉方につくも、同年9月に
北条氏によって攻め落とされた。1564(永禄7)年頃に氏邦が入城した。氏邦は1568(永禄11)年10月から
翌年9月の間に鉢形城に居城を移したが、その後も天神山城は鉢形城の支城として使われ、1590(天正18)年の
小田原征伐の際に、鉢形落城と共に開城したといわれている。
1970(昭和45)年、観光目的として本丸跡に模擬二重櫓(鉄筋コンクリート製)が建設されたが、採算あわず倒産し模擬天守も放置された。
自身の記憶ですと観光用に建てられたこの模擬二重櫓は「白鳥城」とも呼ばれ、国道140号線からもよく見えたものでした。
そんな天神山城跡を攻城したいと思いつつも荒れ果てた現状のことを知り、攻めることに臆病になっていましたが、
攻め切れぬことを覚悟で漸く攻めてみました。
トップに使った写真は、2011(平成23)年2月20日に天神山城跡の模擬櫓を写せるところはないかと探し、
R140中野上交差点のコンビニ駐車場から、コンデジで思いっきりズームして撮ったものです。
この縄張図かこれに代わるものをもって攻城すればよかったものを今回も手ぶらで行ってしまいました。
4年前と同じくコンビニの駐車場から撮ってみましたが、季節が違うとはいえ年ごとに櫓が見えなくなっていきます。
皆さんこの白鳥神社の裏手から攻めているようですので自身もそれに倣って
白鳥神社についての案内板 天神山城についても少しですが触れられています
ここはまだ神社の脇ですから道もはっきりしています
どうにか道らしきところを探して登りますがすぐ脇は急斜面です
本郭の北方にある腰郭? ここまで斜面を横に歩いて
削平地です 腰郭跡でしょうか
竪堀跡のようですがこの状態ではよくわかりません まして写真ではまったくわかりません
こちらは横堀ですが上の竪堀同様によくわかりません
天守を模した模擬二重櫓が見えてきました 櫓西側は絶壁です
これぞ噂に聞きし廃墟となった模擬二重櫓 昭和の落城といったところでしょう 昭和の城の遺構です(ものは言いようで)
随分と小ぶりな二重櫓です これでは入城できる観光客も限られてしまったでしょうね
場所をちょっと移動しただけで木立に隠れてしまします
梅鉢紋ですね 藤田氏の上り藤でも北条氏の三鱗でもないということは昭和の城主の家紋でしょうか
赤茶けた高欄も築城当時は黒かったのでしょうか それとも朱色だったのでしょうか
あちこち朽ちています いつ何が落ちてくるか不安になります
外から見るだけに留めました
模擬二重櫓東側
模擬二重櫓東側にある竪堀 やはり写真では立体感がありません
本郭と二の郭の間に架かる鉄の橋を二の郭側から
二の郭跡、三の郭跡方向ですが藪で何が何やらわかりませんし境もわかりません とても遺構どころではありません
鉄の橋の下の堀切 堀底に降りてまで写真を撮る勇気はありませんでした
二の郭北側に残る石積 ①
二の郭北側に残る石積 ②
二の郭北側に残る石積 ③
二の郭西側の腰郭跡?
二の郭跡なのか三の郭跡なのか 破壊されてしまったようですのでよくわかりません
ここも腰郭跡でしょうか とにかく破壊と藪で
三の郭跡だと思うのですが?
二の郭跡の物見櫓? 二の郭、三の郭を壊して造った駐車場の監視台だったかもしれませんね
トイレ跡です 中をちょっと覗いて見たら今風のトイレで「厠」ではありませんでした
この下あたりに出郭跡があるようでしたが、老いた雑兵ひとりではとても攻められる状態ではありません。
何の未練もなくと言ったら嘘になりますが、これだけ見れば十分と来た道を帰ることにしました。
攻城日:2015年(平成27年)4月22日(水)