四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

設楽氏陣屋(埼玉県加須市)

2018年04月29日 | 100名城以外の城館跡


徳川家康の旗本設楽氏が拝領地である武蔵国礼羽(現在の加須市礼羽=らいは)に構えた陣屋跡をを訪ねて見ました。
陣屋跡とされる場所はあくまで推定地に過ぎないようで、「伝承 陣屋跡」の標柱が建っているだけで遺構はありません。
何もないからこそ標柱は城館跡探訪にとっては貴重です。関係者のそんな配慮に感謝の意を込めて散策してみました。

設楽氏は三河国設楽郡が発祥の地で、設楽氏陣屋(礼羽陣屋)は、加須・礼羽・馬内の旧3ヶ村1500石を賜った設楽貞清
が築いた陣屋で、貞清の嫡子・貞代の領主時代に加増により戸崎を与えられて2150石となっています。のち陣屋は加須に
移りましたが、その加須に移った場所は、加須駅の北西に位置するとされています。




標柱側面に記載された解説文

約400年前、徳川家康に従って江戸入りをした旗本、設楽甚三郎貞清は加須・礼羽・馬内・戸崎の旧4ヶ村を賜りました。
低湿地だった旧4ヶ村は文禄3年(1594)に利根川を東に流す大工事の結果、水田として開発され、以後明治になるまで
設楽家の知行地となっていました。設楽家は江戸に屋敷を持ち、年貢徴収などの領地支配のため加須のこの地に陣屋を置きま
した。設楽氏累代の墓地は市内馬内の香積寺にあります。        
  昭和63年3月   加須市教育委員会




黄色の丸印の所に「伝承 礼羽館」の標柱が建っています。伝・礼羽館については別記事にしてあります。




金蓮院
伝・陣屋跡と同じ礼羽地内にあるり、設楽貞清の開基によるものです
陣屋跡の遺構はありませんが、設楽氏関係のものですからスルーするわけにはいきませんので




早速、六地蔵尊がお出迎えです。




本堂




院号「金蓮院」の扁額




鐘楼




香積寺
やはり設楽貞清開基によるもので、こちらは加須市馬内にあります
実は、この香積寺を探すにあたり、香積寺のある地名(大字名)を思い違いしていたため、検索しても該当番地なし、近い番
地に行っても香積寺らしきものは見当たらずに何度も行ったり来たり。ある所である方に「香積寺でどこか分りますか?」と
お聞きしたところ、「馬内ってところにある。ほらあそこに見える建物の裏の道を・・・」と親切に教えていただきどうにか
辿り着いたという、またまた恥ずかしいお話です。




立派な山門です




門を入ると「加須市指定史跡 設楽家累代の墓」 「加須市指定有形文化財 木造寄木造釈迦如来坐像」の標柱があります




鐘楼




本堂




本堂に架かっている寺号「香積寺」扁額





本堂前に建てられている「加須市指定有形文化財 木造寄木造釈迦如来坐像」説明板
設楽氏の造立寄進とあります  (実際の坐像は見ておりませんが)




設楽家累代の墓地




設楽家累代の墓の説明板ですが、設楽氏の簡単な歴史も述べられています。

伝・(設楽氏)陣屋跡と設楽氏開基のお寺ふたつを見て回りましたが、礼羽から移った加須駅近くの陣屋跡までは散策の足を
延ばせませんでした。

なお、鉢形北条家臣で鉢形城落城後、秩父郡皆野町金沢に移住し帰農して居館を構えた設楽金太夫と、この設楽氏との関係は
不明です。

散策日:平成30年(2018)4月17日(火)

礼羽館(埼玉県加須市)

2018年04月27日 | 100名城以外の城館跡


埼玉県加須市礼羽に所在したとされるする鎌倉幕府の御家人礼羽氏の館跡を訪ねてみました。(礼羽=らいは)
礼羽館に関する詳細は不詳で、館跡と言っても伝であり特定された場所があるわけでもないようです。伝・館跡は畑と宅地で
遺構はありませんが、標柱が建っています。城館探訪にとって遺構がないだけに標柱はありがたいものです。




標柱の側面に説明が書かれているのですが直ぐ脇に電柱が建っているために正対して読んだり写真を撮ったりすることができ
ません。書かれている説明は次の通りです。

「吾妻鏡」によると建保元年(1213)5月2日に和田義盛が挙兵し鎌倉幕府を襲撃しました。その際、義盛の3男義秀の乱
入を防ごうとして義秀に討たれた武士の中に礼羽氏の礼羽蓬乗の名がみえます。礼羽には番場、早道場、沖坊など礼羽氏に関
する地名がみられます。このあたりは礼羽氏の館があったところと古くから言い伝えられています。礼羽氏が館を構えたので
その地名がついたのか、地名をとってその姓にしたのかは不明ですが、礼羽氏とこの地は深い関わりがあります。
平成元年3月   加須市教育委員会

※「建保」と改元されたのは1213年12月6日ですから、この5月2日はまだ「建暦3年」の筈ですが? 




ここから100m有るか無いかの所にもう一つ「伝承 陣屋跡」の標柱があります(黄色の丸印)
徳川家康の旗本設楽氏の陣屋がこの地に置かれたとあります。これについては別記事にしたいと思います。




更に、この「伝承 陣屋跡」標柱のある付近に「石皿」のことが書かれた説明板があるとの事前情報から付近の歩いてみまし
たら、標柱の建つ一角の南側にある旧家の屋敷前の堀の中に、「加須市指定有形文化財 石皿」とある標柱を発見。
説明板は外からでも見れば見えるのですが、屋敷の庭に建っていました。幸い当屋敷の奥さんと思われる女性が堀の中の芹か
何かを摘んでいましたので、説明板を見せて下さいとお願いしました。説明板だけではなく、「石皿を見せるよ」と予想外の
言葉が返ってきました。このお宅に石皿の現物が保管されているとは全く考えもしていなかったからです。

奥さんは野草を摘むのを中断し、私を玄関先まで案内し、旦那さんに石皿の話をすると、旦那さんは一旦部屋に入り、石皿と
土器の破片を持ってきて、玄関先の椅子の置いてくれたのです。




石皿の説明板




見せていただいた石皿と土器の破片




同上

ほんとに貴重な思い出となりました。

散策日:平成30年(2018)4月17日(火)

石戸城(埼玉県北本市)

2018年04月26日 | 100名城以外の城館跡


城 名:石戸城(いしどじょう)
別 名:天神山城
形 態:平城
時 期:室町時代長禄年間(15世紀後半)
築城主:藤田八右衛門
城 主:藤田八右衛門・毛利丹後守・依田大膳亮
遺 構:土塁・空堀・沼・一夜堤
指 定:県選定重要遺跡(石戸城跡 昭和44年(1969)10月1日選定)
現 状:山林・宅地
所在地:埼玉県北本市石戸宿6

大宮台地西端の北に延びる舌状台地先端部に築城されたのがこの石戸城です。東、北、西は急崖、西は荒川河川敷、北と東は
溺れ谷となっていて、城域は南北250mに及ぶ。戦国時代には岩付城の付城として機能し、松山城に対する向城として重要
な役割を担っていた。岩付城主太田資頼は北条氏綱に岩付城を攻められた済にはこの石戸城に逃げ込んでいる。




四の郭脇から北方に石戸城跡を望む 五の郭南西隅に目障りなものが2つも建っています




石戸城跡説明板
以前(平成28年秋)に訪れたときは、プリントした説明文と地図を板に貼りつけビニールで覆っただけの簡素のものでした。
この時はその説明板を見ただけで帰ってきてしまいましたが、その半年後にはこんな立派な説明板に代わっていたようです。




石戸城跡見取図




説明板脇から見た五の郭  窪みは堀跡(推定)




同じく説明板脇から見た三の郭方向




五の郭南側の道路  住宅のある辺りが三の郭




四の郭を南方から北方に




四の郭南側にある空堀跡




四の郭脇から北方にある一の郭(主郭)方向を
右側の車がとまっているエリアも一の郭(主郭)であるが道路によって分断されている




一の郭(主郭)西側部分




一の郭(主郭)の電柱横に何か見えます




石戸城跡の説明板です
五の郭の所で以前見た説明板の半分くらいの大きさです  
その以前見たものよりも古い日付のもので文面も若干の違いがあります これを含め3種の説明板を見たことになりますが内
容自体には変わりはないものの文面・図面配置はそれぞれ異なっています(こんな話より遺構のお話をと言われそうですね)




分断されている東側の一の郭の中に物見櫓台と推定される地形が見えますが、一般の住宅内なので撮影しづらく遠目から
U字型のテントの後方に見える高まり




分断されている一の郭(主郭)東側の土塁  土塁の先に見えるのが桜堤




土塁断面 土塁の上にまではさすが上がりませんでしたが




土塁北側から南方の郭内方向を




一の郭と三の郭の間の堀切(切通し)  左側が一の郭 右側が三の郭




桜堤から降りてきた道と合流する堀切(切通し) 下に進んで右折すると一夜堤方向へ




三の郭の東側土塁の外側に設置されている案内板




一夜堤口を示す案内板




遊歩道案内図




案内板後ろに見える三の郭の東側土塁の一部




「この先私有地です。入らないでください。」の立て看板
ここに限らず不法侵入する輩が後を絶たないようですね。お陰で真面目な方にまで影響を受ける結果を招いています。




沼地(湿地帯)




説明板が見えてきました




土塁下の水路 水堀跡でしょうか




沼地に繁茂するのは葦でしょうか(草植物の知識がありません)




一夜堤の前あたりはだいぶ水が溜まっています




北条軍が一夜にして築いた土橋との伝承がある一夜堤




土橋(一夜堤)上にある「石戸城と一夜堤」説明板




一夜堤北側の沼地の模様




一夜堤南側も湿地帯 当然ですよねひとつの沼地を土橋で分断されただけですから




一夜堤を反対方向から見てみました




五の郭脇から城跡南部にある石戸宿を見ています
石戸城が機能していたころからある宿で、城と宿が一体となっていました。またこの道は松山に向う交通の要衝です。




石戸宿の鎮守 天神社




桜堤と石戸城




運動公園からみた石戸城

攻城日:平成30年(2018)4月17日(火)他

箕田館(埼玉県鴻巣市)

2018年04月25日 | 100名城以外の城館跡


城 名:箕田館(みだやかた)
別 名:殿山・箕田氏館
形 態:平城
時 期:平安時代
築城主:源仕(みなもとのつこう)
城 主:箕田氏(源任・源宛・渡辺綱)
遺 構:なし
指 定:県指定旧跡(伝箕田館跡 昭和36年(1961)9月1日指定)
現 状:住宅地
所在地:埼玉県鴻巣市箕田

嵯峨源氏箕田氏の発祥の地とされ、箕田氏3代(源任・源宛・渡辺綱)の館があったと推定されている地を訪ねてみました。




源仕が勧請した八幡社(現・氷川八幡神社)の鳥居横に道路に面して設置されている「氷川八幡社と箕田源氏」説明板 
この右側には「こうのす歴史を描く」という案内板も設置されています。
説明板の大きさが分るよう敢えて斜めからの写真を載せてみましたが、大きな説明板は箕田源氏発祥の地であることのアピー
ルでもあるのかと勝手に解釈しておきます。




正面からですが、ちょっと読みづらいかもしれませんがご勘弁を。




上記説明板に、箕田の鎮守であった八幡社と同じ村内にあった氷川社を合祀して現在の社名となったとあります。
この社号標は氷川八幡と縦書きにせず、氷川と八幡を並記しています。合併でいうところの吸収合併ではなく対等合併なんで
すよということを表しているのだろうとこれまた勝手に解釈して見ました。本題から外れた話ばかりで済みません。




鴻巣市指定文化財 箕田碑の標柱  
箕田碑は社殿脇にありますが、標柱はこのように道路から見える場所に建てられています。




手水舎と神楽殿




社殿




氷川八幡神社の社紋は(源)渡辺氏の家紋でる「三ツ星に一文字」で「渡辺星」とも呼ばれる。
三つ星はオリオン座の中央に並ぶ三ツ星からの由来で敵に打ち勝つという意味が込められ、一文字は、戦場における一番槍、
一番乗りを意味しているとのこと。




箕田氷川八幡神社御由緒
道路沿いの説明板にもありましたが、源仕が源経基と相談し、現在地に京都の石清水八幡宮から分霊して八幡社を勧請したと
あります。




箕田碑




箕田碑説明板




覆屋の囲いで碑文の撮影は無理でした




氷川八幡神社の裏にある渡邊綱が祖父源仕・父源宛の菩提を弔うために建立した宝持寺




当ブログお約束の六地蔵尊




鐘楼




薬師堂




一休さんがこんなところで昼寝をしています。確か一休さんは臨済宗のお寺の坊さんの筈ですが、ここ宝持寺は曹洞宗です。




本堂  




寺紋は当然ながら「三ツ星に一文字」




新本堂建設記念碑の碑文の初めに、渡邊綱が祖父(箕田源氏の祖源仕)・父(源宛)の菩提を弔うために建立したとあります。




嵯峨源氏供養塔
「嵯峨源氏先祖代々之精霊菩提」とあり、嵯峨源氏顕彰会、全国渡辺(部)会の方々によって建立されたもののようです。




嵯峨源氏渡邉(部)士関係系譜




嵯峨源氏渡邉(部)士関係系譜の裏面  玉垣があり全体は撮れません




氷川八幡神社の北方にある氷川神社 小規模の円墳箕田二号墳の墳頂に小さな社がある神社です。
箕田二号墳はサンシ塚は三士塚(別名:三氏塚)とも呼ばれ、源任と妻子の墓とする古記述があるとのですが、時代が合わな
いようです。
このサンシ塚の南側一帯、つまり、ここから氷川八幡神社の間にかけて箕田館はあったと推定されている。また、この地を殿
山とも言うようです。しかしあくまでも館跡であったというのは伝であって、埼玉県指定旧跡となっていますが、その名称は
「伝箕田氏館跡」で指定されています。また、館跡を偲ばせるものはありません




鳥居と社額




箕田古墳群・箕田二号墳の説明板




墳丘  たいした高さはないものの石段が設けられています。




同上




社(祠)




氷川神社(サンシ塚)と十字路を挟んでほぼ西側にある満願寺
この満願寺の南側に箕田館はあったとも言われるようですが、サンシ塚の南側とほぼ同一でしょう。
当寺は、創建年代不詳なるも、源経基が創建したとも、源義家の家臣若林某が住んだ地ともいい、鎌倉時代以前からの言い伝
えが残る源氏所縁の寺のようです。
因みに満願寺の山号は若林山と号しています。




この満願寺にも一休さんがいました。宝持寺の一休さんと見た目はほぼ同じですが、表情に微妙な違いがあります。
ここは真言宗豊山派のお寺です。一休の属する臨済宗のお寺で昼寝するわけにはいかないと他宗のお寺で(冗談)




地図で見ますと関係社寺の位置関係がよくわかります。社寺それぞれの創建の謂れ等からしてこの辺りに箕田館があったのは
確かなように思えます。

散策日:平成30年(2018)4月14日(土)・15日(日)

安達盛長館(埼玉県鴻巣市)

2018年04月24日 | 100名城以外の城館跡


城 名:安達盛長館(あだちもりながやかた)
別 名:―
時 期:鎌倉時代?
城 主:安達藤九郎盛長
遺 構:―
指 定:―
現 状:河川敷、放光寺
所在地:埼玉県鴻巣市糠田

安達藤九郎盛長は、源頼朝の乳母比企尼の娘婿で、頼朝が伊豆の蛭ヶ小島に島流しにされた際に仕えたのが側近の盛長であっ
たと言います。
安達盛長が、武蔵国足立郡(現在の鴻巣市)周辺に住んでいたのは源頼朝の側近となる以前のことで、荒川の堤防の内側の野
球グランドあたりだったとされています。その館跡の一角に、源頼朝の無事を祈願するために創建したのが放光寺と伝えられ
ます。
放光寺の本堂に盛長の木像が残されていること、境内にその墓と称する墓石があることから、この周囲を安達盛長館として伝
えているようです。
なお、「鴻巣市史」によればこの付近の館跡の主については足立郡糠田(鴻巣市糠田)を本領とする在地領主奴加田氏を比定
しているとようです。




放光寺




「埼玉県指定有形文化財(彫刻) 木造安達藤九郎盛長坐像  平成元年3月17日指定」説明板

ここ(略)放光寺の開基は、源頼朝の御旗奉行を務めた安達藤九郎盛長とされる古刹で、本堂にはこの盛長の坐像が安置されて
いる。(略)
安達藤九郎盛長は治承4年(1180)源頼朝の挙兵に応え、相模の国で功を挙げ、同国を安堵された。その後、盛長の所領は
相模・下総・武蔵にまで及んだ。さらに建久5年(1194)には頼朝の信任をうけて鶴岡八幡宮の奉行人となった。正治元年
(1199)1月の頼朝の死後出家したが、その後も北条時政や大江広元等とともに、重要訴訟の調査・裁決などに係わるなど
幕府の要職にあり、三河の守護にも就いた。正治2年(1200)死去した。
                                 埼玉県教育委員会  鴻巣市教育委員会

とありますが、館跡に関する記述は見られません。




本堂




盛長公之墓所




盛長公の墓の石碑の右にある小さな墓が盛長の墓のようです 




安達氏一族之供養塔

まだまだはっきりしないことが多いですが、何れにしろこの放光寺を含む周辺に何れかの者の館があったのは確かなようです。

散策日:平成30年(2018)4月15日(日)

川田谷陣屋(埼玉県桶川市)

2018年04月23日 | 100名城以外の城館跡


城 名:川田谷陣屋(かわたやじんや)
別 名:牧野氏陣屋
形 態:陣屋
時 期:天正18年(1590)
築城主:牧野半右衛門康成
城 主:牧野氏
遺 構:―
指 定:―
現 状:高速道路
所在地:埼玉県桶川市川田谷字大平

牧野半右衛門康成は、天正18年(1590)徳川家康の関東入部に従って足立郡石戸(川田谷村ほか7ヶ村)に五千石を賜り、
川田谷に陣屋を構えた。康成の子、信成は関が原の戦い、大坂の陣の戦功により寛永10年(1633)1万1千石の石戸藩主と
なる。正保元年(1644)信成が下総関宿藩に転封になり、石戸領は信成の子、3人によって分割され旗本領となる。
寛政期江戸に於ける旗本屋敷割により当主は江戸詰となり、幕府財政建て直しにより旗本陣屋の必要性が無くなり、牧野陣屋
も廃された。

陣屋があったとされる場所は現在、圏央道の桶川・北本インターとなっており遺構は残っていません。料金所の東下に取り残
されていた薬師堂は、同所から100m程離れた現在の場所に新しくお堂を建てて、石仏等とともに移転してきたようです。




薬師堂があった場所には高速道の側道が走っています。




方向を変えて




一緒に移転してきた石仏群




鴻巣市の勝願寺にある牧野氏累代の墓 残念ながら見ることはできません




墓所前にある説明板

散策日:平成30年(2018)4月17日(火)

石戸館(埼玉県北本市)

2018年04月22日 | 100名城以外の城館跡


城 名:石戸館(いしどやかた)
別 名:堀の内館
形 態:館
時 期:不詳
築城主:不詳
城 主:石戸左衛門尉(あるいは源範頼?)
遺 構:土塁・堀跡
指 定:―
現 状:石戸神社
所在地:埼玉県北本市石戸宿

鎌倉幕府の御家人・石戸左衛門尉のあるいは源頼朝の異母弟源範頼の館跡跡と伝わる石戸神社を訪ねてみました。
実際のところは詳細不明です。




石戸神社はちょっとわかりにくい所に所在していますので、初めて行ったときは中々見つかりませんでした(こう書くと複数
回行ったことがバレバレですが)




石戸神社鳥居と社号標石柱




社殿




石戸神社由緒書
この中に、蒲冠者範頼(源範頼)がこの地に配流になった折、息女の亀御膳が病に罹り亡くなった。その追稿により堂を建て
たのが始まりと言われる。とあります。また、この時建立したお堂である阿弥陀堂が、高尾にある阿弥陀堂だといった話もあ
るようですす。
同じ北本市の高尾にある阿弥陀堂にある亀御前の供養塔についての説明では、亀御前は源範頼の奥方で、範頼が伊豆修善寺で
非業の死を遂げた際、夫の死を知った亀御前は悲しみのあまり荒川に身を投げたという。とあります
また、直ぐ近くの吉見町に居館のあった範頼がここ石戸を住居の地ともというくだりも、吉見と石戸は近いが故にの思い違い
かとも考えられないではありません。
ひとつの伝承でさえ信憑性を疑ってしまうこともままありますが、複数あると相互間に矛盾があるのが常のようです。




鳥居脇の「石戸神社」の社号標石柱の側面に、「鎌倉暁将 石戸左衛門尉館跡」と刻まれています




裏面には昭和十三年二月建立とあります




社殿裏の雑木林の中に土塁(土壇)があり祠が2社鎮座しています




角度を変えて




土塁下の空堀




現在の深さは深い所で2mくらいでしょうか

石戸左衛門尉の居館であったのか源範頼の居館であったのかは定かではありませんが、こうした遺構から見るにそれなりの身
分の者の居館があったのは確かなことのようです。

散策日:平成30年(2018)4月14日(土)他

大宮館(埼玉県北本市)

2018年04月21日 | 100名城以外の城館跡


城 名:大宮館(おおみややかた)
別 名:阿弥陀堂遺跡
形 態:館
時 期:不詳
築城主:不詳
城 主:不詳
遺 構:堀跡(埋戻し)
指 定:―
現 状:阿弥陀堂、公園
所在地:埼玉県北本市高尾6丁目

舌状の大宮台地の最高所に位置し、西に荒川を望み、鎌倉街道の枝道が南の石戸郷から北上してくる交通の要衝であった場所
に中世の館跡とみられる遺構が発掘され、同所の小字名から名づけられた「大宮館」跡を訪ねてきました。
築城者や歴史等諸々まだまだ不詳ですが今後の研究調査に期待したいものです。



「阿弥陀堂遺跡と大宮館」説明板




説明板より「第二次調査全側図」を




説明板より「A堀全景写真」を




上掲「第二次調査全測図」左側(西側)の【住居跡(古墳時代)】・【大形竪穴状遺構(室町時代)】とされる辺り




同じく「第二次調査全測図」右側(東側)の【堀跡】から【住居跡(古墳時代)】とされる辺り

このように遺構の一部は埋め戻して現状保存して公園駐車場になっています。




阿弥陀堂
小字名をとって「大宮館」と名づけられた中世の館跡の館域にこの阿弥陀堂や高尾桜公園なども含まれているようです。




阿弥陀堂の二層の鐘撞堂




本堂




北本七福神めぐりポイント「布袋尊(大きい袋をかつぐ福徳円満の神)」




墓地内にある樹齢約200年のエドヒガンザクラ(北本市指定天然記念物) 幹の下の部分だけで済みません。




亀御前の供養塔




亀御前の供養塔説明板
源範頼の居館は比企郡吉見町にある今の息障院だったとされています。ここ北本市高尾は元は北足立郡でした。吉見町と高尾
は、比企郡と北足立郡と郡名が違うことから一見離れた場所に感じますが、この阿弥陀堂の裏(西側)を流れる荒川を渡れば
直ぐに吉見町ですから、源範頼の奥方である亀御前がこの荒川を知っていたのはごく自然でしょう。
また、北本市や吉見町周辺には範頼にかかわる伝承の場所が複数あります。

と、こう書いたまでは良いのですが、この阿弥陀堂について調べてみますと、かつては西龜山無量寺泉蔵院と号す真言宗寺院
の一堂宇で、同じ北本市の石戸宿にあったもの。亀御前は源範頼の奥方ではなく息女。死についてもこの説明板に書かれた自
死ではなく病死とするもの等、諸説あり何が正しいのか分りませんが何れにしても伝承ですし、色々書くとややこしくなりま
すので、折を見て整理してみたいかとも思います。




寛政11年建立の亀御前供養塔 いわゆる復刻版ですね




高尾さくら公園の八重桜(関山でしょう) ちょっと盛りは過ぎていたようですが、何名かの方が花を愛でに来ていました。




同上




同上

この高尾さくら公園は発掘されたが行われた場所より低い場所にあります。この西側を荒川が流れています。


散策日:平成30年(2018)4月15日(日)

小谷城(埼玉県鴻巣市)

2018年04月20日 | 100名城以外の城館跡


城 名:小谷城(こやじょう)
別 名:―
形 態:砦
時 期:不詳
城 主:不詳(小宮山内膳・小宮山弾正?)
遺 構:―
指 定:―
現 状:河川敷耕地、住宅地
所在地:埼玉鴻巣市小谷(旧・北足立郡吹上町)

「小谷城」と言えば、滋賀県長浜市にある浅井氏の居城であった小谷城(おだにじょう)がメジャーです。日本五大山城のひ
とつに数えられ国指定史跡でもあり、戦国ドラマにはよく登場する城です。
一方、この小谷城は「こやじょう」と読み、小屋城から転じたともいわれるようですが、はっきり言って小谷城(おだにじょ
う)と比較するにも値しないようなマイナーな城跡です(失礼)。そんなマイナーな城跡って、その界隈の方たちには意外に
人気があるものです。




前々からこの小谷城(こやじょう)の存在については知っていましたが、説明板がある位置が今一つはっきりしませんでした
ので訪ねることを躊躇していました。とにかく小谷と言う場所の堤防に行ってみようと適当に行って、堤防上を少し歩いたと
ころ運よく説明板を見つけたという次第でした。もし、逆方向を歩いていたら見つからずに諦めて帰ってきたことでしょう。




堤防上に設置されている小谷城跡の説明板
城跡と言っても何も遺っていないが同然の場所にこうした説明板があることはありがたいことです
合併前の吹上町の教育委員会が設置したようです




詳しい説明文です




このように2通り地図を並べていただくことで場所の把握が容易になります。親切な案内板です。




堤防上から見た城跡の一部です




宝勝寺




金乗寺




日枝神社




日枝神社の由緒書 
この中に、日枝神社は小谷城跡から見て東北の方角にあるため、城の鬼門除けとして祀られた社との見方もある」と小谷城跡
に関する記述があります。




堤防上から地図に書かれた鎧塚、元屋敷などと呼ばれる場所はどの辺りかと見てみましたが分りません。




堀跡のようにも見えますが、耕地は色々と手が入っていることでしょうから果たして。




度重なる洪水や堤防の補強等で遺構と呼べるものはないような状態です。地元の方でもいればある程度は地名の場所を教えて
いただけたかもしれませんが、この辺り一帯が小谷城のあった所かと眺めるだけにしておきました。

散策日:平成30年(2018)4月14日(土)

加納城(埼玉県桶川市)

2018年04月19日 | 100名城以外の城館跡


城 名:加納城(かのうじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:室町時代から戦国期か
城 主:本木氏?
遺 構:土塁、空堀
指 定:市指定史跡(平成9年(1997)10月1日指定)
現 状:一部を残し住宅地
所在地:埼玉県桶川市加納

中世の平城跡である桶川市の加納城を訪ねてきました。城跡に関することは現地の説明板にありますで写真を載せておきます。
南北約210m、東西約200mと推定される城域の大方は住宅地「城跡団地」となり、城跡は僅かに遺るだけです。




加納城跡はこんな住宅地の中にあります  ここではまだ城跡に気づきません




「桶川市指定文化財 加納城跡」と刻まれた石柱があります。石碑と言うまではいかず石標ですね。小さなものですし、生垣
の脇に建っていますのでうっかりすると見落としてしまいそうです。
これが有ると無いとでは城館ファンにとっては大きな違いがあります。城館跡訪問の証しですし・・・




携帯電話の中継塔が建っています。




これも隠れるようにして建っている「桶川市指定文化財 加納城跡」の説明板を見つけました




正面から




説明文




縄張図 上と下を間違ったわけではありません 説明板では北を下にした縄張図ですのであえて北が上にしました
補足のため加筆してあります




全くのおおよそですが、上記縄張図における城域を黄色の線で囲ってみました。赤色の線で囲った部分が加納城跡として現在
残っている部分です。如何に宅地開発が進んでいるか分ります。その分、「城跡団地」という名称で残していますが。




北側部分を東方から西方に観ていますが完全に更地になっています




上の写真の逆方向です 北西隅に遺るこの物見台跡のようなものは土塁の削り残しのようです




西側を北方から南方に見ています




南側の土塁と堀跡を西方から東方に見ています




上記写真の逆方向です  




祠  堀跡の外側(南側)に位置しています  ここの地主さんの氏神様のようです




中央を東西に延びる土塁を南方から




土塁の上です




説明板の縄張図にある  今も残る「おりひずみ」 とはこの道でしょう(もう少し近くで撮ればよかったですね)

どうしたことでしょう。この加納城跡には迷うことなく一発で行けましたし、普通なら見落としていたであろう標柱もすぐに
見つけました。そんな自分が信じられません。まあ、次はいつも通りに迷い迷うことでしょうから。

散策日:平成30年(2018)4月12日(木)