四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

小江戸川越春まつり2015

2015年03月29日 | まつり・イベント


昨28日(土)から「第26回小江戸川越春まつり」が始まり、オープングイベントがありましたので行ってきました。




小江戸川越のシンボル「時の鐘」




蔵造りの町並みには観光客・祭り見学客でいっぱいでした。




旅番組等に何度も登場し、すっかり有名になった「ねこまんま焼おにぎり」には行列が。






蓮馨寺境内の桜も咲き始めていました。
















星野学園マーチングバンド部の高校生による演舞 いつみても「かっこいい」ですね。






鳶の方たちによるはしご乗りの試技






またまた「武蔵越生高校和太鼓部「青龍」」の皆さんの演奏を聴く(観る)機会を得ました。












「川越藩火縄銃鉄砲隊」のみなさん。火縄銃の演武は凄い人気で身動きできないほどの人だかりでした。

他にも数々のイベントが行われましたが時間がかぶったり等ですべてを見学するのは無理でしたので何件かお気に入りを。

散策日:2015年(平成27年)3月28日(土〉           

古河公方館跡(茨城県古河市)

2015年03月20日 | 100名城以外の城館跡


古河公方館 (別名:鴻巣御所 ・ 鴻巣館)  茨城県指定史跡  所在地: 茨城県古河市鴻巣 (古河総合公園)
 
康正元(1455)年、享徳の乱で鎌倉を追われた鎌倉公方足利成氏は古河に身を寄せ館を築きました。これが古河公方館です。
2年後の長禄元(1457)年頃には、古河城を改修して移ったことから館は廃された。
その後の天正18(1590)年には、最後の古河公方足利義氏の娘である氏姫(氏女)の居館となった。寛永(1630)年に、
氏姫の孫にあたる尊信が下野国の喜連川に移ったのちは主を失い、時宗十念寺の寺域となる。

 
現在、当時の建築物は残されていないが、城跡の大半とその周辺は古河総合公園として整備されている。




1km程北に「古河城跡」(古河歴史博物館)があります




古河総合公園案内図  丸印をしたところが古河公方館跡




一応、標識があります。




「史蹟 古河公方館趾」石碑  右後方は移築民家(旧中山家)で、民家園は二ノ曲輪跡で数年前までは十念寺があった。




もうひとつの石碑「古河公方館趾」と「古河公方館趾説明板」 石碑背後の森が「公方様の森」で一ノ曲輪跡




堀切跡




公方様の森から御所沼を




公園内の桃林




まだ咲初めです




3月20日から古河桃まつりが始まるようで準備が整っていました。駐車場も有料に変わるようです。




御所沼に夕日が写る姿を見て帰路に

攻城日:2015年(平成27年)3月17日(火)          

笠間城跡(茨城県笠間市)

2015年03月20日 | 続日本100名城


笠間城(別名:桂城)  山城   茨城県指定史跡   所在地:茨城県笠間市笠間

〔歴史〕
 鎌倉時代、この地域は真言宗の正福寺と徳蔵寺の勢力争いが盛んであり、両寺院の僧兵たちが争っていた。劣勢であった正福寺勢が下野守護宇都宮頼綱に
援軍を求めたところ、頼綱は甥の笠間時朝(塩谷時朝)を派兵した。時朝は元久2年(1205年)、徳蔵寺の僧兵と戦うための拠点として佐白山山麓に麓城を築
城し、徳蔵寺を討った。ところが麓城の規模があまりにも大きかったため、味方のはずの正福寺の僧兵までも時朝に敵対した。時朝は結局正福寺と徳蔵寺を
滅ぼした後、承久元年(1219年、堅固な城を佐白頂上に築城した。これが笠間城の起こりである。その後笠間氏は18代にわたって笠間を治め、南北朝時代の
5代笠間泰朝の時には、南朝に属して勤王の兵を挙げ、北朝の佐竹義春の攻撃を受けたが、籠城戦の末これを撃退している。

 天正18年(1590年)の小田原征伐の際、18代笠間綱家が宗家の宇都宮氏に逆らい後北条氏に組したため、同戦役後宇都宮氏に攻められ滅亡した。その後、
一時宇都宮氏が支配した後蒲生郷成が入城し、この郷成の手により織豊系城郭に改修されたと考えられている。

 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後には松井松平家が入り、その後小笠原氏が入ったが改易されて、ついで戸田松平家が入り、そして永井氏が入った。そ
の後、外様大名の浅野氏が2代、井上氏が2代、本庄氏が2代、再び井上氏が3代入った後、牧野貞通入城以後廃藩まで牧野氏8代が居城した。






「千人溜り跡」  駐車場になっています。 これより上は通行止めですので、この先は徒歩で↑印のところから。




大手門跡




大手門口は桝形?  舗装されていますが土橋と空堀のようです?




大手門跡石垣




写真に入っていませんが、写真左端の少し左側に石段の道がありますのでそこを登って←↑方向に




苔むした石段の登城路




更に角度を変えて石段が数か所続きます




玄関門付近の虎口の石垣




本丸跡 ① 正面(南側)の大きな土塁上に八幡台櫓が築かれていた




本丸跡 ②




本丸跡 ③




本丸東側にある標柱と縄張り図の看板




縄張り図部分をアップしてみましたが・・・




本丸東側部分




笠間城跡石碑




本丸東側の土塁




八幡台櫓跡石碑




八幡台櫓跡のある土塁




本丸西端の宍ヶ崎櫓跡




本丸と天守曲輪との間にある横堀




東日本大震災により、天守曲輪の石垣や石段が崩壊し、天守曲輪跡へは立入り禁止で、ロープが張られて「立ち入り禁止」の札が下がっている筈。
しかし、なぜか訪問時は「頭上注意」の立札だけでしたが、危険なことに変わりはないので「笠間城天守跡」石碑だけを記念に・・・




「笠間城天主跡」石碑



井戸跡  屋根は少し離れたところに倒れていました




山を下りて「真浄寺」に向かい、移築され仏堂として使われている「八幡台櫓」を見に




八幡台櫓

笠間城は関東では珍しい石垣の城。天守の石垣や石段が東日本大震災により崩れてしまい天守曲輪跡は立ち入り禁止になっているとの情報は掴んでいました。果たして
修復されるのか、修復されるとしてもいつになるか分らない状態で待っていても仕方ありません。笠間城の一番の見どころである天守台の石垣を見られないのは残念でし
たが、逆井城跡を再興上したその足で笠間城跡を訪ねてみました。石倉は怖くて行けませんでしたし、市内の民家に移築されている城門も見ずに帰ってきましたが、
笠間城跡へ行ってきたという事実だけで満足しましょう。

攻城日:2015年(平成27年)3月17日(火) 続日本100名城選定前          

逆井城跡(茨城県坂東市)

2015年03月19日 | 100名城以外の城館跡


逆井城(別名:飯沼城)  平城  県指定史跡    所在地:茨城県坂東市逆井

築城年代は定かではないが宝徳2年(1450年)頃に逆井常宗によって築かれたと云われる。 逆井氏は小山義政の五男常宗が逆井に城を築いて
逆井氏を名乗ったことに始まる。

天文5年(1536年)逆井常繁は小田原北条家臣大道寺駿河守と筑波で合戦し、討死したと云われるが、この合戦については疑問がもたれている。

天正5年(1577年)頃には小田原北条氏の属城となり、北条氏繁が城主となって城を改修するが、天正6年(1578年)氏繁は「飯沼の城」(逆井城
とみられている)で没し、氏舜が城代となる。天正8年(1580年)には北条氏勝が城代となるが、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で
北条氏は滅亡し、廃城となった。

                         (以上は【城郭放浪記】さんの「下総・逆井城」の項から引用させていただきました)




現在は「茨城県坂東市」になりましたが、以前は「茨城県猿島郡猿島町」でした




坂東市教育委員会発行のリーフレット「逆井城」に載っている見取図を借用 元図からイラストと〇数字を消去してあります




逆井城跡公園入口にある標柱




公園駐車場付近にある縄張図




城跡南側からの全景 入江の水面に櫓、塀が映っています




井楼櫓




二層櫓




大手口と二層櫓




城内からの二層櫓




二層櫓と平櫓




二層櫓説明板




二層櫓内部




二層櫓回廊から平櫓・井楼矢倉・主殿を望む




平櫓




井楼矢倉




後北条(小田原北条)氏の城であったことを「三鱗」で




櫓の一部が腐ってしまい現在修理中 足場が組まれているので絵にならずちょっと残念でした




井楼矢倉説明板




西外濠




関宿城門(移築)




関宿城門説明板




主殿




主殿説明板




観音堂(移築・復元)




観音堂説明板




大堀




鐘堀池




鐘堀池説明板




一曲輪(本丸) ①




一曲輪(本丸) ②




一曲輪(本丸) ③




櫓門




櫓門と橋




櫓門・橋説明板




逆井城跡石碑




一曲輪(本丸)と東二曲輪の間の比高二重土塁




東二曲輪




西仁連川




飯沼




東三曲輪の井楼矢倉 やはり修理中で足場が組まれていました




東三曲輪




横矢




横矢掛り説明板




東二曲輪の比較二重土塁 ①




東二曲輪の比較二重土塁 ②




比較二重土塁説明板




桜祭りが始まるようで提灯が吊るされました

この逆井城跡は2010年1月以来の再攻城でしたが、模擬建物とはいえ戦国ッ時代の城とはこんなものだったのかと非常に興味を持たせてくれます。機会あればまた訪れたいとさえ思っています。

攻城日:2015年(平成27年)3月17日(火)            

鷲城跡(栃木県小山市)

2015年03月15日 | 100名城以外の城館跡


鷲城

鷲城(わしじょう)は下野国小山荘(現在の栃木県小山市外城)にあった日本の城。
城跡は、中久喜城跡、祇園城跡とともに「小山氏城跡」として、国の史跡に指定されている。

築城年代は不明。小山氏は、鎌倉時代以来下野国の守護に任じられ、中世を通じて下野国最大の豪族であった。鷲城は中久喜城、祇園城とな
らび、小山氏の主要な居城であるとともに、1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった小山義政の乱において本城としての
役割を果たした。乱における小山方の拠点として文献資料に記されたのは、鷲城のほか、岩壺城(中久喜城)、新々城、祇園城、宿城がある。

今日櫓台、土塁、堀の痕跡が残っている。本丸には鷲神社がある。外城は宅地化され、地名となっている。小山総合公園が隣接している。
                                            
                                               【 Wikipedia 鷲城 】 から引用




「鷲城跡」では地図に載っていません?




国道4号線沿いにある標識に従って




小山総合公園近くにあるというだけでどこにあるか分らず案内板を見ると なんと!!
まったく下調べをしないで出かけたものですから・・・いつものことですが




この樹木のこんもりしたところが鷲城跡のようです




麓を歩いて虎口を探しました




ここから城跡にいけそうでしたので




右折して進むと深い堀底




かなりの高さがあります




竹藪の反対側(右側)は住宅地になっていましたが外城跡のようです?




先程の堀底に引き返し更に進むと




虎口




中城跡 ①




中城跡 ②




横矢




土塁の向こう側は鷲神社の参道




鷲神社




鷲神社

この「鷲城跡」に限ったことではないのですが、きちんと下調べをして行かないと大変の思いをすると分っていながら行けばどうにか
なるだろうと何の準備もなく出かけてしまいます。
今回の「鷲城跡」については、「小山総合公園」「鷲神社」という2点だけをキーワードにして軽い気持ちで出かけてしまいました。
総合公園はどうにか分ったものの、公園のどのあたりに「鷲城跡」あるのか分らず公園の案内板で「至 鷲城跡」の文字を見つけて
どうにか辿り着くことはできました。しかし、場所同様に城跡の規模等が分っていませんでしたから、
鷲城城跡碑や案内板等も分らぬままに帰ってきてしまったという有様です。
帰宅後、調べてみましたら城跡碑等のある場所の近くまで行っていたことが判明。ならば、先に調べてから出かけろと・・・

攻城日 2015年(平成27年)3月13日(金)            

祇園城-小山城-跡(栃木県小山市)

2015年03月14日 | 100名城以外の城館跡


【祇園城跡(小山城跡)】

小山城(おやまじょう)は栃木県小山市城山町(下野国都賀郡小山)にあった日本の城。別名は祇園城(ぎおんじょう)。地元では
主に祇園城と呼ばれている。城跡は、祇園城跡の名称で中久喜城跡、鷲城跡とともに小山氏城跡として、国の史跡に指定されている。


〔歴史・沿革〕 
小山城は、1148年(久安4年)に小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し
藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。

小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、
南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて
起こった小山義政の乱では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が
小山城と考えられている。小山氏は義政の乱で鎌倉府により追討され断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した。

その後は、代々小山氏の居城であったが、天正4年(1576年)に小山秀綱が北条氏に降伏して開城し、
北条氏の手によって改修され、北関東攻略の拠点となっている。

小田原征伐ののち、1602年(慶長12年)頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、
正純は1619年(元和5年)に宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。
                                       【 Wikipedia 小山城(下野国)】から引用




地図上は「小山城」となっています




城山公園としての表入口?




「史跡 祗園城跡」案内板  ここに祗園城跡と表示されていることからこのブログではこの名称にしました




曲輪名については、塚田郭・中久保郭などと呼ばれたり、色々な呼ばれ方をしているようですがここでは便宜的に仮称




城山公園碑です。城跡碑とか城址碑ではないのがちょっと残念な気がします。




本曲輪から見た「思川」




本曲輪の状態(一部ですが) ①




本曲輪 ②




史跡説明板  昭和時代のもの




本曲輪土塁 ①




本曲輪土塁 ②




本曲輪から馬出を見る




「祇園橋」  祇園城の象徴ですね




祇園橋下の空堀  (旧結城道)




二曲輪 ①




二曲輪にある大銀杏




二曲輪から見た祇園橋




二曲輪 ②  一部遊具場になっています




二曲輪の土塁




二曲輪の空堀




馬出




馬出小口




二曲輪と三曲輪を結ぶ橋




空堀 ①




空堀 ②




三曲輪




三曲輪の土塁




三曲輪と外曲輪の間の空堀




外曲輪にある天翁院




小山氏累代の墓所




初代小山政光之碑   小山政光について詳しく書かれています




外曲輪 (一部ですが)




外曲輪の馬出? 手前が土橋?




空堀

攻城日:2015年(平成27年)3月12日(金)           

皆川城跡(栃木県栃木市)

2015年03月13日 | 100名城以外の城館跡


皆川城 (別名:法螺貝城)  栃木市指定史跡  所在地:栃木県栃木市皆川城内町

皆川城は、寛喜年間(1229~1232年)に長沼宗員によって築城されたと云われ皆川氏を称し6代続いたが、皆川氏は元享3(1323)年には断絶している。
この時の皆川城はこれは近くの別の場所にあったと推察される。現在残る皆川城が築城されたのは応永23(1416)年)~永享12(1440)年)の間であるとされる。

大永3(1523)年の宇都宮忠綱との間で起きた川原田合戦で城主・皆川宗成と、弟で平川城主の成明が討死した。

天正12(1548)年には北条氏政・氏直父子が1800余の大軍で来襲し、3ヶ月に渡る大激戦の末に和議を結び、皆川広照は事実上北条氏の傘下に入った。
この結果、天正18(1590)年の小田原征伐で皆川広照は小田原城に籠城したが、徳川家康を介して秀吉に降り助命された。

天正19(1591)年、皆川広照は栃木城を築いて居城としたが、家康の六男松平忠輝の家老となり、忠輝が信濃国川中島へ移るに従い信濃国飯山へ転封となった。






佐野市方向から進行し左手に皆川城跡を見たものの入口が分らずそのまま遠くまで進行してしまい、コンビニで場所(入口)をお聞きしてUターン。
お教えていただいた看板を右折して。佐野方向からではこの看板は見えませんでしたので・・・




栃木市皆川公民館(栃木市役所皆川出張所) かつてここに居館があったそうです




公民館裏手にある皆川城跡についての説明板




公民館裏の道路 ここもかつては帯郭だったのでしょうか




皆川城址公園案内図 




皆川城址公園案内図の中の「皆川城復元模型図」をアップ




土塁  通路としても使われているようです。




竪堀




ちょっと皆川城跡全容を    と言うほどでもないか




切岸?  詳細な案内図がないので表現は適当になります。 以下同じ




この辺りから攻城しますか




桝形




竪堀  中間あたりでしょうか




竪堀  下から見てみました




竪堀  上の方から




竪堀  上から  「く」の字になっています




腰曲輪でしょうか?




ここもやはり腰曲輪?




(左)西の丸跡  (右)二の曲輪(お花畑)跡




西の丸跡




西の丸の上




二の曲輪(お花畑)跡




本丸(一の曲輪)跡へ




本丸跡   木製の櫓だったら絵になったのに・・・  まあ城址公園としての見晴らし台でしょうし、耐久性安全性を考えれば・・・




皆川城跡碑  正面から撮るには狭すぎます   栃木 指定史跡とありますが 栃木の次の文字が消されていますが




皆川城についての案内板




縄張図




本丸跡からの眺望 ①




本丸跡からの眺望 ②




本丸跡からの眺望 ③




本丸跡から見る居館跡




帯郭  何段目かは正しくは失念しましたが上から1段目だったような




腰郭?の井戸を上から




井戸




井戸のある曲輪跡(腰曲輪)




帯曲輪




帯曲輪  上から3段目?  この広さだと腰曲輪と呼んだ方がよいかも




本丸跡を見上げてみました




梅林




紅梅と本丸跡をコラボしてみました




居館跡の土塁

いくつかの城跡を訪ね歩いていますが、帯(腰)曲輪が幾重にも廻っている城跡は大変珍しいものです。法螺貝城とは言い得ていますね。
竪堀を下から見ていたとき、犬を散歩中の女性とお会いしましたので少しお話をさせていただきました。女性曰く「NPOの方が手入れをしていますが大変なんですよ」と。
そうですよね。手入れをして下さる方がいるからこうして楽しい城跡歩きができるわけですから。

攻城日:2015年(平成27年)3月10日(火)           

唐沢山城跡(栃木県佐野市)

2015年03月12日 | 続日本100名城


唐沢山城 別名:根古屋城・栃本城・牛ヶ城  国指定史跡(平成26年3月18日指定)  所在:栃木県佐野市富士町

唐沢山城は関東七名城の一つに数えられ、関東では珍しい石垣がある中世の城跡として有名です。
城は、平将門の乱の鎮圧に活躍した藤原秀郷が天慶3(940)年に築城したとされます。その後、しばらく廃城となっていた
唐沢山城を、秀郷の子孫とされる佐野氏が再興・改修を行い代々佐野氏の居城とされてきました。 
戦国時代に入っても佐野氏の統治は変わりませんでしたが、上杉謙信の攻撃を受けたり、後北条氏の傘下に組み入れらりたりと巨大勢力の狭間で翻弄しました。
天正18(1590)年の小田原の役で、佐野氏の血をひく房綱が秀吉勢力として戦った戦功で、再び唐沢山の地を安堵、房綱の跡は
秀吉家臣の富田将監の子・信種が佐野信吉として継ぎ、激動の歴史を見た唐沢山に平穏な時代が訪れましたが、平穏は長くは続かず
秀吉の死後、徳川政権に入ると信吉は、佐野城へ移転、唐沢山城は廃城となり、暫くして、理由は諸説あるようですが佐野氏も改易処分を受けてしまいました。
現在、唐沢城跡本丸跡には唐沢山神社の本殿が建立されています。そんな唐沢山城跡を攻めてきました。




唐沢山城は、標高241m・比高200mの唐沢山の山頂に本丸が築かれた山城です。




城門跡前に建立されている「国指定史跡唐沢山城跡」石碑  国指定を受けた後に新しく建立したようです。




駐車場・レストハウス・トイレもあり、山城跡でも麓から攻城しないで済みますので楽です。




唐沢山城の沿革が書かれています




喰い違い小口 (桝形)



天狗岩




天狗岩




天狗岩からの眺望  江戸(東京)方面も見えるとか




唐沢山城祉案内図




「大炊井」  築城の際、厳島大明神に祈願をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとのことである。
深さ9m、直径8mあり、今日まで水が枯れたことはない。




「神橋」  旧名は曳橋 四つ目の堀に架けられていた元は曳橋




四つ目堀




帯郭跡




「三の丸跡」  本城では大きな曲輪で、賓客の応接間があったとされる




武者詰跡




二の丸小口




「二の丸跡」  奥にあるのは神楽殿




二の丸跡から本丸跡(唐沢山神社本殿)へ




「本丸跡」  右の社が本殿




「引局跡」(南局跡)  かつては奥女中の詰所であったとも




唐沢山神社




唐沢山神社由緒板




本丸南斜面の高石垣と表御殿跡 ①




本丸南斜面の高石垣と表御殿跡 ②




高石垣




三つ目堀




「さくらの馬場跡」  昔、武士が馬を訓練した場所




「南城跡」 ①  手前は社務所




「南城跡」 ②




南城跡について




南城跡からの眺望 ①




南城跡からの眺望 ②  東京スカイツリーや東京タワーも見えるとのことでしたが残念ながら




南城跡の石垣  




南城跡の石垣  一つ目堀  物見櫓跡




車井戸




「長門丸跡」(お花畑跡)  弓道場として使われている?




「金の丸跡」   今は、金の丸ロッジのようだが使われていない様子




御姫御殿跡  唐沢青年の家があったようだが今は更地に




堀切




北城跡?




大手門跡




鏡石

攻城日:2015年(平成27年)3月10日(火) 続日本100名城選定前          

高見城跡(埼玉県小川町)

2015年03月06日 | 100名城以外の城館跡


高見城 (別名: 四津山城・四ツ山城) 県指定史跡     所在地:埼玉県小川町高見

標高197m 比高100mの山に築かれた山城 で、山頂部が4つに括れていることから四津山と呼ばれる独立丘陵上の山頂に築かれています。

築城年代は定かではないようですが、青山城主青木氏久の家臣であったという石井九郎右衛門政綱によって治承4年(1180))築かれたと云われています。
文明年間(1469~1487年)頃には増田四郎重富の居城となり、長享2年(1488)と延徳3年(1491)には城の眼下の高見ヶ原で扇谷上杉氏と山内上杉氏による合戦が繰り広げられました。

扇谷・山内両上杉家の抗争後も。後北条氏の支配を受け天正18年(1590)の鉢形城と松山城落城まで、眼下を通過する鎌倉街道と宿を抑える役割を担っていたと思われます。






「つなぎの平場」を「二の郭」とし、「二の郭」を「三の郭」、「三の郭」を「四の郭」としている方もおりますが、この攻城記ではこの縄張図の標記に従います。




県道184号線沿いに「四ツ山(高見)城跡」の標識が立っているので矢印方向に道なりに進行します。




「四津山神社」(高見城跡)参道前に着きましたが、駐車場はありませんので空地に。




参道を入ってすぐ「史蹟 高見城跡」の石碑を目にしますが、黒くなっているので見落とす可能性もあります。

石碑裏面には「高見城は鎌倉時代治承4年石井九郎左衛門政綱により四ツ山に築城されたという 
その後文明**年増田四郎重富が再築城したものだと傳えられる 昭和37年10月17日」と刻まれています。




更に進むと右手に「四津山神社再建記念碑」がありますが、その中にも城に関する記述があります。
裏面には奉納者名が列記されていますが「増田」姓の方が多数。増田四朗一族の末裔でしょうか。




長い参道ですから緩いように見えますが実際にはかなりきつい坂道です。トイレあたりまで到達したときは既に「ぜーぜー」状態。
杖が用意してありましたのでお借りして先を進むことに。




石段の手前まで来ました。まずは「犬走り跡」を・・・




この辺りはまだよいのですが・・・




犬走りの途中の「腰郭」です。しかし、この先の犬走り跡は藪でしたので、この後の攻城のことも考え無理をせず引き返すことに。




石段を上がりますが、写真で見るよりは急です。




石段を登り切って右に行くと「腰郭」です。左の石段(男坂)を上がれば直接四津山神社(本郭跡)に。祠の後ろに「女坂」があります。




急な石段です。男坂




「女坂」から攻城しました


i

「本郭」方向と「二の郭・三の郭」方向への分岐点  まずは「二の郭」方向から攻めてみることに




「二の郭跡」 ①




「二の郭跡」 ②




二の郭北端にある「桝形小口」




二の郭と三の郭を遮断する「堀切跡」




「三の郭跡」 ①




「三の郭跡」 ②




三の郭北端下の堀切の土橋から三の郭を  急な斜面ですので杖を突き木の枝を掴みながら降りました




「堀切跡」




三の郭北西にある尾根  先の方まで歩いてみましたが、やはり郭跡ではないようです。




分岐点まで戻ってきました。ここからいよいよ本郭跡を攻めます。




「つなぎの平場」  つなぎの平場 ? 何のことでしょうか




つなぎの平場と本郭の間にある「堀切」




「本郭小口跡」




「本郭跡」 ①   四津山神社と土塁




「本郭跡」 ②




「県指定史跡 四ツ山城跡」の説明(案内)板

え!ちょっと ちょっと待ってくださいよ。




これは2009年5月に攻城したときに撮った案内板です。内容は今のものとそれほど変わりないですが「高見城跡」となっています。

ところが今のものは上記のように「四ツ山城跡」に変わっていました。

「四ツ山城」が「高見城」の別称であることは承知していたことですが、新しい説明板を見る限りでは「四ツ山城」が

主たる(正式)城名ということになったのでしょうか? 道路沿いの標識も「四ツ山(高見)城跡」となっていましたし。

どうも気になってしまい調べてみました。平成15年3月18日 埼玉県教育委員会告示第8号で「種類:史跡 名称および員数:四ツ山城跡」
として史跡指定されていました。これで説明板の城跡名が変わった理由がわかりましたが、高見城の方が名が知れているような気がしますが。

まあ、簡単に言うと、町指定史跡の時は「高見城跡」の名称で指定 県指定に変わってからは「四ツ山城跡」の名称で指定と言うことですね。




本郭跡からの展望 ①  これだけ見晴らしが良ければ・・・




本郭跡からの展望 ②




本郭跡からの展望 ③




急な石段(男坂)を下りて帰陣としますか




石段の途中にある「腰郭」




腰郭はこんな場所に   枯れ枝の後ろの方まで広がっています。


 「高見城跡」も2009年5月以来の再攻城でした。よく整備されていて表示板も設置されていますから歩きやすい城跡です。
 2009年に攻城したときは、ただ城跡に行ってみたいというだけで何の知識もありませんでした。ほんの僅かではありますが
歴史の知識をもって訪れた城跡は、以前と変わらないものであっても、新たな興味と気持ちで攻城が出来ました。

攻城日:2015年(平成27年)3月4日(水)(3月6日一部追記しました)          

越畑城跡(埼玉県嵐山町)

2015年03月05日 | 100名城以外の城館跡


越畑城跡 (埼玉県嵐山町越畑)      * 越畑 = おっぱた

越畑城跡は丘陵の頂に築かれた本郭と二の郭、三の郭の小規模な城です。本郭は頂部縁辺に上幅2m、深さ1mの小規模な空堀を回し、虎口には折りをつけ、食い
違いに造られていました。出土遺物の年代は15世紀後半で杉山城跡と同時期です。城の規模・構造、本郭から検出された狼煙を上げた土坑などから、鎌倉街道を
見下ろす位置に置かれ、砦の役目を果たしていたと考えられています。現在は関越自動車道により大半が消滅し、二の郭の一部と「越畑城址之碑」が残っています。               
                                (埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」から引用)




越畑城跡は関越自動車道の西側にあリますが、西側から攻城することは難しく、自動車道を挟んだ東側から
愛宕歩道橋を渡っていくしかないようです。しかも、この歩道橋の場所を探すのも簡単ではありません。




どうやら着いたようです。これが「愛宕歩道橋」でしょう。




高速道路の上に架かる歩道橋を歩いて僅かに遺っているとされる城跡へ




高速道路の上に架かる歩道橋を渡っている証として・・・




西側に着きましたが凄い藪が目の前に




渡って来た歩道橋を  この下の高速道はかつて本郭が・・・




石段を登って右(関越道下り方向)に折れフェンス沿いに進むも藪だけで、遺構らしきものは見当たりません。




進路を遮るこの藪を潜り抜けて進むとその先に見えるのは高速道。仕方なく引き返しました。




石段のところまで戻り、そのまま高速道上り方向に進むと手入れされた場所に




祠(愛宕神社)がありました。ここが二の郭跡のようです。




削平されているのはこの程度で、予備知識がなければ郭跡とは思いもしないでしょう。




あとはこんな藪ばかりで先に進めませんし、城跡を思わせるものの存在も期待できません。

城跡らしからぬ城跡ならせめて城址碑を見て城跡を訪ねた実感をと思い
碑を探しましたが、見つけることが出来ないまま攻城を終えました。




見つけられなかった城址碑のことが諦めきれず、帰宅後WEBで複数の方の越畑攻城記をみて城址碑が
どこにあるのか調べてみました。それでも中々分らず何回か読み返すうちにやっと場所が分りました。

歩道橋を渡って行った西側でなく、東側にあったのです。黄色のラインを入れてみまし
たが、上まで行ったら今度は下がり少ししたところにありましたので気付かない筈です。




やはり私同様に場所が分らず皆さん苦労したようです。中には3度行っても分らず4度目にはと
いう方もおられました。城跡めぐりにとって、城址碑は攻城の証として欠かせない存在のようです。

ということで、本日4日、城址碑を撮るためだけに行ってきて撮ってきたのがこの写真です。まさかあのような場所にあったとは・・・

攻城日:2015年(平成27年)3月2日(月)・4日(水)