四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

長宗我部元親公初陣の像(高知県高知市)

2012年09月07日 | まち歩き


土佐・高知といえば、山内一豊、坂本龍馬の名が浮かぶ。そして、最近人気が出てきたのが戦国時代から安土桃山時代にかけての武将『長宗我部元親』らしい。
長宗我部元親のひととなりや長宗我部家についてはここでは触れないが、そんな長宗我部元親の初陣の像が市内長浜に建立されているので見学してきた。 






建立の経緯等は現地の案内板に記されているが、元親公没後400年に当たる平成11年5月に建立されたとのこと












正面から見ても、横から見ても、背後から見てもどれも絵になるよう計算されて造られている 




元親公初陣銅像建立寄付者名簿ですが、何かを語るのは控えておきましょう。いや、語ってはいけないでしょう
わかる人には分かる筈ですから 




そしてこれが若宮八幡宮   
土佐の人たちにとって、長宗我部元親・長宗我部家はどんな存在なのでしょう・・・

見学日:2012年(平成24年)8月10日(金)  

丸亀城(香川県丸亀市)

2012年09月06日 | 現存12天守


丸亀城は、丸亀平野の海抜66mの亀山に生駒親正が隠居城として慶長2年(1597)から慶長7年(1602)にかけて築城した。
しかし、元和の一国一城令で丸亀城はいったんは廃城となった。その後入封した山崎家治が寛永19年(1612)から再建に取り掛かったものの、
跡継ぎがなく改易。その後に入った京極氏が城を完成させた。現在見られる天守はこの京極氏がつくったもので、三重の小規模なものながら、
3段に積み上げられた石垣の上に築かれた姿は風格がある。丸亀城は城山全体の石垣がよく残っており、地元では隅櫓や多聞櫓などを加えて、
かつての本丸や二の丸などの主郭部をよみがえらせようとしている。    (「日本100名城公式ガイドブック 78丸亀城」から引用)


丸亀城は、昨夏、高知へ向かう列車が丸亀駅に差し掛かった時、車窓の外に巨大な石垣の上に立つ天守を目にしました。
そう、これが石垣の名城といわれる「丸亀城」でした。車窓からではなく、実際にこの足で丸亀城を攻城したいと思いました。
しかし、急な予定は起てられません。そして1年を経た今夏の高知入りに合わせて攻城計画を起て、念願の丸亀城攻城を果たしました。  




大手一の門(右側の櫓門)・二の門(正面の門)






「大手一の門」  




「見返り坂」と「観光案内所」(左)




「三の丸石垣」




「三の丸跡」  




「戌亥櫓跡」




「石垣」




「二の丸」




「二の丸井戸」




本丸へ




丸亀城「天守」  




「天守」と「本丸跡」




「天守屋根」




天守内部(一部) 




天守から城下を




天守と石垣 



「玄関先御門・番所・御駕籠部屋・長屋」(京極氏の屋敷の表門)  




石垣の上に聳える天守   
  
天守自体は確かに小さなものでしたが、この石垣には圧倒されました。
この丸亀城を攻城したことにより四国にある現存天守4城すべてを攻城できました。

攻城日:2012年(平成24年8月13日(月)            

宇和島城(愛媛県宇和島市)

2012年09月06日 | 現存12天守


宇和島城本丸跡と天守

宇和島城の沿革

戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文十五年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。
その後、天正三年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同十三年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が
城代となった。その後、同十五年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。
文録四年(1595)藤堂高虎が宇和郡七万石に封じられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を
築いて、天主閣以下大小数十の矢倉を構え、同六年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。
慶長十三年(1608)高虎が今治へ転封となり富田信高が入城したが、同十八年(1613)に改易となったので、約一年間幕府の直轄地
となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。慶長十九年(1614)十二月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡十万石に封じられ、
翌元和元年(1615)三月に入城の後宇和島城と改めた。
それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利のとき寛文四年(1664)天守閣以下城郭全部を大修繕を行い、同十一年(1671)に至り完成した。
天守閣は国の重要文化財に、また城域は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。    宇和島市教育委員会   (現地案内板より)




「桑折長屋門」  
この「桑折長屋門」から攻城開始  




この井戸丸方向へのルートは土砂崩れのため閉鎖されていた(立入り禁止のフェンス外側から撮影)
見どころの多い攻城ルートであっただけに残念。別ルート(防災道路)から攻めることに  




別ルート(防災道路)




長門丸門跡付近にあるこの石段を登って行くと本丸跡(天守)に行きますが・・・
直ぐには登らず




南側の麓にある「立ち上り門」を見るために下ります
途中の石垣が崩れており改修中のようでした




「上り立り門」
【児島惟謙】の銅像




先ほどの石段まで戻り登って行きます




「雷門跡」




土砂崩れにより登城道が閉鎖されており、この仮設階段を登って  




「二の丸跡」




二の丸跡から天守を




「本丸跡」






宇和島城「天守」








天守内部




天守から宇和島港を




「長門丸跡」
  
攻城に費やせる時間に制約と、土砂崩れの影響で見ることができなかったこところが多々あったのがちょっと残念な「宇和島城攻城」でした。

攻城日:2012年(平成24年)8月8日(水)                                              

松山城(愛媛県松山市)

2012年09月05日 | 現存12天守


小天守(左側)と大天守(右側) 

松山城は、加藤義明が関ヶ原の戦いの戦功により伊予を与えられ、慶長7年(1602)に築城を開始したことに始まる。標高132mの勝山山頂に本丸をおき、
麓に二の丸と三の丸を設けた平山城である。本丸の天守曲輪を構成する建物の多くは数度にわたる火災により焼失。天守も一度は焼失したものの
嘉永5年(1852)に再建竣工され、この天守が現在も残る。天守と小天守や隅櫓が結ばれた天守群や、櫓、門などが山頂の本丸に並び建っていた。加藤氏の
時代には城は完成せず、蒲生氏を経て松平氏の時代に完成。この松平氏が明治まで続いた。   (「日本100名城公式ガイドブック 81松山城」から引用)  

現存天守12城のひとつであるこの愛媛県松山市にある松山城(伊予松山城 別名:金亀城 勝山城)を今夏、念願が叶い攻城する機会を得た。
松山城の魅力は数多くの櫓や門等の建物や石垣にあるだろう。猛暑の中、汗びっしょりになりながら少しでも多くと頑張ってみたものの、攻城し残したところも多々あった。
こんな素晴らしい城であるから多くの方にこの感動を知ってもらいたく、撮った写真すべてをアップしたいところであるがそうもいかないので何枚か・・・ 




正面に見えるのが「太鼓櫓」 




「戸無門」  




「筒井門」  




「隠門」 




「太鼓門」




「井戸」




「一の門」




「筋鉄門」




「大天守」






「天守内部」




「天守」最上階




天守から「馬具櫓」(手前)と「太鼓櫓」(奥)




「天神櫓」




「紫竹門」




「多聞櫓」




「南隅櫓・十間廊下・北隅櫓」 




「乾門・乾門東続櫓」




城山ロープウェイ乗り場近くにある「加藤義明公銅像」 
  
攻城日:2012年(平成24年)8月7日(火)